「コスパ主義」の背後にひそむ現代日本の根本問題

「コスパ」という言葉はそれ自体コスパの良い言葉だ。たった3文字のゴロの良い言葉で、コストとパフォーマンスという相対立する要素のバランスを一瞬にして把握できる。

休日においしいランチを食べるときも、私は2000円くらいの範囲で、その時食べたいもっともコスパの良いレストランに入る。「コスパ」とは自分のもっているお金の価値を最大にしてくれる言葉である。

この「コスパ」という言葉は若者の間で過剰に使われているという。仕事や恋愛をコスパで選ぶというのは明らかに行きすぎだし、人生をコスパで選ぶなどというのはどうかしている。コスパ教という言葉すらある。明らかな行き過ぎだ。

我々は「コスパ」という言葉、コスパ主義とどう付き合っていけばよいのだろうか。

考えられる選択肢の一覧を出す。下の図をご覧ください。



右下の【OR型】がコスパ主義。コスパ主義は経済的合理性であり、行き過ぎて過剰に使うと浅薄になる。コスパという効率の良さという長所の裏に浅薄さという短所が貼り付いている。長所と短所は裏表の関係。

それと対照的なのが左下の【OR型】の深い真理。深い真理は長期的には実は効率が良くなるが、少なくとも短期的には非効率である場合が多い。深い真理という陽の裏に非効率という陰が貼りついている。これはコスパ主義の逆である。効率が悪い。

選択肢の一つはこの【OR型】で行くという選択肢。浅薄になってもいいから右下のコスパ主義を貫く。これは深い真理を放棄するという選択なので、ありえない。却下である。

左下の【OR型】である深い真理を追って非効率に陥るというのも、危うい。自分に正直であるために大学を中退した私はその傾向がある。効率が悪すぎる。これもあまりお勧めしない。

有力な選択肢のひとつは真ん中の下の【AND型】であるバランス型中庸。現在の若者がコスパ主義の行き過ぎに陥っているのであれば、コスパ主義をある程度抑制し、バランスをとる。恐らくこれが一番よい。そんなに難易度も高くないし、現実的で、良い結果になる。大きな失敗はないだろう。若者のコスパ主義に反対する識者たちは、このバランスの回復を試みているのだと思われる。

しかし真ん中上の【AND型】のハーモニー型中庸も有力な選択肢である。仮にこれを採る場合はコスパ主義をあえて制限しない。コスパ主義を残す。その代わり深い生きた真理を若者に伝える。すると浅薄な経済的合理性に過ぎなかった「コスパ」という言葉が、「深い真理をいかに効率よくかつ最大限に実現するか」という深い意味を帯びた言葉として生まれ変わる。これがハーモニー型中庸を採る方法である。

私自身は、ハーモニー型中庸を採って「コスパ」という言葉を使っている。例えば私は時々ある国や地域の歴史や文化や思想や言語を集中的に勉強することがある。一時期アフリカにはまっていた。リンク→心はアフリカ。そのときアフリカの歴史を学び、アフリカ音楽を聴き、アフリカ料理を食べ、アフリカ文学を読み、アフリカ美術を見て、アフリカ映画を観て、VRでアフリカ旅行を疑似体験して、集中的にアフリカに浸った。それらは当然相乗効果をもたらす。相互につながっているからだ。それぞれのアフリカ文化の単なる総和にとどまらない上位概念であるアフリカ精神が創発する。強烈なアフリカ体験だ。かかる費用は5万円。料理以外は本とCD代だけ。

実際の旅行に行け、と言われればその通り。しかし1か月間仕事を休むのも難しいし、旅費もばかにならない。その間仕事をせずに収入も途絶える。しかし私の方法だと、仕事もしながら金もかけずに旅行に行くのに劣らない強烈な体験ができる。あまり感性の無い人が旅行に行くのと比べれば、100倍くらいの体験はできている。恐らくコスパ的にこの方法がベスト。

金と時間と努力をいかに効率よく活用して最大限に深い真理を体験するかということを常に考えている。これが私の中での「コスパ」という言葉の意味である。深い真理があるからコスパという言葉にも深みが出て、コスパという効率性があるから深い真理が最大限実現できる。深い真理とコスパが補いあい、支えあい、循環している。

コスパという言葉の浅薄さを批判するのもひとつの正しい対応だが、コスパという言葉がせっかく浸透しているなら、それを生かすというのもひとつの方法だ。「コスパ」という言葉に深みを与えてみようというのだ。これがハーモニー型中庸の戦略である。

コスパと深い真理という対立するふたつのもののうち、コスパが「陰」で真理が「陽」とする。コスパという陰が行き過ぎているのであれば、深い真理という陽を足してやる。そうするとマイナスに作用していたコスパという陰が、プラスに作用するようになる。

そもそもコスパという言葉を批判し言葉狩りを行うのは表面的な対応である。もぐら叩きのようなものだ。それは物事の表層しか見ない反応だ。雑草の葉っぱだけを除草するようなもの。問題はもっと深いところにある。

それは現代日本が真理を見失っているということである。大人は若者のコスパ教の浅薄さを批判するが、程度の差はあれ日本人は大人も昔に比べ、真理を見失いつつある。若者が浅薄なコスパ教に走るのもひとつは大人たちが深い真理を若者に提示できないことが原因の一つである。

松下幸之助に次の言葉がある。『一日一話』から引用する。

現代の青年は夢がないとか、生きがいを見失っているとか言うけれども、それは青年自身の問題ばかりでなく、社会の問題、大人の問題ともいえるのではないだろうか。つまり大人というか、その国、その政治が青年たちに生きがいを持たすようにしていない。夢を与えていない。使命感を与えていないのである。
そこに今日の日本の根本問題があるのではないかと思う。

この本は1981年の出版なのでここでいう「現代の青年」は今の50代、60代の人たちを指す。私は1970年代後半生まれなのでそれより年下だ。私自身の経験を思い出すと、若いころ大人たちからたくさん真理を教わった。小学校から高校までもそうだし、とくに大学に入ってからは「これが本当の哲学か・・」とその深さに驚いたものである。

大人たちが若者に深い真理を伝えられるかが非常に重要である。

イーロン・マスクに次の言葉がある。

私は問題の解決策を生み出すのが得意なほうだと思う。ほとんどの人が気づかないことでも、私にははっきりと見える。別に特別なことはしていない。私は物事の真理を見ているが、他の人たちにはそれが難しいのだろう。

さらに次の言葉もある。

私は物事の真理をとても大切にしているし、物事の真理を理解しようと努めている。重要なことだと思う。解決策を見出そうとするとき、真理が本当に、本当に重要だ。

物事の真理を捉えることがビジネスにおいても根本となっていることがわかるだろう。日本人は非常に優秀であり、真理をとらえる能力はあると思う。しかし真理の深さや、「真理がわれわれ一般人の間に生きている感じ」は確かに他のすぐれた国に比べ足りないところがある。それが日本の長い停滞の原因でもある。

コスパ教と日本経済の停滞は、日本に生きた深い真理がないという根本問題のあらわれである。深い真理がないことが親であり、経済の停滞とコスパ教はそのふたつの子であり、兄弟のようなものである。

その解決のためには、どうしても「われわれ大衆の中で生きていて、地に足がついて、分かりやすく、普遍的で、深い思想」が必要になる。そのような思想があればコスパ主義も浅薄な思想にならず、「コスパ」という言葉を「深い真理をいかに効率よく最大限に実現するか」という深みのある言葉にかえることができる。ハーモニー型中庸の実現である。

ではそのような思想を創ることができるかというと、不可能とは言わないが実際はかなり難しい。理想を言うとハーモニー型中庸が一番すぐれている。しかしこれを全国民レベルで実現するのは至難の技である。結局コスパ主義を抑制するバランス型中庸が一番簡単で一番問題がなく効率的で現実的なのである。やや皮肉な結論だが、コスパ主義を批判し抑制するバランス型中庸が実はそれ自体、一番「コスパ」がいいのかもしれない。

■作成日:2023年9月4日

続きは現代日本に普遍的思想を甦らすための私の個人的戦略をご覧ください。

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