「対立するふたつのものの調和」の具体例さらに4選

陰と陽という対立するふたつのものが、ささえあい、補いあい、循環すると大きな力を生む。

ひとつめの例は出世と隠居。出世と隠居も対立する矛盾する概念である。極端な人はどちらかを徹底的に目指す。ひたすら出世に邁進する人もいる。逆の極端に走り徹底的に隠居する人もいる。

ちょうどいい中庸を超えて、極端に出世に邁進すると下手すると俗物になる可能性がある。出世に邁進し人間にとって本当に大切なことを忘れる。逆に徹底的に隠居すると下手すると完全な世捨て人になる可能性がある。

両者のバランスをとると言うのはひとつの優れた解決である。自分自身の能力に見合うだけの立身出世を志す。健全な人はこれを目指す。そうすれば最終的に間違いも起こらない。能力以上に地位につくと失敗したりして間違いが起こる可能性もある。最終的に自分に返ってくる。バランスが重要。完全な世捨て人になれば収入がなくなるが、それなりに出世すれば十分な収入も得られる。やはりバランス型中庸は優れている。

しかしもっと優れた人はハーモニー型中庸を執る。『菜根譚』から引用する。

書下し文
軒冕の中に居りては、山林的の気味なかるべからず。
林泉の下に処りては、須らく廊廟的の経綸を懐くを要すべし。

現代語訳
高い地位にある者は、どこか山中に隠遁している趣きを持つべきである。
林に隠居している者は、天下を経綸する見識を持っているべきである。

これは出世と隠居のハーモニー型中庸について述べている。高い地位について栄達していると俗物になる可能性がある。しかし高い地位にあってもどこか隠居しているような清らかさを持っていると俗物にならない。隠居している人はただの世捨て人になる可能性がある。だから天下を経綸する見識を持つ必要がある。そうすれば完全な世捨て人にはならない。出世と隠居の絶妙なバランスがこの言葉にある。「対立するふたつのものの調和」のひとつ目の例である。



出世と隠居のハーモニー型中庸はまるで諸葛孔明のことを述べているかのようである。彼は隠居している時も天下三分の計という大計を持っていた。その後、出世し蜀の宰相になって位を極めても、ほとんど財産はなく、隠居しているかのような清らかさを保った。

『菜根譚』に次の言葉がある。

書下し文
青天白日の節義は、暗室屋漏の中より培い来る。
旋乾転坤の経綸は、臨深履薄の処より繰り出す。

現代語訳
青い空白い太陽のような節義は、もとは人知れぬ努力から培われている。
天地を動かすような経綸も、もとは慎重な思考から生まれるのである。

前半冒頭の「青天白日の節義」とは青い空や白い太陽のような天下に輝く節義を指す。それは「暗室屋漏」という暗い部屋でひとり誰にも知られずに長い年月にわたって研鑽を積み重ねたところから、培われる。「天下」と「孤独」という一見相反するふたつもののハーモニー型中庸だと言える。

後半の「旋乾転坤」を説明する。「乾」は「天」である。「坤」は「地」。だから「旋乾転坤」とは天地を動かすと言う意味。「臨深履薄」を説明する。「臨深」は深いところに臨むと言う意味で、絶壁とか高いビルから下を見下ろした時、落ちないように慎重になるのを指す。「履薄」は薄い氷を履むと言う意味で、川や湖が凍っていて薄い氷ができている上を歩く場合、非常に慎重になるのを指す。要は、天地を動かすような大胆な経綸も徹底的に慎重に考えられた計画から生まれると言う意味。大胆さと慎重さと言う一見相対立ふたつものの間のハーモニー型中庸。「対立するふたつのものの調和」のふたつ目の例。



恐らくそういう人たちは、計画の段階で徹底的に慎重に考え、実行の時は大胆に行うのだと思われる。慎重に考えているので大胆に行っても大丈夫。大胆に行うからこそ、あらかじめ慎重さが必要になる。大胆さと慎重さが補い合い、調和し、循環している。

『言志録』に次の言葉がある。

書下し文
事を慮るは周詳ならんことを欲し、
事を処するは易簡ならんことを欲す。

現代語訳
物事を計画する時は詳細であることが大切であり、
物事を実行する時はシンプルであることが大切である。

計画の時は詳細に情報を集めどうすればいいかを詳しく検討する。実際に決断する時は、迷わずシンプルに行動する。「詳細」と「シンプル」という一見相反するものが調和している。これは「大胆」と「慎重」のハーモニー型中庸に似ている。

次は三つめの例。ジェフ・ベゾスに次の言葉がある。

「ジェフが不機嫌なときは3分待つ」と妻は言う。3分で機嫌が直るような楽観主義は、起業などの大事をなすには必要不可欠な資質である。これは盲目的だとか非現実的だとかいうのではなく、心から楽観できるような戦略になるまで、リスクの排除や戦略の修正に注力し続けるということだ。

要は悲観的になることでリスクを直視し、リスクを排除し、その結果、心から楽観的になれると言う意味。これは楽観と悲観のハーモニー型中庸である。楽観的に過ぎる人は無謀になる。悲観的に過ぎる人は諦める。しかし楽観と悲観のハーモニー型中庸を執る人は、楽観的だからこそ恐れずリスクを直視できる。正しい意味で悲観的になれる。そして正しい意味で悲観的だからこそ、リスクを直視しリスクを排除し最小化できる。その結果正しい意味で楽観的になれる。「対立するふたつのものの調和」の三つめの例である。



「楽観」と「悲観」という一見相反するふたつのものが、補い合い、支え合い、循環している。

イーロン・マスクの言葉に次の言葉がある。

自分のことを恐れ知らずだとは思わない。それどころかかなりの恐がりだと思う。

我々ビジネスの素人はジェフ・ベゾスやイーロン・マスクのような成功した起業家は恐れ知らずだと思う。大胆な計画を立て実行するから当然そう思われる。しかしふたりともそうではないと言っている。もちろん彼らは良い意味で楽観的であると思うが、良い意味での悲観をあわせ持っている。

松下幸之助に次の言葉がある。

私はどちらかというと、常に不安に直面しています。けっして安閑としているときはないといってもいいのです。常に不安です。しかし私は、常にその不安に戦いを挑み、それを打破していく闘いを続けているのです。これはおそらく人間である以上、みなそうではないかと思います。もしそういう不安も何もなかったら、それを打破しようという意欲も起こらないでしょう。それはそれでひとつの幸せな姿だといえばいえないこともないでしょうが、しかしそういう姿からはあまりものは生まれないと思います。
商売でも、相当神経を使ってやっている人、熱心な人ほど、ある種の不安というものを持っています。それが人間の姿です。そういうところにこそ人間の生きがいがあるのです。だから大いに心配しましょう。それとともにその心配を打破して向上を生み出していきましょう。

松下幸之助も常に不安を抱えていると言う。悲観的なのである。しかし心配することから進歩が生まれるとも言う。要は単に悲観的なのではなく、そこから進歩が生まれると楽観しているのだ。

優れた経営者は楽観と悲観のハーモニー型中庸を執るものなのかもしれない。

■2023年12月8日追記

モンテスキュー『法の精神』に次の言葉がある。私はフランス語は読めないので英訳を載せておく。

英訳
In a time of ignorance they have committed even the greatest evils without the least scruple; but in an enlightened age they have even tremble while conferring the greatest blessings.

日本語訳
無知蒙昧の時代には、たとえ最大の悪事を犯した場合ですら、人はそれについてなんの疑いももたないものであるが、光明の時代には、最大の善事をなした場合でも、人はなお心おののくものである。

殷の紂王は自分を滅ぼす原因となる悪事を積み重ねたが、何の疑いも持たなかった。最終的にそれで身を滅ぼした。しかしすぐれた人たちは、ベゾスのように、善事をなしながらも、良い意味での悲観を保っている。

■追記終り

次は四つめの例。『論語』に次の有名な言葉がある。

書下し文
子曰く、
古きを温めて新しきを知る。
以て師と為るべし。

現代語訳
孔子が言われた。
古いものに習熟して、新しいものを知れば、
他人の師となることができる。

人類に普遍の昔からある、良い意味での古さがあるから、根なし草にならない本当の意味で良い新しさをつくることができる。新しいものを知っているから、古い普遍的な伝統を現代的に再現できる。新しさと古さのハーモニー型中庸が成立している。「対立するふたつのものの調和」の4つめの例。



■2023年12月7日追記

「温故知新」として有名なこの一節はふたつの解釈がある。ひとつ目は「古いものに習熟し、同時に新しいものを知る」と言う意味。「古いものに習熟」することと、「新しいものを知る」ことが並列になる。もうひとつは「古いものに習熟し、そこからその古いもののなかに新しさを見出す」と言う意味。「古いものに習熟」することと、「新しいものを知る」ということが原因と結果の関係になる。恐らく孔子はふたつめの意味で言ったと私は思っているが、ひとつ目のほうが現代にあう解釈のような気がしてひとつ目の解釈を通常行っている。しかしふたつ目の解釈も非常に魅力的である。昔の古典は昨日つくった冷たいスープのようなものである。それを温めなおして食べるように、古典を読む者はそれを生き生きととらえなおさなくてはいけない。それが「温故」の意味である。古典はスルメのようなものだ。戻すのに時間がかかる。それができれば古典の内に新しさを見出せる。

ジョージ・エドワード・ウッドベリーというアメリカの詩人に次の詩がある。サムエル・モリソン著『アメリカの歴史』に引用されている。アメリカの歴史の根底にある普遍性を次のように述べている。この文章はアメリカの特質を的確に言い表しており、原文を含めて熟読に値する。

原文
She from old foutains doth new judgement draw,
Till, word by word, the ancient order swerves
To the true course more nigh; in every age
A little she creates, but more preserves.

日本語訳
彼女は古い泉から新しい判断力を汲み取り、
やがて一語づつ旧来の秩序は方向を変え、
より近い正しい道を歩み始める。いつの時代であれ
彼女の創造するところは、わずかなものであるが、
より多くのものを彼女は失わずに保ち続ける。

「彼女」とはアメリカのことである。「古い泉から新しい判断力を汲み取り」というのは「温故知新」のふたつ目の解釈と一致する。「旧来の秩序は方向を変え、より近い正しい道を歩み始める。」というのは新しいものをつくっていくと言う意味だろう。

いずれにしても古いものと新しいものの両方を大切にするというのは東西を問わず存在する思想である。古い伝統をとっておくことは重要である。新しいものをつくる人たちはその古いものからインスピレーションを得て新しいものをつくるからだ。

偉大な文明を築いたのはなにもアメリカだけではない。中国もインドもイスラムも当然ヨーロッパも偉大な文明を築いた。しかし偉大な文明の後継者は常にではないが多くの場合、徐々にその偉大さを失っていく。しかしアメリカは「いつの時代であれ、彼女の創造するところは、わずかなものであるが、より多くのものを彼女は失わずに保ち続ける。」とある通り、①過去を大事にしながら過去にとらわれず、②新しいものをつくり偉大さを保ち安定して着実に再生産していくのである。

GDPの成長率を見ても日本は一時的に年10%の高成長を続けても途中から停滞したりするのに対し、アメリカは基本的に3%の着実な成長を継続していく。そして過去の仕事が着実に将来に向かって蓄積されていく。

日本も「古きを温めて新しさを知り」、「古い泉から新しい判断力を汲み取る」ことで過去の古典から偉大さを得てさらに再生産していくべきである。

■追記終り

松下幸之助の言葉に次の言葉がある。

古い器に新しいものを盛るということがありますが、伝統は古いほどいいと思います。しかしその古い伝統を古いままにしておいてはならないと思うのです。古い伝統に新しい時代性を生かしていくのです。伝統を断ち切って、根無し草のような花を咲かすのではありません。それは一夜にして枯れてしまいます。そこには本当の意味の生命は無いと思います。ですから伝統はどこまでも尊び、守り抜かねばなりませんが、しかしその伝統の上に新しいものが生まれてこない、生きてこないとするなら、伝統は伝統として誇るべきものをもたないということにもなると思うのです。

能や文楽のような古典芸能は古い偉大さを古いままとっておく必要がある。先祖が創った優れた文化を消してはいけない。しかし我々一般人は古典を見てその伝統から学んで、新しい良いものを創る必要がある。私も儒教という古い古典から学ぶが現代的に表現出来たらと思っている。

松下幸之助は、古い伝統がないと新しい思想は根無し草になると言う。そして古い伝統を現代的に生かさないと新しいものは生まれないと言う。やはり古さと新しさがハーモニー型中庸をなすべきだという。

『老子』第十四章から引用する。

書下し文
古の道を執りて、今の有を御す。
よく古始を知る。
これを道紀という。

現代語訳
昔の奥深い道を手にして、現在の多様な現象を御する。
いにしえの始まりを知る。
これを道の法という。

よく分からないが「古の道を執りて、今の有を御す。」とは、馬車の手綱を執って馬を御することに喩えているのかもしれない。昔というシンプルな時代の奥深い道に習熟し、現在の多様な現象を正しく制御する。非常に難しいが目指すべきところではある。

■作成日:2023年8月22日

続きは変わっていくものの中にある変わらないものをご覧ください。

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