中国思想における根本と末節


佐平:では続けるぞ。
福太郎:ちょっと質問があるんですが。
佐平:何だ?
福太郎:さっきから儒教を説明するのに『老子』を引用してますよね。おかしくないですか?
佐平:何でだ?
福太郎:『老子』って道家思想ですよね。
佐平:そうだが?
福太郎:道家思想って儒教と対立する思想じゃなかったですか?
佐平:そうだな。
福太郎:『老子』の言葉を根拠にして儒教の思想を解説するのっておかしいですよ。
佐平:そうか。分からんではない。厳密な学者は儒教と老子をごちゃまぜにするなと言われそうだ。
福太郎:その通りですよ。
佐平:たしかに儒教と老子を一緒にしてはいけない。
福太郎:ですよね。
佐平:でも全く別と考えるのも間違いなんだ。
福太郎:どうしてですか?
佐平:儒教と老子は元をたどれば同じなんだ。
福太郎:と言うと?
佐平:例えていえば儒教と老子は同じ中国思想という巨木から分かれた二つの幹のようなものだ。
福太郎:はあ。
佐平:確かに別の思想だが根は同じなんだ。
福太郎:そうなんですか?
佐平:そうだ。両方とも元々上古の中国思想を受け継いでいるんだ。儒教と老子は別の幹だからだからごちゃまぜにするのは確かに正しくないかもしれない。しかし全く別と考えるのも同じくらい正しくないんだ。
福太郎:そういうものですか。
佐平:中国思想は元々積極的真理と消極的真理が相補うようにできているんだ。老子はその消極的側面のみを受け継いで純化したんだ。それに対して儒教は積極的真理と消極的真理の両方を受け継いでいる。だから儒教のほうが中国思想の正統な思想だとオレは思う。
福太郎:なるほど。
佐平:それに今回『老子』から引用した部分は、老子は老子自身についてではなく儒教について述べていると思う。
福太郎:え~っと例えば・・。
佐平:例えばこれだな。
現代語訳
道が言葉として表されると、淡々として味気がない。 これを視ようとしても見えず、 これを聴こうとしても聞こえない。 しかし道の働きはいくら用いても尽き果てない。

書下し文
道の口より出づるとき、淡として其れ味無し。 之を視れども見るに足らず、之を聴けども聞くに足らず。 之を用いれば尽くすべからず。
福太郎:前回引用した文章ですね。
佐平:前回も述べたが「淡々として味気がない」と言っているのは老子については当てはまらない。書き下し文で読むとわかるんだが、『老子』の言葉は非常に深遠で深い味わいがある。
福太郎:はい。
佐平:淡々として味気がないのは儒教のほうだ。老子のこの箇所は儒教に関して述べていると個人的には考えている。
福太郎:そうかもしれません。
佐平:例えば「無為自然」というと老子の思想だと思うだろう。「人為をなくして自然に従う」という意味だ。
福太郎:そうですね。
佐平:「無為自然」を「人の行為を全て廃して自然に従う」と解すると、消極的側面しかないので儒教思想ではない。
福太郎:ええ。
佐平:「さかしらな人為をなくして自然の道理に従う」と解釈するのであれば儒教にも当てはまる。
福太郎:そうですか?
佐平:そうだ。儒教も「自然な力」を重視する。ノートを見返すぞ。『論語』だ。
現代語訳
君子は根本を大切にする。根本が充実すれば物事は自然にうまくいく。

書下し文
君子は本を務む。本立ちて道生ず。
福太郎:これも何度も出てきましたね。
佐平:儒教は「根本を充実させれば末節は自然に充実してくる」と考える。儒教も自然な力を重視するんだ。『近思録』も見返すぞ。
現代語訳
自然な道理がはっきり分かりさえすれば、それに従うのが自然に楽しくなる。 自然な道理に従って物事を行うのは、そもそも自然な道理に従うのだから、本来難しくない。 自然な道理を知らずに、いきなり勝手なことを始めるので難しいと考えてしまう。

書下し文
ただ理を照らすこと明らかならば、自然に理に順うを楽しむ。理に順いて行うはこれ理に順う事なれば、本より難からず。ただ人知らず、旋として安排著するが為に、則ち難しと言うなり。
福太郎:「勝手なことをするとうまくいかない」と書いてありますね。
佐平:そうだ。「さかしらな人為をなくす」という消極的真理を儒教は含んでいる。
福太郎:「無為自然」というのも解釈によっては儒教にも当てはまるんですね。
佐平:そうだ。元々は同じ思想だったからだ。ただ儒教は積極的真理も重視する。その点は確かに『老子』と違う。自己修養や社会変革のための積極的努力を儒教はとても大切にする。
福太郎:違いと共通点の両方を認識する必要があるんですね。
佐平:そうだ。
福太郎:他の思想はどうですか?『韓非子』とか。
佐平:『韓非子』は法家思想だ。儒家思想、道家思想、法家思想が中国思想の重要な思想で、たしかに三者はそれぞれ違う。でもやはり根は同じだから似たようなことを言う時もある。
福太郎:例えば?
佐平:『韓非子』功名篇から引用するぞ。
賢明な君主が功業をうち立てて名声をあげる手段として重要なのが以下の四つである。 第一は天の時、第二は人の心、第三は技能、第四は地位である。 天の時にそむけば、たとえ十人の聖人があらわれても、冬には一本の稲穂さえ生やすことができない。 人の心に逆らえば、たとえ関羽、張飛のような勇者が部下としていても、真面目に働いてくれない。 だから天の時が得られるなら、努力をしなくても稲穂は自然と生え、 人の心が得られるなら、奨励しなくても部下たちは進んで働いてくれる。 技能に頼れば、せきたてなくても物事は自然に速やかに行われ、 地位が得られるなら、自然と名声が上がる。 あたかも水が流れるようであり、船が水の流れに乗って進んでいくようである。 物事が自然とうまくいく自然の道を守って、ゆきずまることのない統治を行う。 だから賢明な君主と言われるのだ。
福太郎:天の時はここでは四季の循環ですね。
佐平:そうだ。
福太郎:確かに農業では四季の循環が根本の要因になります。
佐平:四季の循環にそむいて農業をしてもうまくいかない。
福太郎:ええ。
佐平:たとえ十人の聖人があらわれても、農家の人がどれだけ頑張っても冬には稲穂一本さえ生やせない。
福太郎:そうですね。
佐平:四季の循環に従えば努力しなくても稲穂はある程度生えそろう。
福太郎:もちろん草取り水やりも大切ですし、それしないと十分には実らないですけどね。
佐平:そうだ。人の努力も必要だ。でも四季の循環を味方にすれば「自然な力」が働くんだ。
福太郎:船が水の流れを味方にして進んでいくのと同じですね。
佐平:ああ。
福太郎:人の心も同じですね。関羽、張飛のような豪傑が部下としていても彼らの心をつかんでないとちゃんと働いてくれない。
佐平:そうだ。逆に心をつかんでいれば、せきたてなくても進んで君主のために働いてくれる。
福太郎:これも「自然な力」ですね。
佐平:ああ。
福太郎:技能って何を指しますか?
佐平:技術だな。例えば一本の刀をつくるには鍛冶の技術が必要だろう。その技術は確立されている。
福太郎:ええ。
佐平:その確立された技術に従えば自然と物事はうまくいくという意味だろう。
福太郎:そうか。確立された技術に従わないとどんな偉大な人でも仕事ができない。
佐平:そうだな。
福太郎:なるほど。あと地位にも言及してますね。地位と言うのは王とかの位ですよね。
佐平:そこだ。それが儒教と韓非子の違いだ。
福太郎:というと?
佐平:儒教では地位は末節だ。仁徳が根本だ。根本たる仁徳があるから末節たる地位がついてくる。儒教では権力は末節なんだ。
福太郎:ええ。
佐平:でも韓非子は地位や権力を根本と考える。
福太郎:なるほど。でもやはり仁徳のほうが地位よりも根本ですよ。仁徳ある人が高い地位につくと物事はうまくいくけど、ろくでもない人が高い地位につくと酷いことになります。まず仁徳あっての高い地位です。
佐平:そうだな。
福太郎:でも苦しんでいる民衆を救うという意味ではたしかに地位が根本になることもあるなあ・・。仁徳ある人も低い地位だったら身の回りの人しか助けられない。高い地位につけばたくさんの人を助けられる。地位は根本なのか末節なのか・・。
佐平:根本と末節は相対概念なのを忘れたか?
福太郎:ええとそうでしたっけ。
佐平:要は「仁徳」→「高い地位」→「民衆を救う」となる。「高い地位」は「仁徳」に対しては末節だ。でも「民衆を救う」に対しては根本だ。
福太郎:なるほど。そう考えればいいのか。
佐平:ああ。
福太郎:あと「自然の力」を水の流れにたとえているのが面白いですね。船が水の流れに乗って進んでいくのと、君子が「自然の力」に乗って進んでいくのは似ていて、確かに分かりやすい比喩です。
佐平:そうだな。郷太先輩の就職活動は船が水の流れに乗って進んでいくのに似てるな。
福太郎:ええ。
佐平:そして駒男先輩の就職活動は船が水の流れに逆らって必死でオールを漕いでいくのに似ている。
福太郎:たしかに。
佐平:これで根本と末節の基本に関する解説は終わりだ。これからは例外とか発展的内容など話していく。
福太郎:はい。
佐平:少し早いがここで休憩だ。

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