日本に必要な中庸

中庸の大切さに関して大量の具体例をあげながら述べてきた。なぜこんなに詳しく述べてきたかと言うと、現代日本は物事を一面的に捉える傾向があるからだ。

Aという価値観とそれに対立するBという価値観があると、日本人の多くはAという価値観を信奉して極端に流れる傾向にある。そして極端に走ると必ずその後に破滅が待っている。失敗すると今度は表面的に反省して、Bを信奉して逆の極端に走る。

たしかに日本は戦前、軍国主義という極端に走った時期はあったと思う。それが原因で敗戦を迎えた。しかし今度は軍国主義を反省して、軍事放棄という逆の極端に走る人が一部存在する。そういう人たちは日本は憲法9条を守ってきたから、平和を達成できたのだと主張するが、実際には日本が解釈によって自衛隊という実質的な軍隊を保持してきたから平和を保てていたのである。

ウクライナ戦争でも分かるように、他国が実際に攻めてきた場合、「戦争反対!!」と叫べば相手が退却してくれればよいのだが、当然そういうわけにはいかない。武力はあくまで最終的な手段ではあるが、最終的手段として、自力で国を守るに足るだけの武力は保持する必要がある。結局正しさは「軍国主義」や「軍事放棄」という両極端には無くて、「正しい武力」「自衛に足る分の武力」という中庸にある。



一部の日本人は戦前の軍国主義を表面的に反省して、今度は逆の極端である軍事放棄に走っていると思う。

もちろん9条を改憲するのが不安だと思う人の気持ちは分からなくない。9条があれば再び軍国主義にならないための歯止めになるのに、無くしてしまうと歯止めがかからなくなるので不安だ、という気持ちだと思う。

答えは中庸を執ることにある。しかし日本人は中庸を執るのがうまくない。さらにそもそも中庸は日本人ではなくても執るのが難しい。ひとつの理想を単純に追及する方が圧倒的に簡単である。今回大量に具体例を挙げたのも中庸を具体的にイメージできるようにするため。スポーツでもある技術や技を試合でいきなり使おうとしても、難しい。日頃からその業を練習しているから試合でも使える。同様に中庸も日頃の生活で中庸を執る訓練をしていないと、大事な時に使えない。

ただすぐに日本人全体が中庸を執れるかと言うとそれは不可能。それまでの間、9条に代わる安全弁はあってもいいのかもしれない。軍事費をGDP比で上限を設けるなど、誰が見ても分かりやすい安全弁を設ければ、我々国民も安心して改憲に賛成できるかもしれない。

他の国の例を挙げる。中庸を執るのが上手い国のひとつとしてイギリスが挙げられる。イギリスと対照的なのがドイツ。18世紀後半から20世紀前半までの200年間。ヨーロッパのドイツ語圏は非常に多くの天才と偉人たちを輩出した。モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームス、ワーグナー、リヒャルトシュトラウス、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ハンゼンベルク、アインシュタイン、ビスマルク、フロイト、ユング、ゲーテ、シラー、カフカ、ハイネ、ガウス・・・。挙げだすときりがない。ひとりひとりがその分野を代表する人たち。

しかしドイツは国全体としては最終的にうまく行かなかった。偉大な時代に続いたのはヒトラーだ。ドイツは自らの偉大さに酔いしれ、偏狭なナショナリズムに陥り、自己意識が肥大化して不自然なまでに膨張し、膨らみ過ぎた風船のように破裂して終わってしまった。

同時期、イギリスも多くの天才を輩出してきた。しかし、もしかしたらドイツほどには多くの偉大な個人を輩出しなかったかもしれない。しかしイギリスは常に極端に走らず、中庸を執り、落ち着いた国の運営を行った。偉大な個人を輩出したのはドイツだったかもしれないが、最終的に国の運営がうまく行ったのはイギリスだった。

歴史を読むと国を運営するに当たり、偉大な天才に従って国を運営する方法と、中庸を執って凡人に合わせ皆で決めた標準に従い標準を改善していく方法がある。イギリスは明らかに後者。凡人に合わせた方が国の運営はうまく行く。

学問でもヘーゲルのような偉大な哲学者からのみ学ぶ方法と科学のように凡人でも理解できる標準を改善していく方法がある。個人としてはヘーゲルの方が偉大かもしれないが、分野としては科学の方法の方がうまく行くのは事実である。偉大な天才を崇拝するより凡人に合わせたほうが全体としては実はうまく行く。

日本はイギリスとドイツの例から学ぶべきである。

■作成日:2023年8月14日

続きは対立するふたつのものが調和すると大きな力が生まれるをご覧ください。

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