物事の二面性と権謀術数

物事の二面性は良い人が用いるとそれを良いことに生かす。しかし場合によっては権謀術数に用いられることもある。だまされないために一応少しは知っておいたほうがいいのかもしれない。

物事の説明のための手段のひとつとして比喩がある。AをBに喩えることでAとBの共通点が明らかになり分かりやすくなる。非常に有効だ。特に理解が難しい概念や我々にとって未知の現象を説明するのに効果的である。難しい概念を簡単な概念に喩え、未知の現象を既知の現象に喩えることで共通点が明らかになり分かりやすくなる。

例えばAIが人の仕事を奪うという現象がある。これは将来生じることで未知の現象である。しかし一方で我々には産業革命と言う既知の現象がある。産業革命がイギリスで起きた時、機械が人の仕事を奪うと言われて機械を打ち壊すラッダイト運動が生じた。しかし確かに一部の仕事は機械に奪われたが、機械をよりよく使うための仕事が大量に生まれ、仕事は逆に増えた。AIが仕事を奪うのを産業革命のラッダイト運動に喩えることもできる。ラッダイト運動と同じだと言うわけだ。AIで確かに仕事を奪われるが、AIを使う仕事が大量に増えて人間は失業しないというわけである。AIと産業革命の共通点が明らかになり、「なるほど、そうか」と我々は思う。

しかし本当にそうだろうか。確かにAIの出現と産業革命に共通点はあるだろう。でももしかしたら相違点もあるかもしれない。産業革命の時の機械は人間の手仕事の代わりをしたが、人間を完全には置き換えなかった。人間にしかできない仕事は残った。しかしAIがもし人間を完全に置き換え可能であれば、ほとんどの人は不必要になり産業革命とは違う結果になる可能性はある。

たしかにAIと産業革命は同じかもしれない。その可能性はある。とくに当面の数年間はまだ人間にしかできない仕事は残り続けるし、人間ができるAIを使う新たな仕事も増えていくだろう。しかし何十年も先になるとAIはほとんどの人間の仕事を置き換えるかもしれない。

少なくとも言えるのはAIを産業革命に喩えただけでは、両者の間に本質的な違いはないという根拠は全く示されていないということだ。この喩えはAIと産業革命に共通点があるという指摘にはなっている。しかし両者に本質的な違いがないという根拠にはならない。

比喩は共通点を明らかにする。しかし同時に相違点を隠してしまう。これも裏表の関係。



草思社文庫『鬼谷子』に次の言葉がある。

「飾言」とは、別の物を借りて語るということである。
別の物を借りて語るのは、言い分のある点を誇張したり、隠したりするためである。

「別の物を借りて語る」とは別のことに喩えることを述べている。比喩である。「誇張する」というのは比喩によって共通点を強調することであり、「隠す」というのは比喩で相違点を隠すことである。

要は比喩は、分かりやすくするためという良い目的で用いられることもあるが、相違点を隠し論点をずらすという悪い意図で用いられる場合がある。権謀術数的に使われる。皆さんの周りにもそういう人はいないだろうか。比喩を巧みに用いて論点をずらす人。もっとも日本では権謀術数的に使うよりも無自覚のうちに論点をずらしている人の方が圧倒的に多い。

私も比喩はたくさん用いる。その際、論点がずれたりしないかある程度注意する。ずれる場合はずれると指摘するようにしている。

『鬼谷子』は二面性を扱った書物であり、極めて深遠にして優れている。しかし権謀術数的な書物であり、正統な儒教からは異端とされている。しかし中国の人の一部は鬼谷子的な論理を扱うのに優れているため、中国人と付き合う以上、日本人も多少は知っておく必要があるのかもしれない。

『鬼谷子』には相手の性格によって説得の仕方を変える方法が書かれている。以下の内容。

例えば相手が人格者であった場合、利益で釣っても説得できない。道義にもとることをさせようとしても説得できない。しかし道義で説得し道義に適うことを提案すれば説得できる可能性がある。これも陰と陽の二面性。



相手が人格者であれば利益で釣っても説得できない。しかし利益にこだわらないので、コストがかかる内容でも受け入れられる可能性がある。



相手が知者であれば、理屈が通らない説得は効果が無い。しかし逆に言うと理屈が通れば説得できる。これも陰と陽。表と裏。



相手が知者であれば、「この仕事は知的な面で難しいですよ」と言って脅せない。しかし逆に知的な面で難しい仕事でも引き受けさせられる。陰があれば陽があり、陽があれば陰がある。



相手が勇者であれば、「この仕事は困難ですよ」と言って脅せない。しかし逆に言うと勇気のいる仕事でも引き受けさせることができる。これも陰陽の二面性。



この部分に関し『鬼谷子』本文から引用する。

強みのある者は、それだけどこかに弱みが蓄積されている。
まっすぐな者は、それだけどこかが曲がっている。
余りある者は、それだけどこか足りないところがある。

優れた人は優れている分だけ劣ったところがあるというのも、物事の二面性である。この本の解説者は次のように言う。

相手がどんな人間であろうとつけいるスキはあるということです。
相手が完璧な人格者であれば、人格者だからこその説得の仕方というものがあるはずですし、
逆に相手が極悪人であっても極悪人だからこその説得の仕方が必ずあるのです。

さらに解説者の言葉を引用する。

人を見る時も「陰陽」に従って見る、ということです。
陽があれば陰があり、陰があれば陽がある。これが陰陽の原則です。
相手に強みという「陽」があれば、どこかにその分だけの弱みという「陰」が必ずあります。
そして、その相手の中にある「陰」をうまくつくような話し方ができれば、必ず説得は可能なのです。

牛の武器はその角である。しかし牛が人に誘導されるときは角を持たれて誘導される。同じように人格者や知者、勇者であってもその強みを弱みとしてうまく用いれば誘導することは可能であるという。知者の武器は、その人が知者であることである。牛の角と同じだ。知者は知者であることを利用されて相手に誘導される。人格者は人格者であることが強みだ。しかし人格者は人格者であることを利用され誘導される。勇者は勇者であることを利用されて誘導される。さらに引用する。

要は相手の持つ自然な特性に従うということ。
そうした話し方ができれば、相手は自然とこちらの言うことにうなずき、こちらのもくろみ通りに動くことになるのです。

さらに『鬼谷子』本文から引用する。

人の欲しないところを人に強いてはいけない。
人の知らないことで人に教えてはいけない。
人は好むところがあれば、学んでこれに従うし、
嫌うところがあれば、
避けてこれを遠ざけるようになるものである。

相手の好みに反して誘導しようとしてはいけない。相手の知らないことを根拠にして誘導しようとしてもいけない。相手の好みに従って誘導し、相手の知識に基づいて誘導する。

今回は権謀術数的で深遠な書『鬼谷子』を紹介した。本当は権謀術数などは不要なのかもしれないが、中国人もアメリカ人もこの手の誘導方法が実に巧みである。間に挟まれている日本人は彼らに全然ついていけてない。少しはこの手の内容を知っておかないといけないはずだ。それで紹介してみた。

『菜根譚』から引用する。

書下し文
勢利紛華に近づかざる者を潔しと為し、
これに近づきて而も染まらざる者を、最も潔しと為す。
智械機巧は知らざる者を高しと為し、
これを知りて而も用いざる者を最も高しと為す。

現代語訳
権力や利益に近づかない人は高潔な人である。
しかしこれらに近づいても欲望に染まらない人は最も高潔な人である。
権謀術数を知らない人は高尚な人である。
しかしこれを知っても自分では用いない人は最も高尚な人である。

学生として田舎から都会に移り住んで都会の悪習に染まる人もいる。「おれたち都会で大事な何かを無くしちまったね」と『ジュリアに傷心』でも歌っている。それが嫌で、都会を避け田舎で清く正しく生きる人もいる。そういう人は清らかな人である。しかし都会に住みながら、悪習に染まらず清く生きる人はもっと清らかな人である。

同じように権謀術数は知らない方が清らかさを保てる。それがいいかもしれない。しかしその人が経営者とかで、立場によっては、人に騙されないためにある程度知っておく必要があるかもしれない。権謀術数を知りながらそれを用いない人は非常に高潔な人である。

■作成日:2023年7月25日

続きは「〇〇な人は××だ。だからダメだ。」という発言の一面性をご覧ください。

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