心はアフリカ 2022/5/19

ここ1ヶ月ほどアフリカにはまっている。アフリカ史を学びアフリカ音楽を聴き、アフリカ美術を見て、 アフリカ料理を食べ、アフリカ文学を読み、アフリカ映画を見て、アフリカ宗教を学び、Oculus Quest2のVRで疑似アフリカ旅行をする。

アフリカ史、アフリカ音楽、アフリカ文学、アフリカ美術・・これらは相互に繋がっている。同時に集中的に触れると相乗効果がある。

大地の声のようなアフリカ音楽は魂を揺さぶる。アフリカ料理はアフリカ文化が体の中に入ってくる。直接体に入るため非常にパンチ力がある。 アフリカ音楽とアフリカ料理でアフリカの魂に触れる。

アフリカの現在はアフリカの歴史の積み重ねの結果だ。アフリカ史を学ぶとアフリカの全体像が分かる。ピカソも影響を受けたというアフリカ美術は非常に感動的だ。

アフリカ文学はアフリカの素顔を教えてくれる。アフリカ宗教はアフリカの世界観を教えてくれる。アフリカ映画はアフリカの現在を生き生きと伝える。VRは本当に旅行に行った気にさせてくれる。

あまりにアフリカ熱が高まったので、アフリカ風のWEBデザインも少し手掛けてみた。このサイトのデザインだ。

以前ヘーゲル研究者は現代日本に生きておらず、心は19世紀ドイツにある、現代日本は寝泊まりするだけの場所だ、と批判した。 現在は私がそうなっている。心はずっとアフリカにあり、現代日本は寝泊まりするだけの場所になっている。 アフリカ文化を深く学ぶには実はこの心境は非常に良い。しばらくはそうなりそうだ。

私の場合は2、3ヶ月でまた現代日本に戻ってくるが、ヘーゲル研究者は19世紀ドイツから戻ってこない。 でもそういう人たちも現代日本に必要な人だとは思う。

アフリカを知る前はアフリカには何もないと思っていたが大きな勘違いだった。 大地にしっかりと根差した文化がある。我々日本人は大地性を忘れているかもしれない。 特に都会に住んでいると、物理的な意味でも精神的な意味でもコンクリートに固められて大地から離れている。 人工的になっている。 生き生きした大地性が失われている。アフリカから学ぶべきことはあると思った。

アフリカ文学も面白い。コンラッドの『闇の奥』と言う本を4回ほど読んだ。読むまで知らなかった本だが実は有名な本らしい。 訳は光文社古典新訳文庫が分かりやすい。しかし作品の迫力が伝わってくるのは断然岩波文庫訳だ。 やや分かりにくいが。もっともこの本は何回か読まないと分からないようにできている。 しかし短い本だ。お薦めだ。

優れた文学の古典は作者の感動を如実に伝えてくれる。 文学はただの文字のようだが、読める人が読むと作者の感動が時代と地域を超えて確かに伝わってくる。

『闇の奥』の作者のコンラッドはポーランド系イギリス人で、 19世紀末に船乗りとなり当時まだ文明の光が届いていなかった鬱蒼たる熱帯雨林のコンゴ川を遡った。 文明とアフリカの初めての邂逅だ。岩波文庫訳から引用する。

月明りの中に森影が、亡霊のように黒々と聳えていた。影のような人の蠢きと、中庭から聞こえる幽かな物音を通して、 大陸の沈黙 ━そうだ、その神秘と、巨大さと、そしてその奥に秘められた驚くべき生命の真実とが━ ひしひしと胸の底に迫ってきた。
川の遡航は、まるであの地上には植物の氾濫があり、巨木がそれらの王者であった原始の世界へと帰って行く思いだった。 茫漠たる水流、鬱然たる沈黙、そして涯しない森林。熱した大気はひどく重苦しく、物倦げだった。照りつける陽光の中には、 いささかの歓びも感じられない。ただ遠く遠く、物影一つない水の流れだけが、涯しもなく鬱蒼たる森の奥へとつづいている。
船は一歩一歩深く闇黒の奥へとわけ入った。静寂そのものだった。ときどき夜になると、河下から樹々の帷を越えて太鼓の響きが流れてくる、 そしてほとんど夜の白むまで、まるで僕等の頭上を天翔けるかのように、かすかにたゆたっているのだった。 戦いの太鼓か、平和のそれか、それとも祈りのためか、それは僕等にはわからなかった。
河筋をぐっと曲がるときなど、突然重たげに垂れた森の繁みの蔭から、藺草を葺いた壁、尖った草屋根などがチラと見えたり、 爆発するような叫び声が聞こえて、手を打ち、足を踏み、全身を揺ぶり、眼をギラギラと光らせている真黒い肉体の躍動が見られたりする。
結局そこにあるものは何なのだ?歓びか、恐怖か、悲しみか、献身か、勇気か、怒りか、━それはわからない━ だが、ただたしかに真実  ━時という外被を引き剥がれた赤裸の真実があった。世の愚か者は、驚き呆れるがよい ━ただ本当の人間は知っている、 そしてまじろぎ一つしないで、真実を直視することができるのだ。 だが、それには、少なくともあの河岸の連中と同じ人間らしさに帰らなければならない。 彼自身の生地というか、 ━言いかえれば、生まれながらの力をもって、その真実に立ち向かわなければならないのだ。 主義か?そんなものは駄目だ。そんなものは後天的に獲たものにすぎん。ただ蔽い物、美しい襤褸片にすぎない ━はじめの一振りで、 ちぎれて飛んでしまう襤褸片にすぎない。いや、君たちには、ちゃんとした信仰が必要なのだ。

作者は大地に根差した真実がアフリカにはあるという。文明人の吹けば飛ぶような「主義」ではない。それは大地に根差していない。 文明人が忘れた人間の原初的な真実がアフリカには確かにあると言う。「外被を引き剥がれた赤裸の真実」なのだ。

『闇の奥』から文明とアフリカの最初の出会いが臨場感を持って伝わってくる。 文明人側の緊張感、そしてアフリカ側の緊張感の両方が確かに伝わってくる。

現代でもアフリカに旅行には行ける。しかし19世紀末の最初の出会いの時の緊張感は二度と味わえない。 しかし『闇の奥』のような優れた文学作品に触れると、二度とは味わえないはずのその時の緊張感が、 現代日本に住む私にも時代と地域を超えてリアルに伝わってくる。

そして本を閉じてVRでコンゴ川を見る。oculus quest2は素晴らしい。眼前に広がるはるかなコンゴ川。 私は現代の旅行者としては見ない。『闇の奥』の著者コンラッドのように文明人として初めてコンゴ川を訪れた人間のつもりで見る。 コンラッドが体験した緊張感をもってコンゴ川を体験するのだ。

ツアーもない。ホテルもない。休憩所もない。売店もない。舗装道路もない。 たよりは船とライフル銃、手持ちの食糧と水。心細さと緊張感と壮大な風景。

そしてしばらくするとVRを消して部屋を暗くし、ヘッドホンでアフリカ音楽を聴く。 twins seven sevenがもっともアフリカ的で迫力がある。

アフリカ人に村に招待された、もしくは捕えられたというつもりになる。『闇の奥』の緊張感を自分の中に再現しVRの遥かなコンゴ川を思い出す。 そしてアフリカ人に捕えられ彼等が目の前で音楽を演奏しているというつもりになって迫力のあるアフリカ音楽を聴く。強烈なアフリカ体験。 そして料理が出されたとイメージし、昨晩街で食べ感動したアフリカ料理を思い出す。

要は自分のもっているアフリカに関する知識や体験をフル動員して疑似的に総合的にアフリカを体験する。強烈なアフリカ体験だ。 文学や音楽CDは昔からあったし、インターネットでアフリカ美術を手軽に見れるのは20年前からあった。 しかし最近になってVRが手に入るようになったのは大きい。疑似的に世界旅行ができる。 金がなくても感受性さえあれば楽しく暮らせる時代がすでに来ている。金は要らんのか?いやいやそんなことはない。 金があればさらに感動は5,6倍になるはずだ。

別のところでこれからはΠ字型人間が重要になると言ったがΠ字型人間は二つの要素がある。
①二つの専門を持つ。
②大雑把に色んなことを知っている。

①の意味が注目されやすいが②も大切だ。私が日本に居ながら疑似的にではあれ総合的なアフリカ体験ができるのは、 いろんな分野を広く浅く知っていてそれなりに感受性があるからだ。

人はみな専門を持つ。それは人間の能力が限られているから当然だ。しかし専門に分かれるのは人間の事情であって、 世界は分野ごとに分かれて存在しているわけではない。

アフリカも分野ごとに分かれていない。たしかにアフリカ史、アフリカ文学、アフリカ美術・・と分野ごとに分けて考えることはできる。 しかしアフリカは区分できない一個の全体であって、アフリカ史、アフリカ文学と分けるのは人間の都合である。

私が『闇の奥』を読んで深く感動するのもVRやアフリカ音楽、料理、美術などアフリカのいろんな分野に触れているからだろう。 全体はつながっている。

ところでアフリカ文学には二種類ある。欧米人が書いた文学とアフリカ人自身が書いた文学。欧米人が書いた本も読みごたえがある。 『闇の奥』もその一つだ。しかしアフリカ人が書いた本のほうがアフリカ人の素顔がわかる。内面が分かる。

『やし酒飲み』という本が岩波文庫からでている。アフリカ人による文学だ。 アフリカ的な自由なイマジネーションにあふれた作品だ。 私は文明人のつもりだし合理的なものがすきだから文明人だと思っている。 しかしアフリカ的なイマジネーションも自分の心にすっとはいってくる。 私は意外とアフリカ的なところがあるのかもしれない。

『新書アフリカ史』という本がある。700ページ超のアフリカ史の本だ。アフリカ史がぎっしり詰まっている。読破した。

思想は抽象的だ。歴史は具体的だ。思想が分かりにくいのは抽象的だから。分かりやすくするためには具体例を補わないといけない。 それで歴史を勉強する。アフリカ史もその一環だ。

思想は一見普遍的に見えるしそういう面もあるが、思想はその国の歴史の上に乗っている。 中国思想は中国史の上に乗っているし、ドイツ思想はドイツ史の上に乗っている。 だからある国の思想を読むためにはその国の歴史をある程度知っていたほうがいい。 それも私が歴史を読む理由のひとつだ。 思想は普遍的に見えて、その国の歴史と言う特殊的なものに依拠している。

『新書アフリカ史』。基本黙読で読んでいくが、意味が取れないところ頭に入ってこないところは、筆写しながら読んでいく。 理解できても重要と思ったところも筆写する。twitterで教えてもらった読書方法だが、この方法だと桁違いに内容が頭に入ってくる。 もっと早くこの方法を知っていれば、と深く後悔している。

例えば空海上人の著作などの難解な古典は全部筆写しないと頭に入らない。難解だし、一字一句読む価値がある書物なので全文筆写が必要だ。 司馬遼太郎の歴史小説は熟読に値するが、黙読だけで十分理解できるように書かれているので筆写は不要。 『新書アフリカ史』は古典ほど熟読の価値は無いが、それなりに深く読む価値はあり、理解しやすいところと理解しにくいところが混ざっている。 その場合は部分的に筆写を取り入れている。この方法だと速く読めるが深くも読める。 ちなみに外国語の文章を読むときは音が大事なので音読が大事になってくる。

アフリカ史を学ぶのは世界史を学ぶ上で非常に重要だ。アフリカ史は世界史の「中核」ではない。しかし位置的に「中間」ではある。 その位置により奴隷交易を通じて南北アメリカ史とも関係があり、インド洋交易を通じてアラビア、インドとも関係がある。 欧州列強の植民地支配の方法を読めば当時のヨーロッパ人が何を考えていたかある程度分かる。

位置的に中間にあるのでアフリカ史を学ぶことで、世界史をアフリカ史という角度からとらえ直すことができる。

ライプニッツの『形而上学叙説』の九に次の言葉がある。

全て実体はひとつのまとまった世界のようなものであり、神の鏡もしくは全宇宙の鏡のようなものである。

例えばわれわれ人間一人一人もライプニッツの言う「実体」の一例である。 人間は物理学的に見て、宇宙の物理法則、例えば万有引力や波の法則などの影響を大きく受けている。 人間の身体は宇宙の物理法則をある程度反映しているのだ。

また人間はいろんな元素からなっている。例えば酸素や炭素なども含む。しかし宇宙の元素はほとんどは水素とヘリウムだという。 恒星の内部で核融合が起こっていろんな元素が生じる。人間は化学的に言っても宇宙の歴史をある程度反映している。

さらに人間の体の仕組みは非常に精巧にできている。これも何十億年にもわたる生物の進化の歴史そのものである。 生物は環境に適応するから当然人間は生物学的に見ても何十億年もの地球の歴史を反映している。

であるから一人の人間は宇宙を反映しており、全宇宙の鏡なのである。しかし我々はそれを実感していない。平凡な日常を送っている。 それを完全に実感できるのは全知全能の神をまってはじめて完全に実感できる。神から見ると我々人間は全宇宙の鏡なのである。

さらに続けて『形而上学叙説』から引用する。

実体は全宇宙を各自分の流儀に従って表出する。

人間や犬や樹はそれぞれ実体であり、それぞれ全宇宙を反映している。しかしその反映の仕方はそれぞれ違う。 それぞれ別の実体だからである。「自分の流儀に従って表出する」とある通りそれぞれの角度から宇宙を反映するのだ。

さらに続けて『形而上学叙説』から引用する。

同一の都市がこれを眺める人の様々な位置によって色々に表現されるようなものである。

同じ都市も見る人の位置によって違う姿を見せるように、宇宙も様々な実体によって様々に反映される。 それぞれの実体の角度から様々に宇宙が反映される。

さらに続けて『形而上学叙説』から引用する。

宇宙はいわば実体が存在するだけの数を以って倍されることになる。

宇宙には無数の実体が存在しているが、それぞれがそれぞれ宇宙を反映しているから、 実体が存在する数の分だけある意味宇宙が無数に存在すると言ってもいい、と言うわけだ。 人間一人もある意味宇宙だからである。

さらに続けて『形而上学叙説』から引用する。

神の栄光も同様に、神の業に関する互いに異なった表現と同じだけの数をもって倍されることになる。

実体が存在する数だけ、ある意味宇宙が存在することになる。宇宙を創ったのが神であり、実体を創ったのも神である。 だから宇宙を創った神の栄光は実体が存在する数の分だけ倍されることになる。

『形而上学叙説』は非常に面白くて続きを書こうと思えば書けるが、また別の機会にそのうち書こうかと思う。

アフリカ史の話に戻る。『形而上学叙説』と同じかは分からないがアフリカ史は世界史をアフリカ史という観点から反映している。 アフリカ史を読むことでアフリカ史と言う角度から世界史を読むことができる。 たった一ヶ月学んだだけでそんなに偉そうなことは言えないが、少しはそういう面がある。

ひとつの分野を詳しく把握すると他の分野のこともなんとなく分かるようになったりするが、それも同じことだと思う。

■twins seven seven の Shango

■Wayne Shorter の Orbits


■上部の画像はアフリカの仮面

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■作成日:2022/5/19