根本と末節の具体例3

佐平:次の例だ。オレはバイトをしている。
福太郎:はい。
佐平:バイトをすると給料が入る。
福太郎:そりゃそうです。
佐平:なぜ給料が入る?
福太郎:そりゃ働いているからです。
佐平:価値を生み出しているからだな。
福太郎:はい。世の中の役に立っているからです。
佐平:「価値を生み出す」が根本で「給料が入る」が末節だ。「価値を生み出す」→「給料が入る」だ。
福太郎:ええ。



佐平:価値を生み出さないのに給料が入ったらどうなる?
福太郎:ぼ~っとしてても給料が入るならそれはいいですね。
佐平:馬鹿者。それはだめだ。そんな会社があったらいずれその会社は潰れるだろう。前回ノートに書いただろう。
根本が充実すると物事は①自然な力が働き自然に物事がうまくいく。そして②持続的にうまくいくようになる。③根本がないと一時的に潤ったとしても長続きしない。
佐平:「価値を生み出す」という根本があるから持続的に給料が入るのだ。根本が無ければ給料が入ったとしても一時的なもので終わる。
福太郎:そうですね。「価値を生み出す」という根本がないと会社が存続しないので「給料が入る」という末節も長続きしません。会社が潰れます。
佐平:次の例だ。岡本太郎って知ってるか?
福太郎:画家です。
佐平:川崎に岡本太郎美術館がある。数年前に訪れた。
福太郎:どうでした?
佐平:現代日本にもこんな精神が存在しえるのかととても感動した。すごい迫力だ。同じ現代日本人の作品だから分かりやすいというのもあるな。
福太郎:青山にも岡本太郎記念館ってありますが。
佐平:川崎のほうが質量ともに圧倒的だ。
福太郎:そうなんですね。
佐平:絵を見るために何が必要か分かるか?
福太郎:絵を見る眼です。
佐平:そうだ。「絵を見る眼」が根本だ。そして「絵を見て感動する」が末節だ。「絵を見る眼」→「絵を見て感動する」という根本と末節の連鎖がある。



福太郎:そうですね。
佐平:オレが岡本太郎美術館を訪れた時、たまたま美術館員の人がテレビか何かのインタビューを受けていた。その美術館員の人は「長年岡本太郎美術館で働いていますが、正直岡本太郎さんの絵が好きかどうかよく分かりません。でもずっと見ていると好きな絵もだんだん増えてきました。」と言っていた。オレはこう思った。「岡本太郎の絵を何回見たかが問題ではない。一目見た時に感動できるかが問題なのだ。」と。
福太郎:まあそうですね。
佐平:もちろんオレも理解できない芸術家の絵もたくさんある。
福太郎:オレもそうですね。
佐平:オレが言いたいのは「絵を見る眼」があってそして「絵を見て感動する」というのが自然な流れという点だ。何度も絵を見て理解を深めるというのは、自然な方法ではなくてやや強引な方法なのだ。
福太郎:でも色んなものを見てるうちに目が肥えてくるというのは絶対ありますよね。
佐平:もちろんだ。それを否定しているのではない。それは絶対にある。当然優れた作品にはたくさん触れて見る眼を育てるべきだ。ただ「絵を見る眼」→「絵を見て感動する」というのが本来の自然の流れだと言いたいだけだ。
福太郎:分からんではないです。
佐平:次の例だ。『ブラックジャック』という手塚治虫の漫画がある。
福太郎:知ってます。

佐平:金にがめついおばあちゃんの話が出てくる。
福太郎:何ですかそれ?
佐平:金にがめつく、すぐ金をせびり取ろうとする。
福太郎:はあ。
佐平:息子とその嫁がいつも困っていた。
福太郎:ええ。
佐平:そしてそのおばあちゃんは毎月どこかへ行ってしまう。息子が不思議に思って後をつけてみた。
福太郎:どこに行ってたんですか?
佐平:医者のところだ。医者はすでに亡くなっている。医者の奥さんが生きていてそしておばあちゃんは奥さんにお金を渡している。話を聞いてみると、おばあちゃんが若い頃で息子が小さかった時に息子が治療の難しい難病にかかった。治してくれる医者はほとんどおらず、ある凄腕の医者が1200万円払えば治療できると言った。そのおばあちゃんは身の回りの物を売って金を用立てたがそれでも足りず、何年かけてでも返しますと言って治療してもらった。息子は奇跡的に助かった。そして金をせびり取ってはためて、何十年もかけて金を返済し続けた。そしてようやく完済したのだった。その話を聞いて息子は「そうだったのか!!」と感動する話だ。
福太郎:いい話ですね。
佐平:「金をせびり取る」というのはおばあちゃんの表面的な主張だ。しかし「治療費を返済する」というのは根本的な動機だ。これもある意味根本と末節の話なんだ。



福太郎:表面的末節的主張の裏に根本的な動機が隠れているんですね。
佐平:そうだ。オレはバイトしているが客相手の仕事だ。時々なんでこんなに細かいことにこだわって主張してくるのかなと頭を抱えてしまうお客さんがいる。でも表面的な主張だけを聴くのではなく、「なぜその必要があるのですか?」と聞いてみると背後にちゃんとした根本的な動機が隠れている場合がある。その根本的な動機を別の方法で解決してあげると納得してもらえる場合があるんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:『ハーバード流交渉術』という本がある。"Getting to Yes"という原題だ。それに次のような記述がある。
図書館でふたりの男が言い争っているとしよう。一人は窓を開けたいし、もう一人は閉めたい。彼らはどれだけ窓を開けておくか、さっきから言い争っているが、なかなか埒があかない。そこへ図書館員が入ってきた。彼女は一方の男性になぜ窓を開けたいか尋ねた。「新鮮な空気が欲しいからですよ」と彼は答えた。次にもう一方に、なぜ閉めたいか尋ねると、「風に当たりたくないんですよ。」という答えだった。少し考えてから、彼女は離れた窓を開けた。こうして風にあたることなく新鮮な空気が得られ、二人の男は納得した。

佐平:二人の男が窓を開けるかどうかで争っている。



福太郎:「窓を開けるかどうか」は表面的な主張なんですね。そこで図書館員が二人にその理由を尋ねる。そして「新鮮な空気」と「風にあたりたくない」が根本的な動機だと判明する。



佐平:そうだ。表面的な主張を見るより根本的な動機に焦点を当てたほうがうまくいく場合があるんだ。結局離れた窓を開けることで二人の男は納得した。
福太郎:これも根本と末節の問題と捉えられなくもないな。
佐平:そうだ。
福太郎:だいぶ例を挙げましたね。多少分かりやすくなりましたよ。例は日頃集めてるんですか。
佐平:そうだな。時々自分の経験や本で読んだ内容で「あ、これ根本と末節だな。」と思ったのはメモしたりする。
福太郎:暇人ですね。
佐平:ああそうだ。
福太郎:まあでも分かりやすくなりますよ。
佐平:佐藤一斎を知ってるか?
福太郎:知りません。
佐平:江戸時代後期の儒者だ。
福太郎:はい。
佐平:彼の著作で『言志四録』という四つの書物がまとまった本がある。『言志録』、『言志後録』、『言志晩録』、『言志耋録』の四つの書物だ。西郷隆盛も座右の書としたという。
福太郎:そうなんですね。
佐平:その中の『言志録』の140に次の言葉があるぞ。
現代語訳
経書を読むときは自分が日常に経験した物事や出来事を思い出して、読んでいる経書の注釈にすべきだ。また自分で実際に物事を処理するときは、逆に経書の言葉を思い出して事実に生かすべきだ。そのようにすれば理論と実践が一致して、学問は日常の経験から離れたものではないと理解できるようになる。

書下し文
経を読むに当たりては、須らく我が遭う所の人情事変を採りて注脚と為すべし。事を処する時に臨みては、則ち須らく逆しまに聖賢の言語を採りて注脚と為すべし。事理融会して学問は日用を離れざる意思を見得するに近からん。
福太郎:どういう意味ですか?
佐平:「経書」は分かるか?
福太郎:四書とか五経。儒教の経典ですね。
佐平:そうだ。
福太郎:続きは?
佐平:「経書を読むときは自分が日常に経験した物事や出来事を思い出して、読んでいる経書の注釈にすべきだ。」を解説するぞ。経書の一例で例えば『大学』。ノートを見返すぞ。
現代語訳
物事には根本と末節があり、事柄には最初に生じることと最後に生じることがある。何が先であり何が後であるかを知れば、道を知ったのに近い。

書下し文
物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。
現代語訳
根本がでたらめでありながら末節が治まった場合はない。努力すべき根本を手薄にして、手薄でもよい末節が充実した例はかつてない。これを根本を知ると言い、これを知のきわみと言う。

書下し文
その本乱れて末治まる者はあらず。その厚かるべき者薄くして、その薄かるべき者厚きは、未だこれ有らざるなり。此れを本を知ると謂い、此れを知の至まりと謂うなり。
佐平:これらは経書の言葉だ。これらを読むときにスズメバチの巣の話や岡本太郎の絵の話など自分が経験した出来事などを思い出すんだ。そしたらその出来事は『大学』の言葉の注釈の代わりになるだろう。
福太郎:確かに。
佐平:「自分で実際に物事を処理するときは、逆に経書の言葉を思い出して事実に生かすべきだ。」を解説するそ。スズメバチが家の近くをたくさん飛んでたら、もしくは岡本太郎美術館で絵を見たら、『大学』の言葉を思い出すのだ。そしたら『大学』の言葉が日常生活で生きてくるだろう。そういう意味だ。
福太郎:分かりました。
佐平:そうすると経書という理論と自分の日常の経験という実践が一致する。すると儒教の理論は日常から離れたものではないと分かるんだ。
福太郎:分かりました。例えば途上国開発の本を読むときでも何が根本で何が末節かを考えながら読むんですね。
佐平:そうだ。
福太郎:そうすれば「教育の充実」→「産業が興る」→「中産階級が育つ」という根本と末節の連鎖に気づく。
佐平:その通り。さらに『言志四録』の『言志後録』の五から引用するぞ。
現代語訳
そもそも教えというのは外から入ってくるものであり、知恵というのは自分の内から出てくるものである。自分の内にて考えた内容は自分の外の教えと照らし合わすべきであり、外から入ってくる教えは自分の内でよく考え吟味すべきである。

書下し文
凡そ教えは外よりして入り、工夫は内よりして出ず。内よりして出づるは、必ず之を外に験し、外よりして入るはまさに之を内に尋ぬべし。
福太郎:なるほど。これも同じような内容ですね。外から取り入れた教えは自分の内側でよく吟味し、内から湧いてきたアイデアは書物や他人など外のものと照らし合わせて正しいか確かめる。
佐平:そうだな。『論語』為政篇に有名な言葉がある。
現代語訳
孔子が言われた。学んでも考えなければ物事ははっきりしない。考えても学ばなければ危険である。

書下し文
子曰く。学びて思わざれば則ち暗し。思いて学ばざれば則ち危うし。
福太郎:これも同じことを言ってますね。書物を読んで学んでも自分の頭で考えないとはっきりと理解できない。自分の頭で考えても書物から学んで他人の意見を聞かないと独断に陥って危険だ。
佐平:そうだ。これは有名な言葉だな。
福太郎:はい。
佐平:以前のまとめで「根本が充実すると物事は①自然な力が働き自然に物事がうまくいく。そして②持続的にうまくいくようになる。③根本がないと一時的に潤ったとしても長続きしない。」と言ったな?
福太郎:はい。
佐平:『菜根譚』からこの考え方を確認するぞ。
現代語訳
富、地位、名誉のうち道徳によって得られたものは、野山に咲く花のようである。おのずから花が開き、自然に周りに広がっていく。才能や功績によって得られたものは、盆栽の花のようである。評価される場合もあるが、移し替えられたり、捨てられたりする場合もある。権力によって強引に得たものは、花瓶に差した生け花のようである。根がないのであるから萎むのは時間の問題である。

書下し文
富貴名誉の道徳より来るものは、山林中の花の如し。自ずから舒徐繁衍す。 功業より来るものは、盆檻中の花の如し。則ち遷徒廃興あり。 もし権力を以て得るものは、瓶鉢中の花の如し。その根植えざれば、その萎むこと立ちて待つべし。
佐平:この文章で根本と末節を考える。末節はどれにあたるか分かるか?
福太郎:富、地位、名誉ですね。
佐平:そうだ。よく分かったな。そして根本が道徳だ。道徳がある人はみなから「この人なら」と推薦され自然に地位や名誉が得られ富も増えていく。「道徳」→「富、地位、名誉」の順番だ。



佐平:そしてそれは野山に咲く花のようで、自然と広がっていくという。前回のまとめで「根本が充実すると物事は①自然な力が働き自然に物事がうまくいく。そして②持続的にうまくいくようになる。」と言ったのと一致するよな。
福太郎:そうですね。才能は「富、地位、名誉」を得るための根本にならないのですか?
佐平:なる。しかし引用したように才能で得られた「富、地位、名誉」は盆栽の花だ。皆から評価されるときもあるが時代が変わると忘れられたりする。
福太郎:具体例が欲しいですね。
佐平:韓信を知ってるか?
福太郎:劉邦に仕えた人ですっけ?
佐平:そうだ。中国の漢の創始者が劉邦だ。韓信は劉邦に仕えた。非常に戦が得意だった人で、劉邦が中国を統一できたのも韓信の力が大きい。劉邦は項羽という英雄と天下を争っていた。韓信のおかげで項羽に勝ったのだ。
福太郎:韓信は戦の才能で「富、地位、名誉」を得た人ですか?
佐平:そうだ。当然高い地位についた。
福太郎:そうでしょうね。
佐平:確かに劉邦が項羽と争っていたときは韓信は劉邦に重要視された。韓信は戦に強いからだ。必要な人材だ。しかし天下が統一され戦う相手がいなくなると韓信は重要でなくなる。
福太郎:戦に強いだけに逆に警戒される可能性もありますよね。皇帝の座をとってかわられるのではないかと。
佐平:そうだ。韓信はあまりに戦に強いから劉邦から警戒され最後は処刑されている。「すばしっこい兎が死ねば、優秀な猟犬は煮て食われる。」「狡兎死して良狗烹らる」という有名な言葉を残して韓信は死んでしまった。
福太郎:なるほど。『菜根譚』の 「才能によって得られた、富、地位、名誉は評価される場合もあるが、捨てられたりする」というのはこれですね。
佐平:そうだ。才能は富を得るための根本ではあるが、時代によって求められる人材は違うため時代が変わると忘れられたりする。
福太郎:現代でもそうですね。プログラム言語のCOBOLが得意な人は昔は評価されましたが、現代では忘れ去られたりしてます。
佐平:何のことだ?さっぱり分からん。
福太郎:先に進みましょう。
佐平:最後に「富、地位、名誉」を権力で強引に得た場合だ。これは根本が無い。花瓶に差した生け花と同じだ。根が無いから枯れるのは時間の問題だ。前回のまとめで「根本がないと一時的に潤ったとしても長続きしない。」と言ったのはこれを指す。
福太郎:前回のノートを見直したいです。
水源のある川はこんこんと水が湧き出てきて昼も夜も流れて海にたどり着く。根本があるものはこのように尽きることがない。もし根本が無かったら、例えば梅雨の時期に雨が降り続くと田んぼの水路はたちまち水でいっぱいになるが、雨が降りやめばすぐに涸れてしまう。
福太郎:これですね。道徳で得られた「富、地位、名誉」は水源のある川と同じでどんどん湧いてくる。そして権力で強引に得られた「富、地位、名誉」は梅雨の雨と同じで一時的に潤ってもしばらくすると涸れてしまう。
佐平:その通りだ。それでは次に『孟子』から引用するぞ。「告子章句上」からだ。
福太郎:はい。
佐平:世の中には天爵と人爵というものがある。
福太郎:天爵と人爵。なんだそりゃ?
佐平:天が与えた地位が天爵で、人が与えた地位が人爵だ。
福太郎:なんのこっちゃ。
佐平:人爵から説明しよう。総理大臣とか文部大臣とか会社の社長は人爵だ。総理大臣はどうやって選ばれる?
福太郎:国会の議決と天皇の任命だっけ。
佐平:そうだ。文部大臣は?
福太郎:確か総理大臣が任命するんでした。
佐平:いずれにしても人が任命する。だから総理大臣や文部大臣の位は人の与えた爵位という意味で人爵だ。
福太郎:はあ。
佐平:それに対して天爵というものがある。道徳的に正しく善いことを心から行い続ける人がいたとする。どう思う?
福太郎:そりゃ偉いなあと思います。尊敬します。オレらふたりとは違いますね。
佐平:そうだな。そのような人の偉さは他人に与えられたものか?
福太郎:違いますね。その人がもともと持っている長所です。
佐平:そうだな。儒教ではそれは天から与えられた徳と考える。
福太郎:そうですか。
佐平:だから天が与えた爵位という意味で天爵という。
福太郎:そう考えることもできますね。
佐平:天爵と人爵では天爵のほうが根本だ。道徳的に正しいという天爵があってはじめて「この人なら」ということで、大臣などの人爵がついてくる。人爵が末節だ。「天爵」→「人爵」の順。
福太郎:それが本来のあるべき姿です。



佐平:『孟子』の該当箇所をノートに書いておくぞ。
孟子が言われた。世の中には天爵と人爵がある。仁義や忠信など善いことを楽しんで行い続ける道徳心は天が与えた天爵である。総理大臣や文部大臣という地位は人が与えた人爵である。昔の君子は道徳心という天爵をさらに磨いて、その結果大臣という人爵をも手に入れた。今の人たちは人爵を得るための手段としてだけのために天爵を磨こうとしている。さらに大臣という人爵を得たら道徳心という天爵を捨ててしまう者もいる始末だ。これではせっかく手に入れた人爵もそのうち失ってしまうだろう。
福太郎:前半は解説有りましたが後半は解説してないですね。
佐平:そうだな。昔の君子は自分の道徳心という天爵をさらに磨いてその結果、人爵がついてきた。根本が天爵。末節が人爵だ。「天爵」→「人爵」の順。しかし最近の人は天爵を磨いているふりをしているが、それは人爵にありつくためである。「人爵」→「天爵」であって根本と末節が逆になっている。これが「本末転倒」の本当の意味だ。
福太郎:なるほど。確かに逆になっている。
佐平:そういう人はいったん人爵を得ると、もう用済みとばかりに道義心という天爵を捨ててしまう。
福太郎:最悪だ。
佐平:そんな人は高い地位という人爵を得ても長続きはしない。前回のまとめで「③根本がないと一時的に潤ったとしても長続きしない。」と言っただろう。
福太郎:梅雨時の雨と同じですね。
佐平:そうだ。それでは休憩にする。

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