中庸に必要な臨機応変さ

中庸とはほどよい中間を得ることだが、中庸は固定的に捉えるべきとは限らない。たとえば理想主義と現実主義。理想に走りすぎるのは中庸を得ていない。現実しか見なくて理想を持たないのも中庸を得ていない。ちょうどいいバランスに中庸はある。



しかし世の中に中庸を実現する場合、世の中の意見は振り子のように揺れている点を認識する必要がある。優れたアイデアが世の中に出ると、そのアイデアは世間に広がっていく。それは良いことである。しかし世間に十分に広がるとその後、必ず行き過ぎが生じる。「コスパ」という言葉や「お客様は神様です」という言葉は、もともと優れた言葉かもしれない。しかしそれが世間に広がると必ず行き過ぎが生じる。行き過ぎが生じると「コスパ志向は良くない」と言われ「お客様は神様ではありません」と言われ、振り子は逆に振れて中庸をとろうとする。

理想主義と現実主義も同じ。必ず行き過ぎが生じる。そのたびに中庸に戻りバランスを取ろうとして、振り子は逆に振れていく。『危機の二十年』から引用する。

現実主義が理想主義の行き過ぎを是正する手段として必要とされる時代はある。それはちょうど他の時代に理想主義が現実主義の不毛性に対抗するために必要とされるのと同じである。

理想主義が世の中に行き過ぎると、「もっと現実を見よう」と主張され中庸に戻ろうとする。現実主義が行き過ぎると「もっと理想を持とう」と言われ中庸に戻ろうとする。さらに引用する。

理想主義と現実主義の対立は天秤のように均衡を得ようとして常に揺れており、あるいは均衡に近づこうとしあるいは均衡から離れようとするが、完全には均衡に達することはない。

理想主義と現実主義は天秤のように揺れている。中庸という均衡に向かって揺れ、中庸から離れるようにして揺れる。左右に揺れるがその中心には常に均衡という中庸が存在する。中庸は必ずしも固定的に捉えるべきとは限らない。世の中で中庸を実現する場合、天秤のように左右に揺れながら中庸を実現するという方法がとられることは多い。

右にゆれ左にゆれるのではあるが、常に均衡という中庸を見ながら、均衡という中庸を中心にしながら、天秤のようにバランスをとっているのである。

松下幸之助に次の言葉がある。『一日一話』から引用する。

時計の振り子は右にふれ左にふれる。
そして休みなく時がきざまれる。
それが原則であり、時計が生きている証拠であると言ってよい。
世の中も、また人生もかくの如し。
右にゆれ左にゆれる。
ゆれてこそ、世の中は生きているのである。
躍動しているのである。
しかし、ここで大事なことは、右にゆれ左にゆれるといっても、そのゆれかたが中庸を得なければならぬということである。
右にゆれ左にゆれるその振幅が中庸を得なければならぬということである。
右にゆれ左にゆれるその振幅が適切適正であってこそ、そこから繁栄が生み出されてくる。
小さくふれてもいけないし、大きく振れてもいけない。
中庸を得たふれかた、ゆれかたが大事なのである。

理想主義と現実主義でも理想主義にふれる時代はある。しかし理想主義に大きく振れ過ぎてはいけない。中庸を得ないといけない。現実主義に振れる場合も大きく振れ過ぎてはいけない。やはり中庸を得る必要がある。

中庸はその時々において一番ピントの合う正しい中庸というものは存在すると思う。しかし中庸は融通の利かない固定的で硬直したものでは決してない。『孟子』尽心章句に次の言葉がある。

書下し文
中を執るこれ道に近しと為すも、
中を執りて権ることなければ、
なお一を執るが如し。

現代語訳
中間をとるのは道を知るに近いのであるが、
中間をとっても臨機応変さが伴わなければ、
ひとつの立場に固執するのとかわらない。

単純に中間をとってそれに固執するのは、極端に走るのとあまりかわらないと述べている。それは本当の中庸ではない。臨機応変が必要。書下し文の「権る」は「はかる」と読む。現代語訳では「臨機応変」と訳した。「権」という言葉は「権謀術数」の「権」でもあり、問題のある言葉だ。しかし重要な言葉でもある。「権」は漢和辞典では「はかりにかけてバランスをとること」とある。『危機の二十年』の天秤と同じである。陰陽のバランスをその時々に応じて柔軟に執るという意味でかなり高度な概念。

『論語』子罕篇に次の言葉がある。

書下し文
子曰く、共に学ぶべし。
未だ共に道に行くべからず。
共に道に行くべし。
未だ共に立つべからず。
共に立つべし。
未だ共に権るべからず。

現代語訳
孔子が言われた。
ともに一緒に学ぶことができる人がいる。
しかしそれでも一緒に道に進めるとは限らない。
ともに一緒に道に進める人がいる。
しかしそれでも一緒に立つことができるとは限らない。
ともに一緒に立つことができる人がいる。
しかしそれでも一緒に臨機応変の仕事ができるとは限らない。

「権る」「臨機応変の仕事をする」のをもっとも難しいこととして孔子は規定している。「権」の中庸は難易度の高い中庸になる。今回のような入門編では本当は書かないほうがいいのかもしれない。私も十分理解していないのか、いまいちうまく説明ができない。

中庸は陰と陽のバランスをとることだが、陰と陽の比率は「5:5」とは限らない。松下幸之助に次の言葉がある。『一日一話』から引用する。

人間というものは、誰でも長所と短所を持っている。だから大勢の人を擁して仕事をしているのであれば、それぞれに多種多様な長所と短所が見られる。その場合、部下の短所ばかりを見たのでは、なかなか思い切って使えないし、部下にしても面白くない。その点、長所を見ると、その長所に従って生かし方が考えられ、ある程度大胆に使える。部下も自分の長所が認めてもらえれば嬉しいし、知らず知らず一生懸命働く。しかし、もちろん長所ばかりを見て、短所をまったく見ないということではいけない。私は短所四分、長所六分くらいに見るのがよいのではないかと思うのである。

部下の短所を見るのを「陰」として、部下の長所を見るのを「陽」とする。松下幸之助によると「陰:陽」の比率、バランスは「4:6」がちょうどいいと言うのである。この場合に関しては「4:6」が正しい中庸というわけだ。

『論語』雍也篇に次の言葉がある。

書下し文
子曰く。質、文に勝てば則ち野。
文、質に勝てば則ち史。
文質彬彬として然る後に君子なり。

現代語訳
孔子が言われた。質実さが飾りより強ければ野人だ。
飾りが質実よりも強ければ、うわべ飾りである。
飾りと質実が調和してはじめて優れた人になれる。

飾りと質実の両方を備え、中庸を得た人物が優れていると孔子は言う。「飾り:質実」が「5:5」がちょうどいいと解釈もできる。しかし『論語』子路篇に次の言葉がある。

書下し文
子曰く。剛毅朴訥、仁に近し。

現代語訳
孔子が言われた。真直ぐで勇敢、質実で寡黙な人は仁に近い。

「剛毅朴訥」は恐らく飾り気の無い人を指すはず。それでも孔子は評価している。

それに対して『論語』学而篇に次の言葉がある。

書下し文
子曰く。巧言令色鮮し仁。

現代語訳
孔子が言われた。
言葉巧みで顔色をとりつくろう者は仁を持つことが少ない。

「巧言令色」は飾りに近いのかもしれない。悪い意味での飾りと言うべきか。

「剛毅朴訥」を「巧言令色」よりはるかに評価しているのを見ると「文質彬彬」「飾りと質実の中庸」というのも、「飾り:質実」の比率は「5:5」ではなく恐らく「2:8」くらいだと思われる。

要は中庸とは言っても「5:5」とは限らない。「4:6」「6:4」は頻繁にあるし場合によっては「2:8」「8:2」が中庸ということもあるはず。

風呂の温度でも一般的には40度がちょうどいい中庸かもしれない。熱すぎても冷たくてもいけない。しかし心臓に病気があれば、適切な温度は違ってくるし、夏と冬では違ってくるかもしれない。風呂の温度の中庸も時と状況によって変わってくる。

ラーメンやパスタの麺のカタさにも中庸がある。私は九州に住んでいるので豚骨ラーメンを食べる。麺のカタさはカタ麺、ふつう麺、やわ麺とあるが、単純に考えるとふつう麺が中庸のようである。しかし豚骨ラーメンでは麺が細く、カタ麺がちょうどよく中庸である場合が多い。カタ麺よりさらにカタい、「バリカタ」というのもあるが、恐らくこれは中庸からはずれている。しかし豚骨ラーメンであっても麺の太さやスープとの相性からふつう麺のほうがちょうどよい中庸である場合はけっこう多い。結局は麺やスープや客自身の好みなどが総合されてちょうどいいカタさの中庸が決まる。結局好きなカタさで食べるのがよいというのが結論になる。

■2023年11月27日追記。

たとえば経済の景気も不景気になりすぎてはいけない。日本が不景気になりすぎて例えば高級なレストランほど売れなくなったとすると、高級なレストランのシェフが腕を振るう機会が失われることを意味する。不景気が過ぎるとすぐれた人たちほど仕事がなくなる。価値創造の機会が失われる。逆に景気の過熱も問題がある。インフレになる。大切なのは中庸である。しかし中庸とはいっても「好景気:不景気」の割合が「5:5」よりも「6:4」くらいの「若干好景気」がちょうどいいらしい。「中庸」とはいっても「5:5」がちょうどいいとは限らない一例である。

■追記終り。

■作成日:2023年8月14日

続きは日本に必要な中庸をご覧ください。

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