陰と陽とが交わり調和して豊穣な世界が生まれる

「能動」は陽であり「受動」は陰である。天と地も同じ。「天」が陽で「地」が陰。中国思想では天の形の無い能動的な働きを、地という形が有るものが受動的に受けて、そして万物、自然が生じるという思想がある。

分かりづらいかもしれない。しかし自然科学でも似たような現象はある。太陽を仮に天とすると、太陽の光を我々が直接受けると暖かいのだが、太陽の熱を我々が直接受ける量はそんなに多くない。それより太陽の熱を大地や海が吸収して、それによって我々は間接的に温められている。天の働きを地が受けて万物が生じるように、太陽の熱を大地が受けて地球全体が温まる。

太陽の光は植物も受ける。植物は太陽の光を受けて光合成を行い、農作物ができる。天の働きを地が受けて万物が生じるのと同じではないが、似ている。比喩的に分かりやすい。光合成なども「天の働きを地が受ける」の一例なのかもしれない。

光合成などは科学の概念。それに対して天地と言うのは前近代的概念。光合成は植物学にしか当てはまらない概念だ。科学によって分野分けされた概念だから。それに対して「天地」「陰陽」と言うのはもっと広く分野にとらわれない概念であり、さらにもっと深い概念。それは前近代的概念だからである。

似たような例として、小学校の先生と生徒の例を挙げる。先生が能動の陽。生徒が受動の陰。先生の教えを生徒が受けて生徒が成長し社会が豊かになる。これは天の働きを地が受けて万物が生じるのに似ている。概念の大きさ対象の広さに違いはあるが構造は同じ。生徒は受動的ではいけない、主体性を育てる教育は非常に重要だといえばその通り。でもその場合でもやはり基本的には教師は教える側で生徒は教えを受ける側である。

男性の精を女性が受けて子供が生まれる。話す人が能動の陽。聴く人が受動の陰。話す人の言葉を、聴く人が聴いて新たなアイデアが生まれる。筋トレで腕立て伏せをして筋肉に負担をかける。能動的に筋肉に負担をかけるのは自分自身。筋肉は受動的に負担を受ける。そして筋トレで筋肉は傷つくが、それを修復しようとして筋肉は増えていく。どれも分野に違いはあっても、能動の陽の働きを受動の陰が受けて物事が発展するという同じような構造をしている。

たとえばニュートンが新しい物理学理論をつくった。ニュートンが能動の陽である。それをヨーロッパじゅうの読者が読む。読む側が受動の陰。そしてヨーロッパじゅうに新しい科学や思想が生まれてくる。陽の働きを陰が受けてそして豊かな世界が生成する。

陰と陽がいかに分野横断的な概念か分かるだろう。『易経』の「雷水解」の彖伝に次の言葉がある。

書下し文
天地解けて雷雨起こり、
雷雨起こりて、百果草木皆甲拆す。
解の時、大なるかな。

現代語訳
天地が解けて雷雨が起こり、
雷雨が起きて、様々な果物や草木が芽を出す。
解の時は偉大であるかな。

この箇所に関して公田連太郎の『易経講話』から解説を引用する。

冬の間は、天の陽気と地の陰気とが各々結ばれ凍っていたのであるが、春の彼岸ごろになると、天地の陽と陰との結ばれたかたまりが解けゆるんで、陰陽がよく調和するようになり、雷が空中に鳴り渡り、雨が地上にそそいで来るのである。

雷が空中に鳴り渡り、雨が地上を潤すようになると、いろいろな果物の樹、その他の草木が芽を出すのである。甲拆の甲は、寒い間、草木の芽を包んでいるところの堅い皮であり、また草木の種子外面の堅い皮である。拆はさけ開くこと。甲拆は、草木の芽または種子を包んでいる堅い皮がさけ開けることで、すなわち草木が芽を出すことである。これは天地の解である。解の時はまことに重大である。天地が万物を生成化育する仕事は、皆、解の時から盛んに発動するのであり、解の時はまことに重大なる時期である。帝王の道は、天地の道にのっとるのであり、この時にあたって、寛大なる政治を行い、恩恵を施し、万民を撫育すべきことを教えるのであり、解の徳を賛美するのである。

『易経』は天地、自然、政治、経済、社会、科学、技術、芸術、工芸、文章、映画、マンガ、ゲーム、顧客対応、雑談、遊び、色んな状況で現れる、パターンというか構造というか本質というか、「類型」を提示し、陰陽で説明する。合計で六十四の類型を提示する。「解」はそのひとつである。「解」の時は四季で言うと春である。冬は完全な陰だが春に陽が現れてきて、陰と陽が交わり、雷雨が起きる。雨は地上を潤し、草木は芽吹き、動物は動き出し、万物が育つ。陰と陽の交わるのが「解」という類型である。

陰と陽が交わり豊かな世界が生成する。それが「解」である。天才も合理性という陽とインスピレーションという陰が交わり豊かなアイデアが生じる。自然科学に「カオスの縁」という言葉がある。秩序と混沌の間の領域を指す。ここで複雑で豊かな現象が生じる。秩序と言う陽と混沌と言う陰が交わるところで豊かな世界が創発する。陰と陽がいかに分野横断的な概念かが分かるだろう。

さらに陰と陽の例を挙げる。





これらは能動的なものを陽として挙げ、受動的なものを陰として挙げている。

陰と陽は関係概念である。Aさんは会社でBさんの上司だとする。上司が陽。部下が陰。AさんはBさんに対して陽であるという側面がある。しかしAさんにとってEさんがさらに上司だとする。AさんはEさんに対しては部下であり陰である。AさんはBさんに対しては陽で、Eさんに対しては陰である。相手との関係で違ってくるので関係概念。BさんはAさんの部下だが、仕事の主導権はBさんが握っているのであれば、仕事の内実という意味ではBさんが陽になる。『釣りバカ日誌』のハマちゃんは会社では平社員でスーさんは同じ会社の社長。だからスーさんが陽でハマちゃんが陰である。しかし釣りに関してはハマちゃんが師匠でありスーさんが弟子。だから釣りに関してはハマちゃんが陽になりスーさんが陰になる。誰々が陰で誰々が陽と固定的に決まっているのではない。

兄や弟も関係概念。次男は長男に対しては弟だが、三男に対しては兄。犬と猫は実体概念。犬は誰に対しても犬であり、猫は誰から見ても猫。

夫婦はあくまで男性が陽で女性が陰。しかし「かかあ天下」の家では主導権という意味に限れば、奥さんが陽で旦那さんが陰になる。旦那さんが一見主導権を握っていても、奥さんが上手に従いながらうまく誘導して実は主導権を握っている場合もある。これはどっちが陽でどっちが陰か表現しづらい。

■作成日:2023年8月3日

続きは過ぎたるは猶及ばざるが如しをご覧ください。

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