中庸は本当に正しいのか

ここまで中庸の大切さ、バランスの大切さを述べてきた。しかし人によっては疑問を持つ人もいるだろう。疑問にはおそらく3つのパターンがある。

ひとつめは中庸などを重んじていては、人の個性が消えるという指摘だ。人は偏っているから個性なのであって、いろんな個性があるから世の中は豊かになる。みんながバランスを重視し中庸を重んじると個性がなくなり魅力がなくなるという指摘だ。

これは儒教の欠点を見事に指摘している。確かに儒教が浸透しすぎることで個性が消えた歴史はある。儒教は正統派な思想であり、偏った異端的な個性をたくさん押し潰してきた。この指摘は一理以上のものがある。その点は後ほど取り上げる。

似たような意見として、中庸を重んじると、泣きたいときに泣かず、怒りたいときに怒らない人間になってしまうという指摘がある。それははっきり誤解である。泣きたいときに泣くのが中庸であり、怒るべきときに怒るのが中庸であるからだ。もちろん怒るべき以上に怒ると中庸を外れるというのはある。しかし怒るべき時に怒らないでいるのが中庸というわけでは決してない。むしろ怒るべき時には怒るのが中庸である。

中庸・バランスに対するもうひとつの反論を述べる。社畜とニートについて以前述べた。社畜は自分の人生を犠牲にして会社のために働く人。ニートは仕事をしない人。どっちも両極端で「ワークライフバランス」がちょうどいい中庸だと述べた。



それに対してamazonの創始者ジェフ・ベゾスの『Invent & Wander』に次の言葉がある。

「ワークライフバランス」という言葉はあまり好きではない。少し違和感を覚えるのだ。「ワークライフハーモニー」のほうがいい。職場で元気になれて、仕事が楽しく、自分がチームの一員として役に立っていると感じられたら、家でもいい人間になれるはずだ。夫としても父親としても、もっとよくなれる。家が楽しければ、社員としても上司としても、よくなれる。
ワークとライフはバランスをとるものではなく、ぐるぐると環のように巡るもの、つまり循環だ。ワークライフバランスという言葉は、ワークとライフがそもそも両立しにくいような印象を与えるので、とても危険だ。

ベゾスは「ワークとライフハーモニー」という捉え方が「ワークライフバランス」より優れているという。仕事が充実すれば家庭でもよい父親になれる。家が楽しければ仕事でよい上司になれる。仕事と家庭は一見対立する概念のようでありながら、互いに補い合い、互いに支えあい、互いに循環し、互いに調和する。ベゾスは明らかに太極図をイメージしている。



これも重要な指摘である。バランスではなく、ハーモニーを重視する。ただ儒教の概念である中庸は「バランス」と「ハーモニー」の両方を含む概念である。この点も後から詳述する。

もうひとつある中庸に対する反論は「悪中庸」に関するものである。

たとえば聖徳太子は「10人の訴えを同時に聴いて理解した」と言われる。ある人は「さすがは太子。」と言って信じる。別の人は「それは人間には無理だ。事実ではない。」と言って信じない。論者はふたつに分かれて論争するが結論が出ない。そこである人が「では中間をとって5人ということでどうでしょう。」と言う。これはもちろんダメである。悪中庸の典型。ただ単純に中間をとっただけ。

正しい中庸は何が大切で何が本質かを考え結果的に中庸に落ち着く場合である。もしくは「ここが中庸だな」と長年の経験にもとづくすぐれたカンで直観的に捉えられた場合。単に機械的に中間をとってもダメ。ただ単に機械的に中間とってそれでうまく行く場合もある。意外と当たる場合も多い。なのでよく分からないときはバランス的な中庸を執っておけば無難な場合は実際かなり多い。でもそれは本当ではない。本質を捉えたうえで結果的に正解が中庸にあるというのが正しい。機械的に中間をとってうまく行くのは、あてずっぽうに当たってるだけ。外れる場合も多い。本当はそれではだめである。

聖徳太子が10人の訴えを同時に聴けたかは私には分からない。聖徳太子にそんなに詳しくないから。しかし聖徳太子が偉いという前提や思い込みだけを根拠に盲目的に信じるのは間違えている。逆に「我々凡人にはそんな芸当ができないから聖徳太子もできないはず」と結論するのも間違えている。聖徳太子は凡人ではない可能性があるから。どちらの態度も中庸を捉えていない。両極端である。単に信じればいいのでもなく、単に疑えばいいのでもない。

正しい中庸は本質を考えることからはじまる。聖徳太子が行ったとされる他の事業、業績、外交、著作などを総合的に検討して、全体が一貫するようなかたちで、10人の話が聴けたと考えたほうが一貫するのかどうかを判断するのが恐らく正しい中庸。本質に基づく正しい態度だと思う。しかし天才を評価できるのは天才だけであるから聖徳太子とその業績を正しく評価するのは実際には至難である。

聖徳太子の事績とされる記録を聖徳太子の事績ではないとする学説もある。根拠は「ひとりの人間がこれだけの業績をなせるわけがない」という理由。でもそれは「我々凡人にはそんな芸当ができないから聖徳太子もできないはず」という程度の根拠にすぎない。たしかに「生まれた直後に話した」など余りに超人的な伝説は信じられない内容はある。その伝説が本当ならイエスやムハンマド、仏陀以上の聖人である。聖徳太子はきわめて偉大とは言え、残した事績をみるとイエスやムハンマドや仏陀ほどではない。だから全体が整合せず一貫しない。しかし聖徳太子が残したとされる事績の全部が彼の事績ではないと断言できるとは限らない。我々はひとりでは多くの業績を残せないが、聖徳太子は凡人ではない可能性がある。聖徳太子の事績とされるものを検証しそれらに共通点や一貫性があるかどうかを文献に基づき虚心坦懐に検証していくのが本質的で正しい中庸のはずである。

たとえば学生が40人教室にいるとする。5人づつに分かれて8グループになる。テーマが出され、グループごとに議論する。そして最後にそれぞれのグループがレポートを提出する。

活発に議論が行われたグループのレポートが優れたレポートになりそうである。たしかにそういう場合は多いと思う。グループのメンバー間で本質的な議論が深まれば優れたレポートになる可能性はある。議論の展開次第では最終的に本質的な中庸が創発する可能性はある。しかし議論をしても本質的な議論にならず、決着もつかず、最後にメンバー同士が仕方なく譲歩しあって一貫性のないどっちつかずの結論になる場合もあるだろう。これは典型的な悪中庸。単純に機械的にメンバーの意見の中間をとった結論。そうなるくらいなら、ひとりの優れた学生がほかの学生たちを使って、資料を集めさせ、活発な議論もなく、ひとりの意見に基づいてレポートをまとめたほうが、優れたレポートになる可能性が高い。

この悪中庸も中庸に対して出される批判のひとつであり、もっともな批判である。しかし悪中庸は本当の意味での中庸とは別である。

■作成日:2023年8月9日

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