かたよっているからこそ個性だ!!あえて中庸をとらない生き方。

中庸をとると物事は自然とうまくいく。大きな失敗もしなくて済む。バランス型中庸の効果は大きい。しかし問題がある。バランス型中庸をとると個性が消えてしまうのだ。かたよっているからこそ個性であってバランスをとり中庸をとると個性が死んでしまう。



図の左下。スピード感のある人だ。スピード感があるのは長所。しかし多くの場合そのような人はその反面せっかちという短所がある。急ぎ過ぎて表面的でわかりやすい解決方法に飛びつく。図の右下。遅い人。のろまであることは短所。しかしその反面着実で根本的な解決を目指すという長所がある。

図の上に書いてあるハーモニー型中庸はAND型である。「速い」AND「遅い」である。良い意味での速さと良い意味での遅さを兼ね備えている。スピード感がありながら根本的な解決を行う。両方の長所を兼ね備える。これは非常に優れている。しかし非常に難易度が高く誰にでもできることではない。

もうひとつの方法はバランス型中庸である。図の下の真ん中。速すぎず遅すぎずちょうどいいバランスをとる。これは白い陽と黒い陰を混ぜ合わせてグレーにする方法。これは無難な方法であり、難易度は高くなく、うまく行くことが多い。もともと「速すぎず遅すぎず」の性格の人ならバランス型中庸を採るのはとても良い。しかしもともと速い性格の人、もしくは遅い性格の人がバランス型中庸をとると個性が死んでしまう可能性がある。バランス型中庸を選ぶべきかは再考の余地がある。

たとえばアインシュタインは若い頃「のろま」と言われていた。学習スピードが遅かった。しかしその反面、彼は着実に深く知識を身に着けたという。もしアインシュタインが「のろま」だからと言ってスピードを身につけるよう誰かが指導していたら、アインシュタインはその天才性を失っていたかもしれない。

儒教は中庸を重んじるあまり、偏った個性を殺す傾向にある。実際歴史において数多くの個性を殺してきた。中庸という思想は優れている。しかし優れているからこそ中庸の思想が行き過ぎ、多くの個性を殺してきたのである。「中庸の思想が行き過ぎる」というのは、なんだか逆説的ではあるが、そういう時代はあった。

ハーモニー型中庸やバランス型中庸というAND型の中庸が大事なのは事実である。しかし場合によってはあえてOR型で行くという選択肢もある。



OR型は上の図に記載している「スピード・せっかち」型と「着実・のろま」型である。何でも素早く物事を処理するが、余り物事を根本的に捉えず、表面的な分かりやすい対策に飛びつく人は「スピード・せっかち」型のOR型である。着実で根本的に物事を考えるが、のろまで物事の処理が遅い人もOR型である。バランスなど取らずあえてOR型で行くと個性を殺さなくて済む。

OR型にはもちろん問題がある。偏っていて欠点があるという点だ。ハーモニー型中庸の人はその分野に関しては欠点がほとんどない。バランス型中庸は欠点が少ない。しかしOR型は長所もあるが短所もある。長所が短所で短所が長所になる。スピードという長所がせっかちという短所でもある。表裏の関係。

OR型は短所がある。ではどうすればいいか。『老子』第七十一章から引用する。

書下し文
聖人の病あらざるは、その病を病とするを以てなり。
それ唯だ病を病とす。是を以て病あらず。

現代語訳
聖人が失敗しないのは、自分の欠点を欠点として認識するからである。
欠点を欠点として認識する。そのため欠点で失敗しないのである。

OR型は長所と短所を持つ。このシリーズの最初の頃に長所と短所はコインの裏表である点をしつこいほど指摘した。リンク→短所は長所 長所は短所。 AND型の中庸を選ばすあえてOR型で行くのであれば、自分に長所と短所があることをきちんと認識しておかなければならない。長所を認識していれば長所を生かせる。短所を認識していれば短所で失敗しない。

『言志後録』にも次の言葉がある。

書下し文
人は当に自ら己の才性に短長あるを知るべし。

現代語訳
人は自分の才能や性格に長所と短所があることを知らなければならない。

自分の長所を知る必要がある。人は自分の短所を指摘されたときに、自分の短所を直そうとする。自分の短所を直すのは素晴らしい。しかし場合によっては短所を直すあまり自分の長所も消してしまう人がいる。自分の長所を認識していないとそうなる。

自分の短所も知る必要がある。人は自分の長所を褒められたときに、喜ぶ。そして自分の長所を再認識する。自分の長所を再認識するのは素晴らしい。喜ぶのも良い。しかし場合によっては長所を再認識するあまり、自分の短所を忘れてしまう人がいる。そうすると将来短所で失敗する。

大胆でがさつな人がいるとする。大胆さとがさつさはコインの裏表の関係である。



大胆であることを人に褒められると、自分のがさつさも良いのだと勘違いするかもしれない。そうすると大胆に大きい計画は立てるが、がさつなため詰めが甘くうまく行かないという結果になり、がさつさで失敗するかもしれない。逆にがさつさで失敗すると過剰に反省して自分の大胆さも捨ててしまうかもしれない。自分の長所と短所をきちんと認識していれば問題は生じない。

性格が素直でだまされやすい人がいたとする。素直さとだまされやすさははコインの裏表の関係である。



素直なことは良いことである。しかし誰かが素直なことをほめたときに、だまされやすいという自分の短所を見なくなってしまう可能性がある。他人が素直さを褒めるのは良いことである。しかし本人はそれによって自分の短所を見なくなってはいけない。そうしないと将来短所によって失敗する。誰かに騙されるかもしれない。

逆に誰かにだまされて、反省のあまり、「自分が素直だからだまれるんだ」と思って、長所である素直さも無くしてしまう可能性がある。自分の短所と長所をよく認識していれば問題は生じない。もちろん「素直過ぎたからダメなんだ」と言って長所を少し無くして適度に疑い深くなる人もいる。それはOR型ではなくバランス型中庸を執っているのであり、ひとつの選択肢である。良くないのはだまされたからと言って逆の極端に走る場合である。徹底的に疑い深くなり素直さを完全に消してしまう。

ハーモニー型中庸、バランス型中庸をとらずにあえてOR型で行くならば、自分の短所と長所を把握する必要がある。そうしないと長所を褒められるたびに短所を忘れ、短所を指摘されるたびに右に左に行ったり来たりになる。短所を指摘されて長所も適度に無くすのであればそれはOR型ではなくバランス型中庸になる。

OR型をとるのも良いと主張すると、一部の儒者からの「OR型はダメだ」という反論が聞こえてきそうである。「孔子ははっきりと中庸を勧めている。中庸を敢えて執らないというのは間違いだ。」というわけである。一応反論しておく。

確かに孔子は中庸を勧めている。しかし中庸を強制しているわけではない。『論語』子路篇から引用する。

書下し文
子曰く、中行を得てこれに与せずんば、
必ずや狂狷か。
狂者は進みて取り、
狷者は為さざるあり。

現代語訳
孔子が言われた。
中庸の人を見つけて交わることができないのであれば、
狂者か狷者だね。
狂者は大志を抱き進んで物事を行い、
狷者は節義を守って慎重に物事を行う。

孔子は中庸を重んじたが、積極的な狂者と慎重な狷者を中庸が執れている人に次いで評価した。

孔子は中庸を勧めたが、OR型の個性を押し潰すつもりはなかった。孔子の弟子には優れた人たちが多い。しかしその多くはOR型であった。『論語』先進篇から引用する。

書下し文
柴や愚、参や魯、師や辟、由や口彦。

現代語訳
柴は愚かで、参は鈍く、師はうわべ飾りで、由はがさつだ。

柴、参、師、由の四人はすべて孔子の弟子。孔子が弟子たちの欠点に言及している。この言葉は弟子たちを批判しているようである。実際そうかもしれない。しかし孔子は弟子たちの短所を挙げることで、その反面の長所にそれとなく言及しているような気がする。『論語』全体を何度も読んで、孔子がいかに弟子思いかを知っている人は賛成するだろう。雍也篇から引用する。

書下し文
季康子問う。
仲由は政に従わしむべきか。
子曰く、由や果。
政に従わしむに何か有らん。

現代語訳
季康子が質問した。
仲由に政治をとらせることはできるでしょうか。
孔子が言われた。由は果断だ。
政治をとるくらい何でもない。

この引用では孔子は「由は果断だ。」と言っている。その前の引用では「由はがさつだ。」と言っている。果断であることとがさつであることはコインの裏表。由は典型的なOR型である。



孔子は「がさつ」という由の短所を認識しながらも「果断」という長所を評価している。孔子は強引に中庸を執らせて由の個性を押し潰すのではなく、OR型であることを許容して由の個性を尊重していたと思われる。

先進篇の引用で「参や魯」「参は鈍い」とある。参は鈍かった。学ぶスピードが遅いのである。しかし遅いということはそれだけ知識を着実に自分の血肉とすることでもある。「遅い」と言う短所の裏に「着実」という長所が貼りついている。典型的なOR型である。



この点『論語集注』にこの箇所の解説がある。

書下し文
曾子の才は魯。
故にその学ぶや確。
よく深く道に至る所以なり。

現代語訳
曾子の才は鈍かった。
であるからその学びは確実であった。
深く道を理解した理由である。

曾子というのは参のこと。鈍かったのでその学問は確実に知識を血肉化したと述べている。そのため結果的に道を深く理解したというわけである。やはり参はOR型であり、儒教はそもそもOR型を許容している。

孔子は「中庸の勧め:OR型の許容」の重点の置き方は「6:4」か「7:3」くらいだったと思われる。一部の儒者は孔子が述べたことを絶対化する。孔子が中庸は大事と言っているのでそういう人は「中庸の勧め:OR型の許容」は「10:0」が正しいと思うのである。しかしそれは中庸の行き過ぎである。実際は孔子は「6:4」か「7:3」くらいであり、孔子の態度がそれこそ中庸がとれている態度である。

孔子の言葉のみを見て本質を理解しない人がいる。孔子の言葉は矢印みたいなものである。矢印の先に本質がある。矢印を丁寧に見るのは良いことである。丁寧に見ないと矢印がどこを指しているか分からない。しかしもっと重要なのは矢印だけを見るのではなく、矢印の先の本質を見ることである。



哲学でいわゆる「テキスト派」と言う人たちの一部は本質を見ずに矢印を見る人がいる。矢印だけではなく本質も見ていれば、孔子の「中庸の勧め:OR型の許容」の重点の置き方は「6:4」か「7:3」くらいだと分かるはずだ。

■作成日:2023年8月24日

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