「〇〇な人は××だ。だからダメだ。」という発言の一面性

よく「Aな人はBだ。だからダメだ。」という発言をする人がいる。このタイプの発言は大抵の場合一面的である。

分かりやすくするために非常にシンプルな例を挙げる。倹約な人がいたとする。それを批判してある人が「倹約な人は価値あることにも金を使わない。だからダメだ。」と言う。これは「Aな人はBだ。だからダメだ。」の分かりやすい例だ。ほとんどの場合はもっと奥深く面白い指摘をする人がほとんどだが、単純化するため簡単な例にしておく。



厳密に言うと以下のようになる。

倹約 = 「価値ないことに金を使わない」
ケチ = 「価値あることにも金を使わない」

しかし確かに倹約な人は常にではないが多くの場合ケチであることが多いから、「倹約な人は価値あることにも金を使わない。だからダメだ。」と言うのはそれなりに当たっているかも知れない。

もう一つ例を挙げる。太っ腹な人がいたとする。それを批判してある人が「太っ腹な人は価値のないことにも金を使う。だからダメだ。」と言ったとする。これも「Aな人はBだ。だからダメだ。」の分かりやすい例だ。



厳密に言うと以下のようになる。

太っ腹 = 「価値あることに金を使う」
浪費家 = 「価値ないことにも金を使う」

確かに太っ腹の人は常にではないが多くの場合浪費家であるから、「太っ腹な人は価値のないことにも金を使う。だからダメだ。」は多少は当たっているかもしれない。

しかし「Aな人はBだ。だからダメだ。」は一面的である。倹約な人は「価値あることに金を使わない」というマイナスだけではなく「価値ないことに金を使わない」というプラスの面も持っている。太っ腹な人は、「価値ないことにもお金を使う」というマイナスだけではなく、「価値あることにもお金を使う」というプラスも持っている。マイナスだけを指摘して「ダメだ」と結論するのは正しいとは限らない。一面的だ。

松下幸之助に次の言葉がある。『一日一話』から引用する。

自由な発想の転換ができるということは、指導者にとってきわめて大事なことである。
しかし発想の転換ということはさかんに言われるが、実際はなかなか難しい。
みずから自分の心をしばったり、せばめている場合が多いのである。
だから大事なことは、自分の心をときはなち、ひろげていくことである。
そしてたとえば、いままでオモテから見ていたものをウラから見て、
またウラを見ていたものをオモテも見てみる。
そういったことをあらゆる機会に繰り返していくことであろう。
そうした心の訓練によって、随所に発想の転換ができるようにしたいものである。

「みずから自分の心をしばったり、せばめている」とは物事の一面しか捉えていないことを指す。それに対してオモテから見たりウラから見たりすることで自由に発想の転換ができるようになる、と言っている。松下幸之助によると、ビジネスにおいても物事の二面性を捉えることは重要なようである。

そういう意味で「Aな人はBだ。だからダメだ。」というのは一面的な指摘であることが多い。では「『Aな人はBだ。だからダメだ。』と言う人は一面的だ。だからダメだ」と言っていいかと言うとそれも違う。そう言うと「Aな人はBだ。だからダメだ。」と同じことを言っていることになる。スピノザなみに数学的に証明する。どうでもいい証明なので気にしなくていい。

「A1な人はB1だ。だからダメだ。」・・・①
「A1な人」=「A2な人はB2だ。だからダメだ。」と言う人・・・②
「B1」=「一面的」・・・③
②③を①に代入すると
①は「「A2な人はB2だ。だからダメだ。」と言う人は一面的だ。だからダメだ。」となる。
よって、
「「A2な人はB2だ。だからダメだ。」と言う人は一面的だ。だからダメだ。」と私が言うと
私は「A1な人はB1だ。だからダメだ。」と言っているのと同じになる。

「Aな人はBだ。だからダメだ。」と言う発言は一面的かもしれないが、物事の一面を指摘してくれている。これも物事の二面性。「一面的」という陰の裏に「一面を指摘してくれている」という陽が貼りついている。



「Aな人はBだ。だからダメだ。」という発言をする人も二種類あって、一面的だという自覚が無くて発言している人と、一面的だと分かってあえて発言している人がいる。だからそういう発言をする人が悪いわけではない。別にそういう言い方を批判しているのでもない。実際私自身そういう言い方は頻繁にする。悪いどころか内容によっては非常に貴重な指摘である場合がある。さらに全く正しい場合もある。たとえば万引きを何度も繰り返す人は実際ダメだろう。

問題は言う側ではなく実は受け取る側にある。物事の二面性を捉えない人が「倹約な人は価値あることにも金を使わない。だからダメだ。」という言葉を聞くと、「ああ、倹約はダメなんだ。太っ腹がいいんだ。」と思う。そして別の人から「太っ腹な人は価値ないことにもお金を使う。だからダメだ。」と言われると、今度は「ああ、太っ腹はダメなんだ。倹約がいいんだ。」と思う。ふらふらして意見が定まらない。悪い意味で真面目な人にありがち。いくら他人の優れた発言を聞いてもこれでは成長しない。ふらふらするだけ。

逆の場合もる。物事の二面性を捉えない倹約主義の人が「倹約な人は価値あることにも金を使わない。だからダメだ。」という言葉を聞くと、「そんなことはない。倹約な人は価値ないことに金を使わないからいいんだ。」と反発する。倹約の反面であるケチであることのマイナスを見ない。そして別の人から「太っ腹な人は価値ないことにもお金を使う。だからダメだ。」と言われると「その通りだ。その通りだ。」と言って太っ腹の長所は見ない。これはふらふらするよりはかなりいい。しかし成長の機会を逃す。やはり物事の二面性を理解していない。

物事の二面性を捉えた人が他人の話を聞くと一面的な人とは違う捉え方をする。「倹約な人は価値あることにも金を使わない。だからダメだ。」という発言を聞くと、「倹約な人は価値あることにも金を使わない一面があるんだ。なるほど。」と学ぶ。「太っ腹な人は価値ないことにもお金を使う。だからダメだ。」という発言を聞くと「太っ腹な人は価値ないことにもお金を使うという一面があるんだ。確かに。」と学ぶ。二面性を捉える人は他人のすぐれた発言を聞くごとに、鵜呑みにせず反発もせず、淡々と指摘された真理の一面を再確認して成長していく。ぶれることなく学んでいく。

もちろんそうは言っても私自身、例えば物理学などよく知らない分野では、ある専門家の意見を聞いて「なるほどそうなのか」と思い、別の専門家からそれと相反する内容を聴いて「え?本当はそうなの?」と思いふらふらすることはある。他人の意見を聞いて反発することもある。しかし常に物事の二面性を的確に捉える人は、鵜呑みにせず反発もしないのかもしれない。

ここではわざと倹約と太っ腹というあまり面白くもなく分かりやすい例を挙げているが、実際はもっと複雑で面白い指摘であることが多い。でも構造は同じ。

「Aな人はBだ。だからダメだ。」という発言は別に悪くない。私自身もそういう発言をして来たし、これからもする。問題なのは実は受け取る側の問題である。

倹約・ケチと太っ腹・浪費家について少し先走って言うと、一番いいのは「倹約かつ太っ腹な人」である。価値ないことに金を一切使わず倹約し、価値あることにドンと太っ腹に金を使う。AND型でハーモニー型中庸。一見矛盾する二つの性質が調和する。

「倹約かつケチ」や「太っ腹かつ浪費家」はOR型。どちらかに偏る。

倹約と太っ腹のバランスをとるのはバランス型中庸。中間をとる。

一番いけないのは「ケチかつ浪費家」だ。価値あることには金を使わないケチであり、意味ないことに金をたくさん使う浪費家。NOR型だ。NORとは「AでもないBでもない」という意味。自分に投資することにはケチであり、ギャンブルにたくさん金を使う。この辺に関しては後日詳述する。

■作成日:2023年7月27日

続きはプラスとマイナスの比較考量をご覧ください。

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