すぐれたものほど行き過ぎる

公田連太郎『易経講話』の「雷山小過」に程子の解説を引いてある。引用する。

書下し文
人の信じる所は則ち必ず行う。
行えば則ち過ぎるなり。

現代語訳
人は自分が信じるところは必ず行動に移す。
行動に移せば行き過ぎが生じる。

信念を持つ人は必ず行動する。信念を持って行動するので多くの場合うまく行く。うまくいくと必ずやり過ぎが生じる。J.S.ミルの『自由論』から引用する。

欠陥や弱点は、失敗の際には人の眼をまぬかれるかもしれないが、成功すると明らかになる。

成功しない人は中庸まで到達しない人である。「不及」である。この場合はその人は世の中を良くすることに失敗する。しかしやりすぎの「過」にはならないので、世の中を悪くすることもない。それに対し成功した人は世の中を良くする。しかし、成功するとどこかの時点からやり過ぎが生じる。「過」となる。そのため成功した人や思想はやり過ぎた分に応じて世の中を悪くする。その欠点が顕在化する。どんなものでも「功罪相半ばす」になるものだというのは十分な理由がある。

ここで「過」と言ってもふたつのパターンが生じる。偉大な者、大きな者が行き過ぎる場合と、大したことのない小さい者が行き過ぎる場合のふたつである。少しだけ優れた小さい者が行き過ぎる場合を『易経』では「雷山小過」という。公田連太郎『易経講話』から引用する。

小過は、小なる者が過ぎていることであるが、それを推し広めれば、小なる事が過ぎるという意味も出てくるのであり、また少しく過ぎるという意味も出てくるのである。小なる者が行うところの事は小なる事であるから、小さい事が過ぎることになるわけである。小さい事が過ぎるということは、少しく行き過ぎること、すなわち行き過ぎることが少ない意味になるのである。小過は、小さい者が過ぎるということと、小さい事が過ぎるということと、少しく過ぎるということと、三つの意味がある。これらは三つの事のようであるが、結局小さい者が過ぎているというひとつに統一されるのである。

小さい者は少ししか行き過ぎない。行き過ぎるとすぐに周りから否定されるからである。行き過ぎると反対意見が出る。本人もそこまで信念が無いので反対されると改める。そして行き過ぎは修正される。

たとえば「コスパ」という言葉は、便利な言葉である。それで若者に広まった。私は若者とあまり接点が無いのでよく知らないが、もしかしたら若者の間ではこの言葉が濫用され過ぎているのかもしれない。仕事や結婚をコスパで選ぶなど。人生をコスパで選ぶのはもちろんダメだ。これは「過」である。しかし行き過ぎれば恐らく周りの大人たちから「コスパ」批判が生じて行き過ぎは抑えられるだろう。

「お客様は神様です」という言葉も、もともとはそれなりに優れた言葉だったかもしれない。しかし現在はそれが行き過ぎ、この言葉は否定されつつある。

「コスパ」も「お客様は神様です」も少し優れた者であり、小さい者である。それが行き過ぎているのである。「小過」である。『易経講話』に次の言葉が引用されている。

書下し文
陸震曰く、小なる者の過ぎるは、ついに長かる可からざるなり。

現代語訳
陸震が言う。小さい者の行き過ぎは長くは続かないものである。

小さい者の行き過ぎは、周りから反対意見が上がり、修正され、長くは続かないのである。

それに対して、偉大な者、大きい者が行き過ぎるのを『易経』では「澤風大過」と言う。『易経講話』から引用する。

大なるもの即ち陽爻が盛んに過ぎ、行き過ぎているのである。これが大過の卦の根本の意義である。それから転じて、大いに過ぎるという意味も出てくる。大なる者が過ぎるのであるから、その過ぎることは、少しく過ぎるのではなく、多いに過ぎることになるのである。大過は大なる者が過ぎると言う意味であり、それから引き続いて、大いに過ぎるという意味も出てくるのである。

偉大な者は大きく過ぎる。小さい者は行き過ぎると周りから反対意見が出るし、本人もそこまで深い信念が無いので、自ら改めて、行き過ぎは抑えられる。しかし偉大な者は、そうはいかない。周りから反対意見が出ても、偉大なものを信じる人たちは深い信念をもって止まらず進んでいく。だから大きい者は大きく行き過ぎるのである。それで二重の意味で「大過」と言う。「大きい者が行き過ぎる」と言う意味と「大きく行き過ぎる」のふたつの意味である。行き過ぎると世の中に害をもたらす。「大過」は大きな害をもたらすのである。

ヒトラーもその例である。ヒトラーは自分自身を偉大なドイツ文化の後継者と信じていた。反対意見が出てもその強烈な信念は揺るがず、大きく行き過ぎ、大惨事をもたらした。『易経講話』「澤風大過」からさらに引用する。

この卦の言葉では「棟木たわむ」と喩えてある。この卦を「棟木たわむ」と見てあるが、この卦全体を一本の棟木として見る時は、この棟木の中部は四つの陽爻であり、はなはだ大きいのであり、本と末の両端は陰爻であり、甚だ小さく弱いのである。中部がきわめて大きく重く、両方の端が極めて小さく弱いので、中部の重さを両方の端で支えることができず、棟木が下に向かって曲がりたわむのである。
このように中部がはなはだしく大きく重くして、それを支える両端の細く小さい棟木などを用いて家を建てる大工さんはあるまいけれども、この卦はそういう形になっている。

家を建てる時に棟木を用いる。棟木の両端が小さくなっていて、中央が大きく重くなっている。それで棟木は下に向かって曲がってたわんでしまう。さらに引用する。

中部の四つの陽爻から出来ている棟木は、大きくかつ重い立派な棟木である。しかるに、それを支えるところの両方の梁や柱は陰爻であって、これは不釣り合いに小さく弱いのである。そこで大きくして重い棟木を支えることができず、梁や柱は傾き、棟木は下に向かってたわみ曲がって家は倒れようとするようになる。棟木が大きく重い立派な棟木であることは、まことに結構であるが、それに相応して、梁や柱も大きい者を用いなければならぬはずであるのに、これは棟木ばかり大きく立派であって、梁や柱がそれに相応しない小さい哀れな者であるので、棟木が下に向かってたわみ曲がって傾くようなことになるのである。大きくあるべき棟木であるが、これは余りに大きすぎるのである。これが大過である。

ヒトラーは自分を偉大なドイツ文化の後継者と信じていた。偉大なドイツ文化の遺産という棟木が大きすぎ重すぎて、ヒトラーという細く小さい柱では支え切れず、棟木がたわみ曲がってしまったのである。家全体が傾き崩れ落ちた。偉大なドイツ文化は自らの重みに耐えきれず崩壊してしまったのである。ニーチェ『人間的、あまりに人間的』から引用する。

偉大さの宿命。どの偉大な現象のあとにも変種が続く。偉大な者の典型が比較的虚栄心の強い天性を刺激して外面的に模倣しようとか陵駕しようとかさせる。

ヒトラーのような虚栄心の強い凡人が、ドイツの偉大な先人たちを外面的に模倣し彼らに並ぼうとすることで、悲劇が生じる。ヒトラーが偉大なドイツ文化を継承するにふさわしいほど、本当に偉大であり、かつ偏狭でなければ問題は生じなかったかもしれない。もしくはヒトラーが偉大ではなくても、あれほど強い虚栄心を持たず、偉大な先人と無理に並ぼうとしなければ問題は生じなかったはずである。

ダーウィンの進化論も偉大な思想であった。しかしそれは成功すると行き過ぎが生じた。優生思想が生まれ、ヒトラーもそれを取り入れた。ドイツというゲルマン民族を高等人種とし、それ以外を劣等人種とした。

イスラムのテロリストも同じである。コーランは偉大だ。だからこそテロリストは説得できない。彼らはコーランの偉大さを心から信じているからである。偉大だからこそ「大過」が起きる。

■作成日:2023年8月10日

続きは中庸は固定的なものではないをご覧ください。

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