中庸をさらに具体的に

さらに中庸の例を挙げていく。うざいほど例を挙げる。千本ノックのつもりだ。面倒な場合は飛ばしてもらってもいい。

シンプルな例を挙げる。近視と遠視。近視は近くにピントが合う。遠視は遠くにピントが合う。丁度良くピントが合うのが中庸。



情熱的な人は優れている。しかしあまりに情熱的過ぎて冷静さを失うと危険。逆に冷静な人は優れている。しかし冷静すぎて情熱がないと良い仕事をしないかもしれない。中庸を執るとうまく行く。



理想を掲げるのは良いことである。しかし理想に走って現実を無視すると、現実世界で失敗する。逆に現実的であるのは良いことである。しかし現実的過ぎて理想を持たないと、世の中を良い方向に変えていくことはできない。理想と現実の中庸を執るのが大事。



歴史を読むと、理想に走りすぎて現実で失敗する例は時々見かける。古代中国では孟子。現代ではウッドロー・ウィルソンがいる。ふたりとも偉大な人物だが、理想と現実の中庸が取れていなかったのは事実である。

それに対して理想を持たない現実主義者も歴史に現れる。『三国志』では董卓。軍事力と権力だけを信じ、一時期強大な権力を持った。この人はろくでもない人間である。

董卓の横暴に反発する人たちが現れ、董卓は最終的に滅びる。現実主義も行き過ぎると失敗する。仮に成功しても理想を持たないので世の中を良くした人間としては歴史に残らない。

正解は理想と現実の中庸にある。『三国志』では曹操や孔明。曹操は小説ではゴリゴリの現実主義者のように描かれているが、実際の史実では理想を持ち、天下に平和と秩序をもたらすことを目指した人だった。熱い理想家だった。同時に彼は冷静な現実主義者でもあった。理想と現実の中庸が執れているので、理想に基づいて現実を良い方向に変えることができたのである。

理想と現実の中庸が執れない人を、E.H.カーというイギリス人は『危機の二十年』で次のように述べている。

理想主義者の典型的な欠陥は無垢なことであり、現実主義者の欠陥は不毛なことである。

理想に走りすぎた人と現実だけを見て理想を持たない人の欠点を述べている。理想主義者は行き過ぎると「青すぎる」のである。現実主義も行き過ぎると理想を持たないので「生産的ではない」のだ。次のようにも述べている。

未成熟な思考はすぐれて目的的であり理想主義的である。とはいえ目的をまったく拒む思考は老人の思考である。

そして理想と現実の中庸が執れている人を描写して次のように言う。

成熟した思考は目的と観察分析をあわせもつ。

「目的」とは理想のことであり、「観察分析」とは現実主義である。理想主義は「未成年」。現実主義は「老人」。中庸が取れている人はその両方をあわせ持つ。成熟した「壮年」の思考である。さらに次のように述べる。

こうして理想主義と現実主義は政治学の両面を構成するのである。健全な政治思考および健全な政治生活は理想主義と現実主義がともに存するところにのみその姿を現すであろう。

イギリス人は理想と現実の中庸を執るのがうまい。E.H.カーの文章からもその点がうかがえる。

理想と現実の中庸が執れれば、ある程度ではあるが自然と物事がうまく行く。

大胆な人は大きな仕事をする。しかし大胆過ぎると時にがさつになる。繊細さが足りないため大きな計画を掲げても途中からうまく行かない。繊細な人は良い仕事をするが、繊細過ぎると神経質になる。小さな良い仕事をするが、大きい仕事をしない。やはり中庸を執るとある程度自然と物事がうまく行く。



焼き魚を焼くとする。焼きすぎて焦げてしまってはおいしくない。逆に焼き方が足りな過ぎてもおいしくない。丁度いい焼き加減の時、もっともおいしくなる。これも中庸。



楽観的であるのは素晴らしい。しかし楽観的に過ぎたらリスクを直視しないので危険となりうる。悲観的であるのは悪いと思われている。しかし慎重にリスクや障害を分析するのでプラスの場合もある。しかし確かに悲観的に過ぎると計画も立てずに止めてしまう。

やはり程よく楽観的で程よく悲観的な人がうまく行くのかもしれない。



将棋や囲碁、サッカーや剣道などでは攻めの局面と守りの局面がある。攻めるのは大事だが、バランスを失うほどの攻め過ぎは良くないかもしれない。防御も大切だが守りすぎは良くないだろう。攻防のバランスがとれているのが大雑把に言って優れている。私は昔剣道をしていたが、「攻防一致」という言葉をよく聞いた。分かる気がする。



酒を飲むのも少し飲むのは健康に良いようである。私は飲まないので本来少し飲んだほうがいいのかもしれない。もちろん飲み過ぎは良くない。



『言志録』に次の言葉がある。

書下し文
酒は穀気の精なり。少しく飲めば以て生を養うべし。
過飲して狂に至るは、これ薬によって病を発するなり。
人参、附子、巴豆、大黄の類の如きも、多くこれを服すれば、必ず瞑眩を致す。
酒を飲んで発狂するもまた猶かくの如し。

現代語訳
酒は穀物の精である。少量飲めば健康に良い。
飲み過ぎて気ちがいのようになるのは、薬を飲み過ぎて病になるのと同じだ。
人参、附子、巴豆、大黄のような薬であっても、とりすぎるとめまいを生じる。
酒を飲んで発狂するのも似たようなものだ。

薬のような良いものでも、とりすぎると毒になる。酒も少し飲むなら薬になって良いが、飲み過ぎると毒になる。中庸が大事。

『菜根譚』に次の言葉がある。

書下し文
花は半開を看て、酒は微酔に飲む。
この中に大いに佳趣あり。
もし爛漫泥酔に至らば、則ち悪境を成す。
盈満を履む者は、宜しくこれを思うべし。

現代語訳
花は五分咲きを看て、酒はほろ酔いに飲む。
そのうちに優れた良い趣がある。
花は満開を見て、酒は泥酔に至るまで飲むと、最終的に悪しき境地に至る。
満ち足りた境遇にいる人はこの点をよく考えるべきである。

花は半開。酒は微酔。これも中庸の趣深い境地を表している。

■作成日:2023年8月7日

続きは中庸を執るのは難しいをご覧ください。

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