過ぎたるは猶及ばざるが如し

「対立するふたつの性質における陰陽」をたくさんの具体例で見てきた。ここからは陰陽のバランス、陰と陽の中庸について解説していく。

優れているものと劣っているものをみなさんはどのようにイメージしているだろうか。下の図のようにイメージしていないだろうか。優れたものが上にあり、劣ったものが下にある。



そのイメージは正しい。しかし下の図のように捉えたほうがいい場合もある。



優れたものは両極端の中庸にある。劣った者は両極端にある。陰と陽どちらかに偏り過ぎると「劣」になり、正しい中庸を執ると「優」になる。

一番シンプルな例から挙げる。料理をしていて料理の最後に塩で味付けをするだろう。その時気を付けるのは、塩味が薄すぎず、濃すぎず、ちょうどよくなるように気を付けるだろう。これが一番シンプルな中庸。



味付けをしていて一番ちょうどいい塩加減になったとき、ピントが合う感じがする。その「ちょうどいい感じ」が中庸である。少しずつ塩を足していって一番ちょうどいい感じにする。それがバランスであり中庸だ。

同じことだがケーキを食べる時も、甘さが強すぎても少なすぎてもおいしくない。ちょうどいい甘さの時もっともおいしくなる。これも中庸。

「社畜」という言葉がある。会社のために人生をささげ自分の人生を犠牲にする人だ。残業が多くプライベートのための時間が極端に少ない人。それに対して「ニート」という言葉がある。まったく働かない人。「社畜」も「ニート」も両極端である。良い人生を送れない可能性がある。

一番良いのは適度に働いて、適度にプライベートを充実させる中庸。「ワークライフバランス」という。下図では「WLバランス」と略す。この場合人生が自然と充実する。



「太っ腹・浪費家」と「倹約・ケチ」の対比をずっと述べてきたが、これも中庸が大事。金を使い過ぎるのも良くないし、ケチすぎるのも良くない。収入に応じて適度に使うのが良いとよく言われる。松下幸之助に次の言葉がある。『一日一話』から引用する。

社会にはいわゆる常識というものがあります。そしてその常識に従って、ある一定の限度というものがあるはずで、たとえば、お金を貯めることも結構なら使うのも結構ですが、その限度を超えて吝嗇であったり、また金使いが荒く、借金だらけであるということでは、世間が承知しません。やはり収入の範囲において、ある程度使うということが許されるわけで、これを超すと信用問題が起こってくることになります。
何をするにも、その限度を超えないように、お互いに十分注意しあい、行き過ぎたことは遠慮なく忠言しあって、おのおの責任感をもってやっていくことが望ましいと思うのです。

金を浪費すると自分が破滅する。これは分かりやすいだろう。しかしケチすぎる場合も問題が生じる。自分にとってためになる自己投資もしないかもしれないので自分のためにならないし、さらに社会のためにもならない。

金を使うと自分の手元から金はなくなる。金は使うと無くなる。しかし厳密に言うと金を使うとその金は無くなるのではなく、別の人に移動するのである。本当に自分のためになる、価値のあるものに金を使えば、本当に価値あるものを創っている人に金が移動する。価値あることに金を使うのは、価値あるものを創る能力のある人に仕事を与え、価値創造のチャンスをあげることにもなる。金を使わないと、価値あるものを創る人の才能は眠った状態で終わる可能性がある。

もちろん価値があると言っても、世間的に価値あるものではなく、自分にとって価値あるものに使わないといけない。自分にとって価値あることに使えば、自分がその商品を手に入れることでまず自分にとっての価値が生まれ、優れた商品を創っている作者に金が移動することでさらに作者にとっての価値が生まれ、二重の意味で価値が生じる。ひいては日本経済にとっても良い経済効果になる。

優れた工芸品を買うとする。その工芸品が好きなら、その作品が自分のものになることでまず自分にとって価値が生まれる。優れた工芸品をもつことで自分にとってプラスになる。さらにその優れた工芸品を作る作家に金が入る。そしてその金をその作家が、たとえば長野に旅行に行くことに使うとする。するとその作家にとって長野旅行の体験という新たな価値が生まれる。そしてさらに長野の旅館や観光地に金が移動する。それでさらに価値が生じる。優れたものに金を使うと金は確かに自分の手元から無くなるが、社会全体として見ると金はなくならず、他の人に移動する。循環する。そして金を使うたび、価値が創造される。日本中に価値の創造が波及していくのである。

麻薬など悪いことに金を使うと麻薬の生産者、麻薬密売人という良くない人たちに金が移動する。経済学的には同じ100万円の経済効果と計算されても、優れた人に100万円移動するのと、麻薬の生産者に100万円移動するのは社会的価値はまったく違う。むしろ逆である。

要は金使いは、収入に応じて価値あることに使っていくという一見当たり前の中庸が最も優れている。



正しい中庸を執ると、自分自身にとっても、周りにとっても、社会にとっても、日本経済にとっても、自然と物事がうまく行くというのが分かると思う。

中庸を執るとなぜか物事が自然とうまく行く。twitterで「無為自然とは中庸のこと」と言った人がいた。中庸を執ると、あまりこちらで手を加えなくても、なぜかある程度自然に物事がうまく行く。私が言っていることもそれに近い。

世の中には非常に積極的な人がいる。逆に非常に消極的な人もいる。積極的に過ぎる人は余計なことまでするかもしれない。消極的に過ぎる人はやるべきこともしないかもしれない。積極的過ぎず消極的過ぎない中庸を執る人は自然と物事がうまく行く傾向にある。



『論語』に次の有名な言葉がある。

書下し文
子貢問う。師と商はいずれか勝れる。
子曰く。師は過ぎたり。商は及ばず。
曰く。然らば則ち師は勝れるか。
子曰く、過ぎたるはなお及ばざるが如し。

現代語訳
子貢が「師と商はどちらが優れていますか。」と質問した。
孔子は「師はゆきすぎる。商はゆきたりない。」と言われた。
「それでは師のほうが優れているのですか。」と子貢が言うと、
孔子は「ゆきすぎるのはゆきたりないのと同じようなものである。」と言われた。

師と言うのは子張とも言う。孔子の弟子である。商は子夏とも言う。同じく孔子の弟子である。子貢も同じく孔子の弟子。子貢が「師と商のどちらが優れていますか」と質問したのである。「師は行き過ぎで商は行き足りない。ふたりとも中庸を捉えていない。」と孔子は言っている。我々は行きすぎる方が行き足りない人より優れていると思いがち。多く物事を行える人が優秀と考える。子貢もそう思って「師のほうが優れているのですか」と質問するが、孔子は「行き過ぎるのと行き足りないのは同じようなものだ」と答えた。

中庸を超えるのを「過」という。中庸に及ばないのを「不及」という。「過不及無く」という言葉がある。これは行き過ぎず足りな過ぎず程よい中庸を得ていることを表す言葉。この『論語』の言葉が典拠になる。



■作成日:2023年8月7日

続きは中庸をさらに具体的にをご覧ください。

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