現代日本に普遍的思想を甦らすための私の個人的戦略

現代日本には普遍的な思想が足りない。これが日本の停滞の根本原因になっていると思う。普遍的な思想を甦らせることが私の目標だ。そのための戦略を今回は書いてみる。

この目標を達成するのはひとりのちからでは難しい。だからひとつの選択肢として思想の友達をつくるという方法がある。しかし私は思想の友達をつくっていない。友達を作ると良いことはたくさんある。非常に刺激になるし、学ぶことは多い。成長のスピードも上がる。

しかし思想の友達をつくることのマイナスもある。思想の友達をつくると他人に流される。友達がこの分野を読んでいるから自分も読もうとか。よくあるのが自分の属する思想のコミュニティでみんながこの本を読んでいるから、話についていけるようにその本を読むというパターン。みんながニーチェを読んでいるから自分も読むという場合だ。逆のパターンもある。Aさんにはあの分野では勝てないから、自分は別の分野に行こうというパターンだ。

これらはすべてノイズである。本当に自分がしたいことをするのではなく、他人が基準となって自分がやることを決めている。ほかにもノイズはあり得る。たとえば大学の思想の研究者になるのもノイズを伴う。中国思想学派、現代英米哲学学派、古代ギリシャ哲学など、学派に分かれていて目に見えない対立がある。それに捉われる。それに捉われないよう努力することもできるが、努力している時点でどこか間違えている。ひどい場合には出身大学による学閥もある。そこに何の本質があるのか意味が分からない。

その点、思想の友達をつくらなければ、ノイズは生じない。孤独であれば自分の問題意識に守れる。孤独であれば奥深い自分が何を創りたいのか努力しなくても自然にわかる。自分のつくりたい純度の高い思想になる。

茂木健一郎氏の『孤独になると結果が出せる』から引用する。

自分自身さえよくわかっていない無意識を意識のコントロールから解き放つことが「脱抑制」です。
脱抑制はそれまで気づかずにいた自分自身を知ることにもつながるというわけです。その脱抑制を可能にしやすい環境が、「孤独」です。

「脱抑制」とは意識による抑制をゆるめることだという。意識の抑制をゆるめて無意識が何を欲しているかが表れる。それによって奥深い自己に従うことが可能になる。要は孤独になると自分が本当は何を欲しているかがわかるというのだ。

さらに引用する。

人知れぬブルー・オーシャンを見つけるうえでのカギとなるのが、まさに孤独。「自分の内にあるもの」をトコトン追求していくことで、ほかの人が容易に真似できない独自の商品やサービスを生み出せる可能性があるからです。

ブルー・オーシャンとは独創性がある人が手にする市場である。競合他社がいない市場。独創的なので競合他社がいないのだ。独自の思想も自分自身に正直になることから生まれる。それには孤独が必要である。

さらに引用する。

同調圧力に屈しない孤独な人が破壊的イノベーションを生み出しやすいと言えるわけです。
そして物事の本質をよけいな包み紙を取りはらってまっすぐに考え抜くには、脳を「集中」させることが必要です。脳の「集中」とはノイズが取り除かれた状態です。既存のシステムやしがらみというノイズが除去されて初めて、本質を突き、論理的に一貫した破壊的イノベーションは可能になります。

ノイズにより我々は自分が本当にしたいことが何かわからなくなる。学派の争いなどはノイズである。出身大学の学閥の争いに至っては何の中身もないただのノイズだ。出世を目指すとそのようなノイズにとらわれるのだろうけれど、それとは関係ない私はノイズと無縁でいられる。坂本龍馬も脱藩したことで、「藩」というしがらみ、ノイズからフリーになった。だからこそ本当に日本のためになることに「集中」できた。

『易経講話』繋辞上伝に「少しの雑ざりもの無く、至極純粋精妙なる者」が神妙な働きをすると言っている。ノイズが全くない状態を指す。

『易経』繋辞上伝から引用する。

書下し文
易は思う無きなり。
為す無きなり。
寂然として動かず。
感じて而して遂に天下の故に通ず。
天下の至神に非ずんば、それ誰か能くこれに与からん。

現代語訳
易は思うところがない。
為すところがない。
静かにして動かない。
感じてそして天下のことがらに通じる。
天下のもっとも神妙なる者でなければ、誰がこれを為しえようか。

私は自分に正直であることの入門者であれば、上記のような人は名人達人である。これだけでは分かりづらい。公田連太郎『易経講話』に該当箇所の解説がある。

何事かを思うときは、そのことのために拘束され、そのことのために心を奪われて、あまねくあらゆる事に応じることはできない。何事かを為すときは、そのことのために心を傾けているのであって、あまねくあらゆることに応じることはできないのである。しかるに易を用いるところの蓍は、何の心も無いのであり、従って何の思うこともなく、何の事を為すことはなく、寂然として極めて静寂であり、自ら動くこともなく、物に動かされることも無いのである。
感応して遂に天下のあらゆる万事に通達するのである。たとえば一点の曇りのない明鏡のような者である。鏡の表面には何もないのであるが、その前に何者かが来るときは、直に少しの相違なく、鏡の前にうつり現れるのである。
易を学ぶところの君子が、もし思うところ無く、為すこと無く、寂然として極めて静寂であって、一点のくもりない明鏡の如き心境に至れば、自然に天下のあらゆることを感通し得られるはずである。これは易から見た人間の修養の理想的の極致であり、古来何人がこの理想的の境地に至ったかという事は、別の一つの問題である。私ひそかに思うに、聖人哲人と称せられている人が古来少なからずあるが、それらの聖人哲人といえども、始終、間断なく常に、かような境地に居られたとは考えることはできないけれども、しかし時々、ある時間、かような境地に居られたであろうことは想像しえられる。

私のような凡人ではそのような境地はとても想像すらできないが、公田連太郎の言う通り古代の聖人は瞬間的にそのような境地に近づくのかもしれない。我々はあまりこれを参考にし過ぎないほうがいい、表面的に真似すると思考も行動もしないでくの坊になる。この個所は難解なので飛ばしてもらっていい。

私自身のことに戻るが、私は現在は孤独を守ることでノイズをキャンセルし、自分が創りたい思想を守るようにしている。

それは現代日本に何が一番大切かを考えることでもある。ノイズを除去して、現代日本に何が一番足りてないか何が必要かを追求する。他人に振り回されずに真理に沈潜することができる。結局真理をとらえる深さがその仕事の大きさに最終的につながる。仕事の大きさはそれにかけた金額で決まるとは限らない。それにかけた時間で決まるとも限らない。金も時間も重要ではあるが、最終的にはそのコンテンツで決まる。思想の深さで決まる。自分の創りたい思想ができるまでは孤独を守る。

思想の友達がいると学ぶ「スピード」は段違いに上がる。若いころはこれは大切である。若いころに優れた友人がいるとその後の成長が大きく違ってくる。私も大学時代、すぐれた先輩や同期の思想家たちを見て非常に感銘を受けた。その後の思想の展開に非常に役立っている。

しかし思想の友達がいると学んでいく「方向」がずれる。スピードは上がるが方向がずれるのだ。本当に自分が追求したい真理へ向かって進むべきなのに他人の影響で方向に微妙にずれが生じる。本当に自分が向かいたい方向を少し見失う。下図をご覧ください。



左下は孤独な人。良い意味での孤独を保てる。しかし同時に悪い意味での孤立も生じる。他人との交流がないからだ。右下は他人との交流が好きな人。それは良いことである。しかし場合によっては他人に流されるという短所も生じえる。もっとも良いのは真ん中の上のハーモニー型中庸。他人と交流しながらも自分の信念をたもち良い意味での孤独を守る。ハーモニー型中庸がもっともすぐれているが、私個人はそれを実現できる自信がないので現在は「孤独・孤立」というOR型を選択している。

もちろん「孤独・孤立」のOR型は他人の考えがあまり入ってこないので欠点は多い。ただ現代はyoutubeやSNSで他人の意見に触れるのはある程度できるようにはなっている。他人の考えが入ってこないのを補うため、youtubeはスマホではなくplaystation5に55インチの大画面をつないで見るようにしている。大画面で迫力あるのでyoutubeの識者たちが目の前にいるかのような迫力はある。それで欠点を少し補っている。ネット上ではそれなりに交流しないでもないが、リアルでは交流しないようにしている。しかし交流しないのは大きな欠点になるのでお勧めはしない。現在の私にはそれが良いというだけに過ぎない。

それに本当は人と交わりながら、自分の孤独を守るというのが理想的である。『菜根譚』に次の言葉がある。

書下し文
静中の静は真静にあらず。
動処に静にし得来たりて、
僅かに是れ性天の真境なり。

現代語訳
静けさの内に得た静けさは本当の静けさではない。
動きの中に静けさを得てはじめて、本当の静けさを得た境地となる。

私は孤独を守り静かなところにいて静けさを守っている。それは本当の静けさではないという。活発に行動し動き、その中に静けさがあるのが本当の静けさである。ハーモニー型中庸である。

ただ私は自分の実力を鑑みて、ハーモニー型中庸は明らかに無理なのでOR型をとっている。ハーモニー型中庸は理想的ではあるが、無理はしないほうがいいのである。

思想をつくる環境はあえて「孤独・孤立」というOR型を採っている。しかし思想内容はOR型ではない。下図をご覧ください。



左下は古典レベルのレベルの高い思想。しかしそういう思想は難解である。右下は分かりやすい思想。それは良い思想だがレベルが古典に比べると低くなりがち。私が目指すのはハーモニー型中庸。古典のレベルの高さを保持しながら分かりやすさを持つ思想。

別の言葉で言い換えると、古い古典の思想を新しく現代的に甦らせるのを目標にしている。古い普遍的な伝統思想にもとづくから、根なし草ではない普遍的な現代思想になる。現代的に解説するから古い古典が現代的によみがえる。古さと新しさのハーモニー型中庸である。思想内容ではあえて難易度の高いハーモニー型中庸を目指す。

ただ思想とは言っても色々あって、仏教のような壮大な思想もあれば英米分析哲学のように細かい思想もある。壮大な思想はそれ自体魅力がある。重要だ。しかしビジネスなど実用的な分野で壮大な思想を生かすのは難しい。実用性に欠ける。左下のOR型。細かい思想は非常に鋭く面白い。しかし細かすぎる。細かすぎても良くない。右下のOR型。私は中国思想をベースに考えている。中国思想は壮大に過ぎず細か過ぎずちょうどいい中庸になっている。その点では私はバランス型中庸を採用している。おそらく壮大さと細かさという点では、とりあえず日本に必要なのは、バランスの取れた思想なのかなと思っている。将来的には仏教ももっと学びたいが当面はバランス型で行く。



では自分が納得できる思想ができたらどうするか。その場合は多くの人に読んでもらうのを目標にする。例えばビジネスに関する思想ができたら、ビジネスをする人たちに読んでもらうのを目標にする。起業する人たちが使える思想を用意するのを目標にしている。

「花になるより土になれ」という言葉がある。起業する人たちを花とすると、私は現代的で普遍的な思想という土をつくるのを目標にしている。現代日本は普遍的で生きた思想がない。思想的土壌が悪い。これが日本の停滞の原因になっている可能性がある。

私が起業して仮にうまくいってもひとつの花が増えるだけ。それより土になってたくさんの花の養分になったほうが明らかにコストパフォーマンスがいい。

幕末も思想家と行動家の連携があった。思想家と行動家のどちらが偉いかの問題ではない。思想家も行動家もひとりではできることは限られている。重要なのは連携すること。思想家はOR型であり行動家もOR型。ハーモニー型中庸を採るなら自分の思想を持ち行動もする人になる。バランス型中庸をとるなら両者の中間を行く。私はあえて思想家というOR型をとって行動家と連携をとるという方向を目指す。恐らく私の場合はそれが一番良い。

今回のシリーズで4つの選択肢を挙げた。

・ハーモニー型中庸
・バランス型中庸
・あえてOR型
・OR型で欠点を補う人との連携

これらのうちどれかが正しいというのではなく、場面ごとに使い分けるべき。私自身もこれらの4つの方法を組み合わせて戦略を立てている。

■作成日:2023年9月4日

続きは優れた人はすべてをプラスにする。劣った人はマイナスにする。前篇をご覧ください。

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