マンネリズムの偉大さ

私は1970年代後半生まれ。時々ビートルズを聴く。ビートルズは1970年に解散。だからリアルタイムでは聴いていない。高校生くらいの頃からさかのぼって聴きはじめた。ビートルズを聴いて思ったのは「いい曲だな」という印象。しかし「新しい音楽だな」とは思わない。しかしリアルタイムで聴いていた人によると、ビートルズは当時とても新しい音楽だったという。

ビートルズの音楽は当時新しくて音楽業界全体に大きな影響を与えた。多くのミュージシャンたちがビートルズを模倣する。ビートルズの音楽性は他のミュージシャンたちを通して全世界に広がる。するとその後に生まれた私のような人間がビートルズを後から聴くと「いい曲だけれどよくあるタイプの曲だ」と思うのだ。影響力が大きいことはプラス。陽だ。しかしその結果模倣され新鮮さがなくなるという陰がその裏に貼りついている。陽の裏に陰があり、陰の裏に陽がある。偉大なものは時としてマンネリズムになる。「消化できない偉大さ」の場合はマンネリズムにならない。消化できないので偉大ではあっても世間に浸透していないから。しかし「消化できる偉大さ」はマンネリズムになる場合がある。偉大さという陽のうちにマンネリズムという陰がある。これも物事の二面性。



福岡県に住んでいる。豚骨ラーメンを食べる。豚骨ラーメンはもともと長浜ラーメンから始まっている。元祖の長浜ラーメンで食べることもある。「うまいな」と思う。しかし「うまいけどよくあるラーメンだな」とも思う。長浜ラーメンが出現した時、「これはうまい」と皆が思って長浜ラーメンを模倣する。ラーメン店だけではなくインスタントラーメンやカップラーメンも長浜ラーメンを模倣する。だから我々はその味を食べ慣れてしまう。後から元祖長浜ラーメンの店に行くと「うまいけどよくあるラーメンだな」という感想になってしまう。これもマンネリズムの偉大さだ。

イギリスのシェイクスピアも同じだという。イギリスではよく聞く話らしいのだが、あるおばあちゃんがシェイクスピアの劇を見に行った。家に帰ってくるとおばあちゃんは非常に怒っていた。「なに、あの劇。有名な言葉をたくさん使ったりして。」と言う。もちろんそれは順番が逆。シェイクスピアが独創的だからその言葉が広がって有名な言葉になったのだ。後からシェイクスピアの劇を見ると有名な言葉を使ってばかりと言って、おばあちゃんのように怒るのだ。

中国思想でも似たようなことは生じる。『論語』の言葉はけっこう日本人の中に浸透している。だから我々が『論語』を読んでもそこに新しさは見出しづらい。私も学生時代『論語』を読んだが、「有名な言葉が並んでるだけだな」と思ってピンとこなかった。シェイクスピアのおばあちゃんと似たような状況。儒教には『大学』『中庸』という古典もある。これは重要な経典だが日本人にはそんなに浸透していない。だから読むと新しいという印象を受ける。私も25歳で最初に読んだときは感動したのをよく覚えている。儒教に開眼する第一歩になった。



影響力が小さいのはマイナスであり陰である。しかし影響力が少なければ少ない分だけ人々に浸透していなくて新鮮さを保っているともいえる。新鮮さを保つのは陽である。すると読んだときに感動する。

儒教を学ぶ人は学ぶ人ごとに根本経典がある。どの経典を最も重視するかでその人の学問の性格が表れる。私は『大学』『中庸』を根本経典にしている。ただ最近徐々に『易経』に魅力を感じてきている。ただまだ十分に理解できていない。

こういう事象はよくある。例えばヘーゲルという哲学者の哲学は難解すぎて世間には浸透していない。だからその思想を読んで理解できる人はその哲学を非常に新しい思想と思う。

それに対してカントはヘーゲルよりやや分かりやすい。カントの哲学は表面的には浸透している。よく言われるのが、現代人の倫理観を調べてみると多くの人はカントの哲学の通俗版になっているという。「単なる理性の限界内の宗教」とか「無条件に善いと認められるのは、善なる意志のみ」とか平均的な人が持っている思想はカントの哲学由来である。だからカントの入門書を読むと「当り前のことを言っている面白くない哲学だ」と思う。私も最初そう思った。

カントの哲学は表面的には浸透している。しかしカント哲学の本質は世間には浸透していない。だからドイツ語で原典を読んで本質にふれると「これは偉大な哲学だ」と思う。私も大学時代『実践理性批判』の最も重要な箇所をドイツ語で渡されて来週までに日本語に訳して来いと言われ原典を読み翻訳をした。『実践理性批判』を日本語の翻訳だけで読むとわけが分からない。自分が頭が悪すぎて読めないのか、カントが狂っていてわけの分からない文章を書くのかどっちかだと思っていた。しかしドイツ語で読むと意味が分かる。いや厳密に言うとドイツ語だけで読むと分からない。私のドイツ語の習熟度がきわめて低いからだ。しかしドイツ語原典と日本語訳を徹底的に比較しながら読んでいくとよく分かる。ドイツ語文法をひと通り終えただけの私でも辞書と格闘すれば理解できる。表面的に見れば古くさくても、その本質を見れば精神の崇高さと知的な合理性があれほど調和した哲学など人類史上でもそんなに多くないはずだ。

いずれにしてもカントのように表面的に世間に浸透していて本質が浸透していない場合は、表面的に接すると当り前の哲学のように見える。しかしその本質を知ると新しい哲学だと思う。

しかし私は学生時代カント哲学に感動はしたものの、どうも西洋哲学は頭では理解できたとしても自分の血肉にならない気がしてそれ以後勉強するのをやめた。西洋哲学を学ぶのはおしゃれな洋服をショーウィンドウごしに感動しているような感覚だった。その後勉強した儒教は和服を自分で実際着るような感覚だ。西洋哲学に感動するのは観客席からオペラに感動している感覚だった。現在勉強している儒教は自分で歌舞伎を演じている感覚だ。西洋哲学を学ぶのは優れた知り合いが増える感じ。儒教を学ぶのは自分が向上する感じ。

哲学では哲学研究者と哲学者が区別される。哲学研究者は他人の哲学を研究する人。哲学者は自分の哲学を創る人。私は自分を哲学者だと思っている。自分の哲学を創る。しかしレベルの高い哲学者では決してないと思う。世の中にはレベルの高い哲学研究者もいる。私はそれほどレベルは高くない。しかし哲学者だと思っている。別に謙虚なのでも傲慢なのでもなく正直なのだと思っている。

■作成日:2023年7月21日

続きはさらに物事の二面性の具体例ををご覧ください。

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