中庸を執るのは難しい

『中庸』に次の言葉がある。

書下し文
子曰く、道の行われざるや、我これを知れり。
知者は之を過ぎ愚者は及ばざるなり。
道の明らかならざるや、我これを知れり。
賢者はこれに過ぎ、不肖者は及ばざるなり。

現代語訳
孔子が言われた。
「中庸という道が世の中に行われないと私は知っている。
知者は中庸を越えてやりすぎてしまい、愚者は中庸まで到達しない。
中庸という道が世の中に明らかになっていないと知っている。
賢者は中庸を越えてやりすぎてしまい、能力がない人は中庸まで到達しない。」

知者は自分のもっている知恵に任せて物事をやりすぎてしまうと述べている。逆に愚者は物事を十分に思い通りに行えないので、結果が出せず中庸まで到達しない。いずれにしても中庸を行えない。

次の言葉もある。

書下し文
仲尼曰く。君子は中庸し、小人は中庸に反す。
君子の中庸は時に中すればなり。
小人の中庸に反するは小人にして忌憚するなければなり。

現代語訳
孔子が言われた。
「優れた人は中庸を守り、劣った人は中庸に反する。
君子が中庸を守るのは、優れた人はその時その場にふさわしい中庸を知っているからであり、
小人が中庸に反するのは、劣った人は自分の言行が世間に悪影響を与えることを恐れず極端に走るからだ。」

君子は中庸の大切さを知るため中庸を守るが、知者は世の中が自分の知恵で思い通りになるのが面白くて、世間への悪影響を考えず、やりたい放題やりすぎてしまう。それは劣った人だという。

次の言葉もある。

書下し文
天下国家も均しくすべきなり。
爵禄も辞すべきなり。
白刃も踏むべきなり。
中庸は能くすべからざるなり。

現代語訳
孔子が言われた。
「天下国家を治めることができる人はいる。
高い地位を辞退することができる人もいる。
敵の軍に突撃することもできる人もいる。
しかし中庸を行うことができる人はめったにいない。」

中庸は難しいと言う。政治の能力がある人は天下国家を治められる。清廉な人は高い地位や金を辞退して清廉さを守ることができる。勇敢な人は敵を恐れず敵の陣地に突撃することができる。これらは難しいが出来なくはないと言う。しかし中庸を執るのはもっと難しいと述べている。

次の言葉もある。

書下し文
子曰く、中庸はそれ至れるかな。民よく久しくすること少なし。

現代語訳
孔子が言われた。「中庸は優れている。中庸を行う人は少ない。」

「過不及なく」という言葉を紹介した。「過」は中庸を超えてやりすぎ。「不及」は中庸に届かずやりたりない。twitterである人が「足りないのであれば足せばいい。やりすぎた場合は引けないので、やりすぎのほうが問題である。」と言っていた。

料理の塩味も塩味が足りなければ足せばいい。塩味が多すぎると引けないので問題なのである。

日本は戦後近代化した。街はビルが建ち、コンクリートで埋め尽くされる。近代化に良い側面は当然あっただろう。しかし京都や奈良まで近代化すべきだったかは非常に疑問である。京都や奈良は近代的建物が立たないよう規制すべきだった気がする。近代化がやり足りないのであれば後で足せばよいのだが、行き過ぎると後に戻せないのである。

世の中にはきれい好きな人がいる。物理的にも道徳的にもきれい好きな人だ。それはとても良い。しかし行き過ぎると潔癖になり、寛容さがなくなる。逆に他人に寛容な人は素晴らしい。しかし行き過ぎると他人にも自分にも甘くなり、だらしがなくなり規律が失われる。中庸が良い。



自信があるのは素晴らしい。しかし行き過ぎると傲慢になりがちである。謙虚なのは良いことだ。しかし行き過ぎると卑屈になる。やはり中庸が良い。



文章は具体的なのは良い。イメージしやすくなる。しかし余りに具体的だとまとまりがなくなり論旨が分かりづらくなる。文章が抽象的なのは良い。本質が明らかになる。しかし抽象的に過ぎるとイメージしずらい文章になる。



出世を目指すのは素晴らしい。利益を求めるのも必要である。しかし出世にこだわりすぎたり、利益を求めすぎたりするのは自分のためにならない。名誉や利益にこだわらないのは良いことだが、行き過ぎて世捨て人になるのは違う。中庸が大事。



『言志後録』に次の言葉がある。

書下し文
名利はもとより悪しきものに非ず。
ただ己私の累わす所となるべからず。
これを愛好すといえども、また自ら恰好の中を得るところ有り。
則ち、天理の当然なり。
およそ人情は愛好すべきもの何ぞ限らん。
しかしてその間にもまた小大あり軽重あり。
よくこれを権衡すれば、ここにその中を得るは、則ち天理のある所なり。
人はただ己私の累をなすを恐るるのみ。
名利豈に果たして人を累せんや。

現代語訳
名誉や利益は本来悪いものではない。
ただ私利私欲に負けてしまわないようにすべきである。
名誉や利益を愛好しても、自分にみあった中ほどのところを得るのが良い。
それが天の道理に合うのである。
だいたい人情として名誉や利益を愛し好むのに限度が無い。
しかし名誉や利益にも大小や軽重がある。
この釣り合いをよくはかって中庸を得れば、それが天の道理に合うのである。
自分が私利私欲に負けてしまうのを恐れるべきなだけであって、
名誉や利益が人を悪くするのではないのである。

『言志四録』は佐藤一斎の著作である。佐藤一斎は名誉や利益自体が悪いのではないと言う。名誉や利益を求める気持ちが行き過ぎて、私利私欲に流され、私利私欲に埋もれて、私利私欲にまけるようになると、本人に害が及ぶと述べている。自分に合ったほどよい名誉や利益を求めると、それは中庸を執ることになり、天の道理に合うのだと言う。私利私欲に埋もれたり、逆に世捨て人になったりするのではなく、程よい中庸を得ると物事は自然にうまく行く。

■作成日:2023年8月9日

続きは中庸は本当に正しいのかをご覧ください。

■このページを良いと思った方、
↓のいいねを押してください。



■関連記事