無形の思想

佐平:では続けるぞ。
福太郎:はい。
佐平:『老子』の冒頭に次の有名な言葉がある。
現代語訳
言葉や行動ではっきりと示すことのできる道は常に当てはまる道ではない。

書下し文
道の道とする可きは常なる道に非ず。
佐平:『老子』の冒頭を飾る実に印象的な言葉だ。
福太郎:意味が分かりません。
佐平:これも道は無形だと述べているんだ。我々が発する具体的な言葉や我々が行う具体的な行動はすべて有形だ。
福太郎:そうですね。
佐平:しかし道は無形だ。無形の道を有形の言葉や行動で捉えたり表そうとしても、無形の水を有形の手で捕まえようとするのと同じで、指の間をすり抜けていく。
福太郎:う~ん。分かったような分からんような。
佐平:『言志四録』の『言志耋録』から再度引用するぞ。
現代語訳
教え諭すには三つの段階がある。第一は心による教えだ。これは心により感化する。第二は行動による教えだ。行動によって手本を示す。第三は言葉による教えだ。孔子が言われた。「私は言葉で教えるのを止めようと思う。」と。これは心による教えを最高の教えとするという意味だろう。

書下し文
教えに三等有り。心教は化なり。躬教は迹なり。言教は則ち言に資す。孔子曰く。「予言う無からんと欲す」と。蓋し心教を以て尚と為すなり。
佐平:道を人に教えるには言葉による方法と行動による方法と感化による方法の三つの方法があるというんだ。
福太郎:ええ。
佐平:言葉によって道を捉え人を導く方法がある。
福太郎:はい。
佐平:例えば一番単純な例で「勉強しなさい」という言葉がある。
福太郎:ええ。よく親が子供に言うやつですね。
佐平:確かに勉強をしたら偉大な先人が一生をかけて経験し学んだことを短期間のうちにその一部を吸収できる。
福太郎:はい。「勉強しなさい」は、ある意味では「道」なのかもしれませんね。
佐平:ああ。でもそれは老子の言う通り「常に当てはまる道」ではない。勉強するより仲間と遊んだほうがいい場合だってあるだろう。
福太郎:ありますね。「勉強しなさい」が当てはまらないケース。
佐平:他にも単純な例で「嘘をつくな」という教えもある。
福太郎:ありますね。
佐平:確かにこの言葉は正しい。嘘をつく人は信用ならない。
福太郎:ええ。「嘘をつくな」もある意味で「道」ですね。
佐平:でもこれも「常に当てはまる道」ではない。
福太郎:分かります。
佐平:おまえの家で『アンネの日記』のアンネをかくまっていたとする。
福太郎:はい。
佐平:そこにナチス党員がやってきて「アンネはいないか?」と確認に来たとする。おまえならどうする?
福太郎:もちろん「いないですよ。」と嘘をつきます。
佐平:そうだな。やはり「嘘をつくな」という教えは老子の言う「常に当てはまる道」ではない。
福太郎:そうですね。嘘をついたほうがいい場合もあります。
佐平:ああ。「自分に厳しく他人に寛容でありなさい。」という教えもある。
福太郎:はい。
佐平:それは素晴らしいことだ。
福太郎:そうですね。
佐平:しかし正義のため厳しく追及したほうがいい場合も非常に多いだろう。
福太郎:ええ。
佐平:やはりこれも「常に当てはまる道」ではない。
福太郎:そうですね。
佐平:無形の道を有形の言葉でとらえようとするからだ。水のように指の間をすり抜けていく。
福太郎:そういう意味か。
佐平:行動も有形だ。
福太郎:そうですね。
佐平:坂本龍馬の薩長同盟。これは偉大な行動だ。
福太郎:ええ。
佐平:幕末の日本全体を見渡して明らかに偉大な勢力が二つあった。
福太郎:薩摩と長州ですね。
佐平:ああ。しかし薩摩と長州は天敵だった。
福太郎:非常に仲が悪かった。
佐平:坂本龍馬は日本の国の将来のために薩摩と長州を同盟させた。
福太郎:私利私欲などなく藩などの立場にもとらわれず純粋に日本のために行動したんですね。
佐平:ああ。当時の人たちは藩や幕府などの立場に捉われて行動した。しかし竜馬はそれより高い視点、日本人として行動した。偉大な行動だ。しかしこれも有形の行動だ。
福太郎:ええ・・。
佐平:「常に当てはまる道」ではない。
福太郎:そうなりますか?
佐平:例えばオレが仲の悪い二人を見つけて仲直りさせたとする。二人は非常に偉い人だったとする。
福太郎:薩長同盟を表面的にまねるんですね。
佐平:それで坂本龍馬と並んだと言えるか?
福太郎:そりゃ無理です。
佐平:そうだろう。薩長同盟は当時の日本の状況を考えて非常に効果的だった。
福太郎:ええ。
佐平:だからと言って薩長同盟を表面的に真似ても偉大な行動になるとは限らない。効果的とは限らないんだ。
福太郎:そうですね。
佐平:マハトマ・ガンディーという人がいる。
福太郎:もちろん知ってます。
佐平:尊敬する人のひとりだ。
福太郎:そうですか。
佐平:インド旅行に行ったときお墓参りにも行ったぞ。
福太郎:ええ。
佐平:彼の非暴力不服従という行動は非常に偉大だ。
福太郎:もちろんです。
佐平:当時インドを支配していた大英帝国に大打撃を与えた。
福太郎:ええ。
佐平:でもこれも有形の行動であり、「常に当てはまる道」ではない。
福太郎:そうですか。
佐平:例えばヒトラーの支配に対して非暴力不服従を行ったらうまくいくか?
福太郎:無理ですね。処刑されると思います。
佐平:そうだな。非暴力不服従はイギリスが相手だったからうまくいったんだ。
福太郎:そうか。
佐平:イギリスは民主的な国で、ある程度は正義を考慮する国だった。だから効果的だったんだ。
福太郎:ええ。
佐平:相手がヒトラーならうまくいかなかっただろう。
福太郎:そうですね。非暴力不服従を単純に真似してもうまくいくとは限りませんね。
佐平:そういうことだ。
福太郎:分かりました。
佐平:織田信長の桶狭間の戦いも例として挙げる。
福太郎:ええ。
佐平:これも偉大な行動だ。若かりし頃の弱小勢力信長に当時天下で最も有力な大名だった今川義元が攻めてくる。
福太郎:不運ですよね。
佐平:この時の信長は不運だな。
福太郎:ええ。
佐平:信長はどうすべきかたった一人で考えた。軍議を開くが信長は何も言わない。作戦を漏らすと部下が敵に内通していた場合、作戦を今川方に漏らされる可能性がある。
福太郎:ええ。
佐平:軍議で信長が何も言わず退席したので部下たちは「織田家ももう終わりだ」と観念したらしい。
福太郎:そうですね。
佐平:しかし信長は裏で情報を集めていて桶狭間に義元がいると知る。地形的に奇襲ができる絶好のチャンスだ。そして能を舞う。
福太郎:こんな時に?
佐平:「人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり」という言葉知っているだろう。信長が舞った能の言葉だ。
福太郎:そうでした。
佐平:この言葉から察するに信長は「この戦で負けたらオレの人生は終わりだ」と一人覚悟を決めたのだと思われる。
福太郎:それでそんな時に能を舞ったのですね。
佐平:そうだ。そして一人馬に乗って出陣する。
福太郎:部下たちも「殿が出陣されたぞ!!」と言ってついていくんでしたね。
佐平:ああ。そして見事に義元を討った。
福太郎:ええ。
佐平:これも偉大な行動だ。しかしこれも有形の行動だ。
福太郎:話が見えてきました。たしかにこれも表面的に真似したらダメですね。
佐平:そうだ。いくさの度にこんな奇襲攻撃していたら絶対だめだ。そのうち破滅する。
福太郎:桶狭間の奇襲は圧倒的に不利な状況だったから正しい行動だったんですね。
佐平:そうだ。こっちが優勢なら奇襲などせず堂々の陣で圧倒すべきだ。
福太郎:ええ。
佐平:その証拠に信長は桶狭間で大勝利したがその戦い方を繰り返さなかった。彼は基本的に奇襲をせず優勢な軍隊で堂々の陣で敵に勝った。
福太郎:成功体験に溺れないんですね。
佐平:ああ。
福太郎:すごいですね。
佐平:結局言葉と同じで行動も有形だ。だから行動を見て無形の道を捉えようとしてもなかなか難しい。
福太郎:分からんではないです。
佐平:『論語』の孔子の言葉やガンジーたち偉人の行動はすべて有形だ。
福太郎:ええ。
佐平:だからと言って孔子やガンディーが優れた人ではないという気は1ミリもない。
福太郎:もちろんです。彼らは偉人です。
佐平:孔子やガンディーの思想は無形だ。そして孔子やガンディーが特定の状況に合わせて特定の問題を解決するために言葉を発したり行動をしたりする。無形の思想が有形の言葉や行動を生むんだ。無形の思想は有形の言葉や行動になってはじめて特定の時代や状況の解決策になりえると言っていい。
福太郎:ええ。
佐平:そして有形の言葉や行動は歴史に残る。しかし無形の思想は基本的に歴史に残らない。
福太郎:はい。
佐平:無形の思想を水にたとえて、有形の特定の状況を地形に譬える。
福太郎:ええ。前回出てきた絵ですね。






佐平:水は無形だ。地形に合わせて形を変えながら流れていく。
福太郎:ええ。
佐平:水は無形だが水が流れた跡は有形になるだろう。
福太郎:水色の部分ですね。たしかに流れた跡は有形になります。





佐平:それと同じように孔子やガンディーの思想は無形だ。しかし特定の有形の状況に合わせて形を変えながら流れていく。
福太郎:孔子やガンディーの有形の言葉や行動が生まれるんですね。
佐平:そうだ。無形の思想が流れた跡として残るのが有形の言葉と思想だ。
福太郎:なるほど。
佐平:無形なのはガンディーの思想であり、信長の戦略であり、坂本龍馬の構想力だ。歴史に残るのは彼らの有形の言葉と事績だ。
福太郎:分かりました。
佐平:ガンディーの残した有形の言葉や行動はもちろんガンディーの個性だ。
福太郎:ええ。
佐平:しかしそれはガンディーの生きた時代の個性でもある。
福太郎:時代に合わせて無形の思想が有形の言葉と行動を残すからですね。
佐平:そうだ。ガンディーの有形の言葉と行動は彼が生きた時代の状況を反映するんだ。
福太郎:分かります。
佐平:聖人君子は無形の思想を持つ。
福太郎:ええ。
佐平:しかし中国ではいくさでも無形を重視する。
福太郎:そうですか。
佐平:『孫子』虚実篇に次の言葉がある。
現代語訳
軍勢の形をとる極致は無形になる。無形であれば深く潜入した敵の間者もこちらの作戦を窺うことができず、敵の智者も対策を立てられない。だから戦いでは同じ勝ち方を繰り返したりせず、敵の形に応じて窮まりが無い。

書下し文
兵を形するの極は無形に至る。無形なれば則ち深間も窺う能わず、智者も謀る能わず。故にその戦い勝つに再びせずして形を無窮に応ず。
福太郎:なかなか名文ですね。
佐平:ああ。水が地形に応じて窮まりなく流れていくように、軍も「敵の形に応じて窮まりが無い」と言う。
福太郎:ええ。
佐平:水は同じ流れ方を繰り返したりしない。地形に応じて流れるからだ。同じように軍も「戦いでは同じ勝ち方を繰り返したりしない」と言う。敵の形に応じて自在に展開するからだ。
福太郎:興味深いですね。
佐平:同じく虚実篇に次の言葉がある。
現代語訳
敵を攻撃し敵の拠点を奪えるのは敵が守らないところを攻めるからである。味方が守備して固く守り通すのは敵の攻撃しないところを守るからである。攻撃に巧みな者には、敵はどこを守っていいか分からない。守備に巧みな者には、敵はどこを攻撃していいか分からない。微妙、微妙、最高の形は無形になる。神秘、神秘、最高の音は無声になる。それにより敵の運命の主宰者になれる。

書下し文
攻めて必ず取るはその守らざるを攻めればなり。守りて必ず固きはその攻めざるを守ればなり。故に善く攻める者は、敵その守る所を知らず。善く守る者は、敵その攻める所を知らず。微なるかな、微なるかな。無形に至る。神なるかな神なるかな。無声に至る。故に善く敵の司命を為す。
福太郎:これも名文だな。
佐平:ああ。面白いだろう。孫子は水にも言及している。同じく虚実篇から引用する。
現代語訳
軍の形は水の形のようである。水は高い所を避けて低いところに流れ、兵は敵の充実したところを避けて隙のある虚を攻撃する。水は地形に応じて形を変えて流れるが、兵は敵の状況に応じて形を変えて勝利する。軍には決まった勢いがなく、水には決まった形がない。敵に応じて変化しそして勝ちを得る者これを神妙と言う。

書下し文
夫れ兵の形は水に象る。水の形は高きを避けて低きに赴き、兵の形は実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝ちを制す。故に兵は常勢無く、水は常形無し。能く敵に因りて変化し、而して勝ちを取る者、之を神と言う。
佐平:水は岩などの充実した「実」を避けて、岩の間の空間である「虚」に流れていくだろう。兵も同じだというんだ。水は地形に応じて形を変えて流れていく。軍も敵の実情に合わせて形を変えて展開し最終的に勝利する。
福太郎:なるほど。『孫子』は深いですね。
佐平:ああ。さらに『孫子』虚実篇から引用するぞ。
現代語訳
敵の形に従って変化し勝利し、多くの人たちがその勝ち方を見る。しかし人々はなぜ勝ったか知ることができない。人はみな私が勝った方法である有形の戦術を知ることはできるが、その勝利の元となる無形の思想を知ることはできない。

書下し文
形に因りて勝を衆に置く。衆知る能わず。人皆我が勝つ所以の形を知りて、吾が勝を制する所以の形を知る無し。
佐平:優れた戦術家は元々色々な状況に対応できる無形の思想を持っている。
福太郎:ええ。
佐平:そして敵の状況などに応じて無形の思想が有形の形をとる。そして勝利する。
福太郎:はい。
佐平:有形の勝った方法は知ることができる。どのように軍を動かしどこをどのタイミングで攻撃しどこを守備したかとか。
福太郎:そうですね。いくさの手順を追っていけば有形の戦術は確認できます。
佐平:しかしその有形の戦術のもとになる無形の思想は知ることができないと言うんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:『荀子』天論篇に次の言葉があるぞ。
現代語訳
みなその具体的な結果を知るがその無形の思想を知ることができない。これを天の働きという。

書下し文
皆その以て成る所を知るもその無形を知る無し。夫れ是を天功と謂う。
佐平:これも同じことを言っている。ガンディー、信長、竜馬たちを例に挙げてすでに説明したな。
福太郎:偉人たちは無形の思想を持っていて無形の思想は歴史に残らないんでした。
佐平:ああ。残るのは有形の言葉や行動だ。
福太郎:そうでした。
佐平:我々は偉人の残した有形の言葉や事績を読むが、そこからさかのぼって偉人たちの無形の思想を捉えなくてはならない。
福太郎:それは難しい。
佐平:『言志四録』の『言志録』の一四一に次の言葉があるぞ。
現代語訳
歴史書は外面的な過去の事柄を伝えるだけで、内部の実情は伝わらない場合がある。歴史書を読む者は外面的な事柄を通して内部の実情を求める必要がある。

書下し文
一部の歴史は、みな形跡を伝えて情実或いは伝わらず。史を読む者は須らく形跡に就きて以て情実を討出するを要すべし。
佐平:「形跡」を「外面的な過去の事柄」と訳したが要は「有形の事績」と言う意味だ。歴史書は有形の事績を伝える。
福太郎:ええ。
佐平:「内部の実情」が無形の思想だ。「内部の実情は伝わらない」とは無形の思想は捉えるのが難しいということだ。
福太郎:歴史書を読むときは無形の思想にまでさかのぼって捉える必要があるんですね。
佐平:そうだ。『菜根譚』前集二一四に次の言葉があるぞ。
現代語訳
よく書物を読む者は喜びのあまり小躍りするようになるまで読んで、はじめて文字面に捕らわれずに真意をつかむことができる。 またよく事物を見る者は、心がそれに融合し一体となるようになるまで観察して、はじめて事物の形に捕らわれずに真相を悟ることができる。

書下し文
善く書を読む者は手の舞い足の踏む処に読み至らんことを要して、はじめて筌蹄に落ちず。善く物を観る者は、心融け神和らぐの時に観至らんことを要してはじめて迹象に泥まず。
福太郎:これも一緒ですね。読書では有形の文字面に捕らわれず、無形の真意を捉えよというわけですね。
佐平:ああ。
福太郎:事物を見るときは、有形の事物の形に捕らわれず、無形の真相を悟るべしと言う意味か。
佐平:偉大な人物が問題に当たる時は、自分の無形の思想から、その時代その場所の有形の状況に合わせた有形の解決策を導かなくてはならない。無形の思想が有形の解決策になってはじめて時代の抱える問題は解決する。無形の思想が根本で有形の解決策が末節だ。


福太郎:ええ。
佐平:しかし我々が過去の偉人の業績を読むときは、偉人の有形の事績から遡って偉人の無形の思想にたどり着く必要がある。


福太郎:なるほど。でもそんなことできますか?
佐平:非常に難しい。オレは三国志の孔明と趙雲にかんしてはその思想についてある程度捉えていると思う。しかし他の人物に関しては出来ていない。もっともそもそもそんなに歴史に詳しくない。
福太郎:そうですか。
佐平:司馬遼太郎はさすがに歴史に詳しくて歴史上の人物の無形の思想を部分的にだが分かりやすく教えてくれていると思う。とても面白い。
福太郎:なるほど。余談ですが先輩は趙雲に関して電子書籍を出してませんでしたか?
佐平:出してるね。
福太郎:電子書籍って頭に入ってこないんですよね。
佐平:そうだな。紙の本は頭に入ってくる。
福太郎:そうですね。先輩も紙の本が好きですか?
佐平:ああ。紙の本が好きだ。でももうひとつ好きな本の種類がある。
福太郎:何ですか?
佐平:文字にならない書物だ。
福太郎:文字にならない書物?
佐平:『菜根譚』後集八に次の言葉があるぞ。
現代語訳
人は文字で著した書物を読むことを知っているが、文字にならない書物を読むことを知らない。有弦の琴を弾くことを知って無弦の琴を弾くことを知らない。有形に捉われて無形を理解しない。どうして書物と琴の趣を会得し得ようか。

書下し文
人は有字の書を読むを解して、無字の書を読むを解せず。有弦の琴を弾ずるを知りて無弦の琴を弾ずるを知らず。迹を以て用いて 、神を以て用いず。何を以てか琴書の趣を得ん。
佐平:人間社会や自然には無字の書物が潜んでいる。
福太郎:「文字にならない書物を読む」ですか。難しいですね。
佐平:自然を見て感動したり人間を見て感銘を受けたり旅行して楽しんだりするのは文字にならない書物を読んでいるんだ。それは無形の思想を教えてくれる。
福太郎:そうですか。たしかに自然は文字にはなりませんが我々に深い示唆を与えます。
佐平:電子書籍は頭に入ってこない。紙の本は頭に入ってくる。しかし文字にならない書物は心にまで入ってくる。精神に直接影響を与える。
福太郎:ええ。
佐平:『竜馬がゆく』に次の記述がある。竜馬の師である勝海舟と土佐藩主山内容堂の会話だ。山内容堂が竜馬の学問について勝海舟に質問している。
容堂「して竜馬の学問の師は?」
海舟「はて。あの男の師は天でござろうな。」
容堂「天?」
海舟「なにしろ幼少の頃、寺子屋の師匠が、こんな愚物には教えられぬといって教授を断ったほどでござるから、学問のほうは推して知るべしでありましょう。」
容堂「それほど無学な男を勝先生ほどの方が人物だと推されるのは奇妙ですな。」
海舟「天が師である、と申すのは、たとえば竜馬は学者ではないが、学問は戦国の織田信長ほどはありましょう。信長は学者ではないが、天下布武の大業を遂げた。太閤秀吉は卑賎の出で学問というものはなかったが、天の理、時勢の動き、人の心を知り、ついには天下に治世をもたらした。人間数ある中には、天の教えを受ける勘を備えている者がある。」
佐平:これが史実の会話かは知らないが竜馬が文字にならない書物を読んでいたというのが司馬遼太郎の推測だ。実際そうだ。
福太郎:物事の本質を捉える人は正式な学問がなくともある意味正しい学問があるんですね。
佐平:そうだ。竜馬も「天の理」、「時勢の動き」、「人の心」を読む能力があったんだ。自然だけではなく時勢の動きを読む力もまた無字の書を読む力のひとつだ。
福太郎:ええ。
佐平:「天の教えを受ける勘を備えている」とある通りだ。この「勘」があるかが重要だ。それが本質を捉えるからだ。
福太郎:その「勘」がある人は天を師とするんですね。
佐平:ああ。我々はその「勘」がないから、書物を読んで徐々に本質の近似値に近づいていくしかない。しかし竜馬は本質を一瞬で捉える。『言志四録』の『言志録』の二に次の言葉があるぞ。
現代語訳
偉大な人は天を師とし、その次の人は人間を師とし、その次の人は書物を師とする。

書下し文
太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は経を師とす。
福太郎:なるほど。信長も秀吉も竜馬も天を師としたんですね。
佐平:ああ。無字の書を読むことを理解したんだ。
福太郎:有形に捉われず無形を把握したんですね。
佐平:そうだ。ここで重要なのは「勘」があるかなんだ。この「勘」があるかないかで天を師とできるかが決まってくる。アインシュタインに次の言葉があるぞ。
私にあるのは、ラバのような頑固さだけだ。いや、それだけではない。嗅覚もだ。
福太郎:なるほど。嗅覚というのは「勘」のことですね。
佐平:そうだ。アインシュタインにも「勘」があったため天を自然を師とできたんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:やっかいなことにこの「勘」は数値化できない。テストの点数で計れない。
福太郎:確かに。
佐平:その人の言葉と行動を見て推測できるだけだ。
福太郎:多分「勘」は教えるのも難しいですね。
佐平:そうだな。しかもあることに関して「勘」があっても別の分野に関して「勘」があるとは限らない。
福太郎:アインシュタインは物理学には「勘」があっても日常生活に関して「勘」があったわけではないでしょう。
佐平:そういうことだ。日本史でいうと明治時代の伊藤博文たちまでの維新の元老は大局を見る「勘」があった。でも昭和初期の指導者たちは「勘」が働いていない。
福太郎:「勘」がある人は無字の書が読めるのか。
佐平:無字の書は無形の思想を直接表す。無字の書について空海の『秘蔵宝鑰』冒頭に次の詩句がある。
原文
悠悠悠悠太悠悠
内外兼相千万軸
杳杳杳杳甚杳杳
道云道云百種道


書下し文
悠悠たり悠悠たり太だ悠悠たり。
内外の兼相、千万の軸あり。
杳杳たり杳杳たり甚だ杳杳たり。
道を云う道を云うに百種の道あり。
福太郎:なんか難しいですね。
佐平:「悠悠たり悠悠たり太だ悠悠たり」は悠々とした宇宙のことを言っている。「太だ」は「はなはだ」だ。
福太郎:なるほど。
佐平:「内外」の「内」は仏教のこと。「外」は仏教以外の教え。
福太郎:はい。
佐平:「兼相」はすまない。本当は別の字だが、環境依存文字で書けなかったんだ。
福太郎:本当はどんな文字なんですか。
佐平:「兼」は糸へんに「兼」だ。
「糸兼」が正しい。「かとりきぬ」という絹織物らしい。書物の表装に用いたらしい。
福太郎:そうなんですね。
佐平:「相」は本当は糸へんに「相」だ。
「糸相」だ。浅黄色のことらしい。書物の表装の織物の色だ。
福太郎:どんな色ですか?
佐平:こんな色だ。




福太郎:なるほど。
佐平:「兼相」とは書物を指す。「内外の兼相」とは仏教や仏教以外の書物を指す。
福太郎:ええ。
佐平:「千万の軸あり」とは「数多くの書物がある」と言う意味。当時の書物は軸を使った。
福太郎:はい。
佐平:「悠悠たり悠悠たり太だ悠悠たり。内外の兼相、千万の軸あり。」は「悠々たる宇宙には仏教やそれ以外の教えの幾千もの書物が潜んでいる」と言う意味だ。
福太郎:なるほど。これが「無字の書」か。
佐平:その通りだ。宇宙に潜む無字の書だ。空海にはそれが読めたんだ。
福太郎:ええ。
佐平:「杳杳たり杳杳たり甚だ杳杳たり」も宇宙のことを述べている。「杳」とは「暗く、遥かで、奥深く遠いさま」と漢和辞典にはある。
福太郎:ええ。
佐平:「道を云う道を云うに百種の道あり。」も同じような内容だ。宇宙には百種の道が潜んでいるという意味だ。
福太郎:空海はそれが認識できたんですね。
佐平:ああ。恐らくな。
福太郎:それにしても深遠な文章ですね。繰返しの表現によって我々を思想の深みに誘います。空海は我々よりはるかに深く宇宙を感じ取っていたのが分かりますね。儒教は淡々としている自然な文章、自然な思想を重んじますが、空海は淡々としてませんね。すごい迫力があります。
佐平:ああ。全くタイプの違う文章だな。
福太郎:ええ。全くタイプが違いますがそれぞれに優れています。
佐平:儒教と違うタイプの偉大な文章も時々引用しとかないとな。
福太郎:そうですか?
佐平:そうしないと儒教的な飾らない自然な淡々とした文章だけが正しい思想だと思われてしまう。
福太郎:ああ。なるほど。
佐平:会田雄次の『ルネサンス』という本から引用する。ボッティチェリに関する記述だ。
福太郎:ボッティチェリ?
佐平:ルネサンス期の画家だ。「春」という絵画が有名だ。絵をクリックすると拡大するぞ。



福太郎:これは有名な絵ですね。とても魅力的な絵です。
佐平:ああ。引用するぞ。
ボッティチェリは「ヴィーナスの誕生」とか「春」といった作品で有名である。いずれも人間の官能美や、木や花や自然の悩ましい美しさと、その美のはかなさを表現した叙情詩ともいうべき絵をものにしている。しかしいっぽうかれは宗教画にも熱中した。このボッティチェリをやがて悲劇に追い込んだのは先に挙げた修道僧サヴォナローラである。
サヴォナローラは性の欲望や現生の贅沢や享楽に耽る者にはただちに神の罰がくるであろうと断言した。もっとも悪しき者は善良な人々をそのような罪過へ誘った人々である。悪魔の誘惑でしかない古典古代の肉欲の美を宣伝した美術家や文学者は悪魔の片割れだ。このようなサヴォナローラの説教にすっかり酔わされたボッティチェリは別人のようになった。サヴォナローラが遂行した、古典をあがめ享楽をすすめるいっさいの美術作品、遊び道具などを焼く「虚栄の火刑」に積極的に参加したのはこのボッティチェリである。かれは口に何かぶつぶついいながら、おそらく神の救いを求める祈りを捧げながら、しきりに自分の作品を、火の中に投げ込んだ。ボッティチェリの絵で今日残るものが少ないのはそのためだと言われる。
しかしもっと痛ましいのは、その後の彼の作品だ。かれは宗教画にうちこむことになるのだが、そこには神秘的な色彩が強く表現されているとはいえ、彼の特徴である流れるような線も、春の微風のような情趣もすっかり影をひそめ、ただ生硬で鈍重な人影が形式的な動きを繰り返すだけである。
福太郎:サヴォナローラとは?
佐平:ルネサンス期のフィレンツェで神権政治を行った人だ。彼の説教に感化されてしまったボッティチェリは自分の絵を焼き始めた。それで彼の作品の多くが失われた。
福太郎:ああ。せっかくの絵が・・。
佐平:サヴォナローラの思想は冬のような思想だ。冬には木々は葉も落ち花も枯れてしまい本質だけが残る。
福太郎:ええ。
佐平:それに対してボッティチェリの絵は題名「春」の通り春のような魅力に満ちている。
福太郎:そうですね。
佐平:たしかに冬になれば葉も落ち花も枯れる。葉や花は一見華やかだが本当は本質ではなかったんだというサヴォナローラの主張は正しい。
福太郎:ええ。
佐平:しかしボッティチェリの春のような魅力も同じくらい大切だ。
福太郎:分かります。
佐平:同じように儒教の淡々とした自然な文章こそが本質だと言うのは理由がある。しかし空海のような深遠な文章も大いに意味があると思うんだ。
福太郎:ええ。先輩はどっち派ですか。
佐平:オレは両方好きだな。
福太郎:オレもです。
佐平:ボッティチェリがサヴォナローラに説得されてその華やかなうつくしさを捨ててしまった。その後の作品はつまらない作品ばかりになった。
福太郎:なるほど。これは悲劇ですね。
佐平:では休憩するぞ。

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