歴史学における想像力と客観性の調和

以前ケマルアタテュルクと言う人の伝記を読んだ。非常に偉大な人物で、非常に感動した。下がケマルの写真。



その本は優れた本だったが、Amazonのレビューに次のような記載があった。この本の著者がケマルに心酔しすぎていて、興覚めだと言うのである。

偉大な人物の伝記を書くときに付きまとう難しい問題がここにある。偉大な人物を知れば知るほどその偉大さに心酔する。人によっては客観性を失ったり事実を無視したりする。そういう傾向は生じる。それは確かに問題である。しかし逆に冷静すぎる単に客観的な分析は偉人の偉大さを理解しない伝記でありそこに意味があるのか疑問である。

偉人の伝記を書くには、偉人の偉大さを理解することと事実に忠実で客観的であることの両方が必要である。一見相反するふたつのことを兼ね備える必要がある。ハーモニー型中庸である。



偉人の偉大さを理解し偉人に惚れこむからこそ、その偉人が残した事実に忠実であろうとする。事実に忠実だからこそ、その偉人の偉大さが事実から浮かび上がるようにする必要がある。これも偉人への惚れこみと事実に忠実であると言う客観性という二つの相反するものが、互いに支え合い、調和して、循環している。

梅原猛の『聖徳太子』に次の言葉がある。

私は歴史世界を理解するには、何よりも想像力が必要であると思う。歴史の中に生きているのは人間であり、人間が歴史をつくっていく。その人間を理解することなくして、歴史はわかるはずはない。そして人間を理解するには、文学的想像力がいるのである。このような文学的想像力なくして、人間が、それと同時に歴史が理解されるはずはない。

歴史には想像力が必要である。歴史書を読むのであれば文学的想像力が必要。歴史の史跡を訪れるときは、その場で想像力が働かないといけない。たとえば長崎を訪れる場合、出島は現在陸地に囲まれているが昔は海に突き出ていたのか。中華街もだな。ここらへん一帯に幕府の役所があって、そっちの辺は中国人が住んでいて、グラバー邸とかがあるあの辺は西洋人が住んでいた。花街はここからでにぎわっていただろうな。現在でも当時の雰囲気は街から少し感じられるな。などなど江戸時代の当時の長崎の風景をぼんやりとでも想像できないといけない。

イギリスのゲルマン時代の歴史を読むときは、古英語を勉強し古英語で書かれた『ベオウルフ』の朗読をyoutubeで聴き、当時のお酒ミードを飲み、過去の遺物を見て、『ベオウルフ』の映画も見て、それらをすべて総合して、当時の状況を想像できないと歴史は面白くない。歴史の勉強は自分の中にタイムマシーンを持つようなものである。ドラえもんを待たずしてタイムトラベルはある程度は可能である。本当は年中、歴史の勉強したいのだが、思想の記事を書くのが自分にとって急務であるため残念ながらできない。

いずれにしても歴史にはいろんな種類の想像力が必要である。想像力がないと歴史は面白くない。専門家でないと正確に想像できないだろうけど、素人でも正確ではなくともある程度想像力が働くと歴史はがぜん面白くなる。梅原猛の『聖徳太子』からさらに引用する。

なんの新しい主張もなく、冒険もなく、ただいたずらに史料を並べただけの歴史の著書も良くない。前の時代の解釈を羅列し、折衷しただけの史書は、それは史料及び史料を解釈する従来の説を知るには役立たないことは無いが、歴史書としては物足りないのは当然である。

史料で主張を厳密に証明するのは素晴らしいが、背後に豊かな想像力が感じられない歴史書は魅力が無い。梅原猛の『聖徳太子』からさらに引用する。

歴史学の面白さは想像力が客観的な史料と食うか食われるかの闘いを演じるところにあると私は思う。多くの史料の中から自説に都合のいいような史料だけを選んで、主観的に自説を組み立てるのは、学問的に許されないし、また人生の態度としては、まことに面白くない。それははじめから勝負が決まっているようなものである。負けるかもわからない闘いを、努力して勝ってはじめて人生は、生き甲斐があるのである。それなのに、最初から闘いをあきらめて主観的に自分は勝ったと思っているようなものは、けっして強者の態度ではなく、弱者の態度である。

梅原は歴史における想像力の重要性を説きつつ、同時に史料を重視し史料と格闘することの重要性を述べる。さらに引用する。

歴史解釈ははなはだ男性的な営為である。対象に大いなる問いを投げかけ、その問いの投げかけによって、客観的な史料の中から、ひとつの人間や世界が現れてくる。その現れた人間像や世界像を、できるだけ多くの史料によって吟味していく。もしこの人間像や世界像が、主観的な想像からうまれた幻想にすぎないものであれば、その吟味の過程でおのずからその幻想も消滅する。そしてその像が幻想としたら、再び史料に挑戦しなければならない。そのような客観的史料との格闘の末に、少なくとも現存するいかなる史料によっても消滅しない、またその史料をもっとも確実に説明できる生き生きとした人間像や世界像を浮かび上がらせる。

私は以前楽天koboの電子書籍で『三国志』の趙雲と言う人の研究をした。梅原のこの文章はその時の私が抱いた感情を書いたかのようである。自分の中に趙雲に対する人間像がありそれが幻想なのか史実なのか、史料に問いかけ史料と格闘しながら理解を深めていった。そしておそらく私の提示した趙雲像は現存する史料によって消滅しない趙雲像になっている気がする。もっとも趙雲に関する史料はそもそも非常に少ない。しかもその史料にはだれでもアクセスできる。ある意味歴史の素人でも書きやすいテーマかもしれない。しかし逆に言うと史料が少ないので書きづらいとも言える。小説に関しては趙雲について論じた文章は多い。しかし史実の趙雲に関して論じた文章はほとんど存在しない。存在しても長文のはたぶんないはずである。ある意味書きづらいテーマとも言える。

それはどちらでもいいのだが、いずれにしても歴史においても、「対立するふたつのものの調和」がある。



奔放な想像力があるから、今までの学者とは違う独自の角度から史料を深く読める。史料との格闘があるから、奔放な想像力が単なる妄想ではなく、真理を捉えた洞察であったことを客観的に証明できる。奔放な想像力と厳密な史料の読解という、一見相反し矛盾するふたつの要素が、支えあい、調和し、循環する。

■作成日:2023年8月18日

続きは「対立するふたつのものの調和」の具体例6選をご覧ください。

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