儒教は古いか?

佐平:それでは始めるぞ。
福太郎:はい。
佐平:今回も脱線だ。儒教が古いかどうかについて考察していくぞ。
福太郎:分かりました。
佐平:お前は儒教は古いと思うか?
福太郎:最初読んでいた時は「古いな~」と思いました。しかし今回の講義を聞いているうちに「別に古くないな」と思い始めてます。
佐平:オレも最初に儒教を読んだときは「これ古くさいな。」と思ったものだ。しかし理解が進むにつれ「これって逆に新しいぞ。」と思うようになった。
福太郎:そうですか。
佐平:儒教を知る人は「儒教は新しい」と思う。儒教を知らない人は「儒教は古い」と思うんだ。
福太郎:どっちが正しいんですか?
佐平:個人的には「儒教は新しい」というほうに同意する。でも「儒教は古い」というのもある意味正しいと思っている。
福太郎:説明がいりますね。
佐平:「儒教は新しい」と言う人は儒教の「道」の普遍性を知る。だから「新しい」と言う。
福太郎:ええ。
佐平:普遍性を備えた儒教の思想は、確かに現代日本の我々の思想より優れている面が非常に多い。
福太郎:そういう気がします。少なくとも新しい面はありますね。
佐平:しかし古い側面も否定できない。
福太郎:そうですか。
佐平:儒教を理解する人は儒教は古くないと言う。儒教を読む人は多くの場合、新しいものを知らず、現代に生きていない。孔子の時代に生きている。現代日本はただ寝泊まりするだけの場所。ビジネスホテルだ。
福太郎:分かる気がします。
佐平:儒教を学ぶ人自身も古い人なので、儒教の古さに気づかない。
福太郎:そうですか。
佐平:他の思想もそうだ。例えばヘーゲルを研究している人も多くの場合、自分を日本人と思っていない。
福太郎:はあ。
佐平:自分をドイツ人と思っている。日本は寝泊まりするだけの場所だ。こころは19世紀のドイツにある。
福太郎:そんなもんですか。
佐平:こころは19世紀ドイツにあり、ちょっと現代日本にも物申すというスタンスだ。それが悪いわけではないが、本気で現代日本をよくしようとは思っていない。
福太郎:でもそういう正統なヘーゲル思想を究めた人から我々はヘーゲル思想を学べますよね。
佐平:そうなんだ。それによって彼らは間接的に現代日本を良くするんだ。
福太郎:ええ。それも非常に重要です。
佐平:そうだ。これから儒教が新しいかどうかについて詳しく解説する。
福太郎:はい。
佐平:モーゲンソーという20世紀の政治学者に『国際政治』という著作がある。英語の題は"Politics among Nations"と言う。
福太郎:ええ。
佐平:政治学の本だ。次の言葉があるぞ。
政治の法則は、人間性の中にその根源を持つ。そしてこの人間性は、中国、インド、ギリシャの古典哲学がこれらの政治の法則を発見しようと努めて以来ずっと変化していない。したがって政治理論においては、目新しさが必ずしも長所ではないし、古い年代のものが欠陥を持っているわけでもない。
福太郎:なるほど。
佐平:儒教は道徳の理論であり、政治の理論だ。
福太郎:そうですね。
佐平:道徳や政治の理論は最終的には「人間性」に根源を持つ。
福太郎:そうでしょうね。「人間とは何か」が本質だし重要だと思います。
佐平:そうだ。そしてこの「人間性」は孔子の時代から変化していない。
福太郎:もちろん文化の影響を受けますから多少の変化はあると思いますが、基本的には変化していないはずですね。
佐平:だから何千年前の理論であってもその理論が普遍性を持つならば現代にも基本的に当てはまる。
福太郎:はい。
佐平:新しいから優れているとは限らないし、古いからと言って間違っているわけではない。『国際政治』から続けて引用する。
その理論が栄えたのが何世紀も前であるという理由でこれを捨て去るのは、実は合理的な主張をしているのではなくて、過去に対する現在の優越を当然至極と考える近代主義的偏見を示しているに他ならない。
福太郎:なるほど。儒教も昔の理論だからと言ってそれが古い原因にはならないと言うんですね。
佐平:そうだ。「昔の思想だから古いだろう」と言うのは単なる「近代主義的偏見」だ。
福太郎:ええ。
佐平:このモーゲンソーの言葉は重要な問いかけを含んでいる。
福太郎:何ですか?
佐平:思想はそもそも進歩するのかと言う問題だ。
福太郎:モーゲンソーの言葉は思想は進歩をしないと言っているようですが。
佐平:ああ。でも思想は進歩する側面もある。
福太郎:そうですか。
佐平:思想には精神的側面と合理的・技術的側面、表現的側面がある。
福太郎:どういう意味ですか?
佐平:合理的・技術的側面とは論理の精密さであり鋭さだ。
福太郎:そうですか。
佐平:例えば20世紀の英米系分析哲学はこの論理の精密さのみを追い求めた哲学だ。精神的側面はほぼ無い。
福太郎:なるほど。
佐平:これも進歩と言えなくもない。退歩とも言えるが。
福太郎:ええ。
佐平:表現的側面は表現の洗練だ。現代のフランス哲学は非常に洗練されている。
福太郎:そうですか。
佐平:これも進歩と言えるだろう。
福太郎:ええ。
佐平:だから思想は進歩すると言えなくはないんだ。後世の思想家のほうが古代の思想家より技術的表現的に優れているというのはありうる。
福太郎:なるほど。
佐平:それは軽視すべきではない。それは大切だ。しかし本質的ではない。恐らく本質的なのは精神的側面だ。
福太郎:そうかもしれませんね。
佐平:剣術に関して『竜馬がゆく』に次の記載がある。竜馬の剣術の師匠である千葉貞吉の考えを著者司馬遼太郎が代弁している。
剣は詰まるところ技術ではない。
所詮は境地である。
技術という点では貞吉は古今の名人にすこしも劣らない、と自分で思っている。劣るのは境地である。
佐平:剣術も時代によって技術は進歩したりするのかもしれない。後世の剣術家のほうが昔の名人より技術的には優れている場合もあるかもしれない。しかしより本質的なのは境地であり、精神的側面だと言うんだ。
福太郎:分かる気がします。物理学でもニュートンの発見は現在の物理学からすれば非常にプリミティブでしょうが、それでも現在でもニュートンが物理学者から深く尊敬されているのは、その独創性が理由であり境地が原因でしょう。
佐平:そうだな。思想もその精神的側面は進歩しないが、技術的側面は進歩すると言っていい。
福太郎:ええ。
佐平:思想が古くなる原因がもう一つある。
福太郎:何ですか?
佐平:社会情勢の変化だ。
福太郎:そうですか。
佐平:「道」は古くならない。
福太郎:ええ。
佐平:道は無形だ。
福太郎:そうでした。
佐平:道が現実に応用される、無形の道が特定の時代の社会状況に適用されると有形の形をとる。
福太郎:そうですね。
佐平:具体的には礼や法となる。礼儀と法律だ。
福太郎:ええ。
佐平:儒教では時代に応じて新しい礼楽を興さなくてはならないという思想がある。
福太郎:はい。
佐平:『礼記』楽記篇に次の言葉がある。
現代語訳
礼楽の本質を知る者は新しい礼楽を興すことができる。先賢の興した礼楽を理解する者はそれを受け継ぐことができる。 礼楽を興す人物を聖と言い、礼楽を受け継ぐ人を明と言う。

書下し文
礼楽の情を知る者は能く作る。礼楽の文を識る者は能く述ぶ。作る者をこれ聖と言い述ぶる者をこれ明と言う。
佐平:礼儀や法律が古くならないのであれば新しい礼楽を興こす必要はない。
福太郎:ええ。
佐平:しかし社会の状況は変化する。その上に立つ社会制度や礼儀、法律も変化せざるを得ない。
福太郎:そうですね。
佐平:だから儒教の黄金時代である周の文王や周公旦の時代の制度をそのとおりに復活させようとする試みは必ず失敗する。
福太郎:単純な復古主義ですね。
佐平:『危機の二十年』から引用する。この本は20世紀中葉に書かれた本だ。
19世紀的舞台装置の中で権力と道義の諸問題を議論するのは無駄なことである。なぜならこうした議論は、あたかも何かめぐり合わせが良ければ旧い条件が復活し、旧路線に似た状況の上に国際秩序を再構築できるかのような話になるからである。現代世界で実際に起こっている国際危機は、19世紀的秩序を可能にした諸条件の決定的かつ最終的な崩壊を意味している。旧い秩序が復活することはありえないのであり、展望が激しく変化することは避けがたいのである。
佐平:近現代の歴史は社会状況の変転も速い。19世紀に信じられた理念や道義を構成するもとになる社会的な諸条件は20世紀中葉になるとすでに崩壊している。だから19世紀の理念をそのとおりに復活させるのは無意味だというんだ。
福太郎:古い秩序は「決定的かつ最終的に崩壊」しているという表現が面白いですね。「最終的な崩壊」ですからもう元には戻らないと言う意味ですね。社会条件の変化も思想を古くする一因なんですね。
佐平:ああ。
福太郎:儒教も社会の変化で古くなりうるんですか?
佐平:そうだ。周の文王の時代の礼儀や社会制度をその通りに復活させるのは『危機の二十年』に言う「こうした議論は、あたかも何かめぐり合わせが良ければ旧い条件が復活し、旧路線に似た状況の上に国際秩序を再構築できるかのような話になる」という指摘の通りだ。
福太郎:なるほど。周の文王の時代の「秩序を可能にした諸条件は決定的かつ最終的に崩壊」している。「旧い秩序が復活することはありえない」。にもかかわらず古い制度を復活させようとすれば必ず失敗します。
佐平:ああ。もちろん儒教的「道」は古くならない。でもそれを応用すべき対象である社会状況は変化していく。新しい時代に合う社会制度が必要で過去には戻れない。
福太郎:ええ。
佐平:モーゲンソーの『国際政治』から引用する。
普遍的な道義原則はその抽象的かつ普遍的な公式で国家行動に適用されるということはありえないのであって、時間と場所の具体的な環境によって濾過されなければならない。
佐平:儒教的「道」を体得すれば「無形」の思想を得ることができる。
福太郎:ええ。
佐平:しかしその「道」はモーゲンソーの言う「抽象的かつ普遍的な公式」だ。「道」を現実に応用するには、無形の「道」が新しい有形の社会状況に合わせて有形の解決策になる必要がある。
福太郎:「時間と場所の具体的な環境によって濾過されなければならない。」というわけですね。
佐平:ああ。新しい現代の社会状況をよく知る人が儒教的「道」を体得すると新しい解決策を提示できる可能性がある。
福太郎:なるほど。でも結局端的に言って儒教は古いんですか?新しいんですか?
佐平:儒教はその本質は新しいがその表面は古い。
福太郎:そうか。
佐平:人間でいえば人間自身は新しいが、その着ている服は古い。
福太郎:なるほど。
佐平:我々も他人を見るときまず表面を見てしまうだろう。
福太郎:ええ。
佐平:目利きの人は人を見るときその本質と人間性を一目で見抜く。表面は見ない。しかし我々はまず表面を見て徐々に人柄を知る。
福太郎:そうですね。
佐平:思想も我々は初めはその表面を見てしまう。何度も読むうちに徐々に本質を捉えていく。
福太郎:ええ。先輩も儒教を最初に読んだときもそうだったんですね。
佐平:ああ。最初はその本質が分からなかった。現在は儒教の本質の新しさが分かる。でもオレは儒教の装いをも新しくする必要があると思っている。
福太郎:装いを新たにすると言うのは重要ですか?装いが古くても「道」という新しい思想を学べるのであれば装いは重要ではない気がします。
佐平:単に個人的に学問を志すだけならその必要はない。
福太郎:ですよね。
佐平:でも儒教が着ている服を新しくするだけでも多くの人に理解されるかもしれない。儒教を現代的な言葉で話す。すると多くの人に儒教の叡智を伝えられる。
福太郎:分かりやすくなるんですね。一応分かります。でもそれは本質的ですか?最初はわかりづらくても丁寧に古典を読んでいけばいい気もします。
佐平:そうだな。その疑問も分かる。しかしもっと重要なのは儒教を現代の問題を解決するのに役立てられる可能性があるなら、恐らく儒教に新しい服を着させる必要があると思うんだ。
福太郎:そうですか。
佐平:現代に儒教を活かすのであれば、新しい装いも大事だと思う。
福太郎:そうですか。
佐平:儒教を深く知る人はその装いなど末節的で本質的ではないと感じる。
福太郎:そうでしょうね。
佐平:しかし儒教を知らない人たちに儒教の叡智を伝え、儒教を現代に活かすのであれば、装いを新しくするのも必要だ。
福太郎:新しい服を用意するのも簡単ではなさそうですが・・。
佐平:ああ。そうだ。下手にやると竹に棒をついだようなおかしな思想になるな。そうなるくらいなら最初から単純に古典を読んでいくだけのほうがはるかにいい。でも儒教の本質を本当に捉えられるのであればそれに新しい表現を与えることも可能かもしれない。
福太郎:本質である無形の思想を得たら、有形である現代の状況に合わせた思想が作れるんですね。
佐平:ああ。
福太郎:そういう人が出るといいですけどね。歴史を読んでいても部分的な正しい解決策を提示する人はいますが、完全な解決策を提示できる人は少ないです。
佐平:現代のように複雑な時代で完全な解決策を提示するのは無理だ。でも世の中が現代よりもっと単純だった時代は完全な解決をした人はいるな。
福太郎:さっき出てきた周の文王、武王、周公旦の時代ですね。周の文王が創った国を武王が受け継ぎ悪の根源の殷の紂王を倒して中華を完成させました。
佐平:そうだな。
福太郎:でも時代が完成したら次にすること無くなりますよね。
佐平:一時的にはそうだな。でも一度完成してもまた徐々に新しい現象が生じて来て完成は崩れていくんだ。
福太郎:そうか。一度完成しても次の世代はまた別の問題が生じてくるんですね。
佐平:ああ。易経の話になる。
福太郎:難しそうですね。
佐平:できるだけわかりやすく説明する。
福太郎:ええ。
佐平:易経は六十四の卦が並んでいる。
福太郎:卦って何ですか?
佐平:類型というかパターンというか本質というか状態というか。すまん。上手く説明できん。
福太郎:「卦」でいいですよ。
佐平:六十四の「卦」があり、並んでいる。並び方には一応順序があるらしい。中国では天と地によって万物が生み出されるという思想がある。よって最初に「乾」=「天」が最初にくる。そして次に「坤」=「地」が次に来る。
福太郎:はい。天が最初で地が次ですね。
佐平:ああ。そして万物が生まれて六十四の卦が展開していく。
福太郎:ええ。六十四個の状態があって次々に変化していくんですね。
佐平:ああ。六十四の最後の並びが面白い。
福太郎:最後ということは物事の展開の最終局面を表すんですね。
佐平:ああ。ある意味そうだ。
福太郎:どうなりますか?
佐平:最後から2番目に「既済」という卦が来る。
福太郎:「既済」とは?
佐平:物事の完成という意味だ。
福太郎:周の文王武王の時代の完成のようなものですか?
佐平:そうだな。すべてが完成した状態だ。
福太郎:なるほど。でも変ですね。物事の完成なら並びの1番最後にくるはずです。なんで最後から2番目何ですか?
佐平:そこだ。最後から2番目が「既済」で、最後には「未済」の卦が来る。
福太郎:「未済」とは?
佐平:未完成という意味だ。未完成の状態だ。
福太郎:へんだな。完成の後に未完成が来るんですか?
佐平:そうだ。公田連太郎著『易経講話』第一巻127ページに次の言葉がある。
既済の卦の次に未済の卦がある。既済の卦において物事が悉く成就するのであるが、しかし世の中の物事はこれが最終というべき究極は無いのである。いろいろな物事がうまく成就しても、その後から続々と未だ完成されない色々なことが永久に出てくるのである。それゆえに、既済の卦の次に未済の卦が置いてあって、未済の卦をもって易の六十四卦は終わるのである。未済は「未だ成らず」という意味であり、物事が未だ完成されないのである。大は宇宙においても、人間世界においても、小は一個人においても、物事が残らず完成することは永久にないのである。後から後から続々と未だ完成されない事が出てくるのである。永久に完成ということの無いのが宇宙の情態であり、人間世界の情態である。よってこの未済の卦を六十四卦の最後に置くのである。
福太郎:何か分かりますね。周の文王武王によって世の中が完成されても、その完成は一瞬であって、その完成の直後から、新しい出来事が生じ、新しい問題を起こしていくというのは分かります。
佐平:そうだろう。だから完成の「既済」の後に未完成の「未済」が来る。未完成の「未済」で六十四卦が終わるというのが意味深長だ。未完成で終わるということは、まだまだ先が続いていくというのを暗示している。
福太郎:なるほど。興味深い。童話とか昔話では、例えば姫が悪に捕らえられて騎士が姫を助けて、そして二人は結婚し「めでたしめでたし」で終わります。英語でいうと"happily ever after"です。いわば「完成」で終わるわけです。でも実際には結婚してからのほうが大変だったりするわけですが。
佐平:そうだな。結婚で幸せが完成するが、その後また新しい問題があらわれてくる。
福太郎:ですよね。その点易経の終わり方は確かに意味深長です。
佐平:思想に完成というものがあるかは分からんが、儒教はそれなりに完成された思想なのかもしれない。
福太郎:ええ。
佐平:しかし人間の世の中はそうではない。仮に儒教を用いて世の中を完成させても次の瞬間から完成は崩れていく。それを強引に以前の完成状態に戻そうとしてもうまくいかない。『危機の二十年』からもう一度引用する。
19世紀的舞台装置の中で権力と道義の諸問題を議論するのは無駄なことである。なぜならこうした議論は、あたかも何かめぐり合わせが良ければ旧い条件が復活し、旧路線に似た状況の上に国際秩序を再構築できるかのような話になるからである。現代世界で実際に起こっている国際危機は、19世紀的秩序を可能にした諸条件の決定的かつ最終的な崩壊を意味している。旧い秩序が復活することはありえないのであり、展望が激しく変化することは避けがたいのである。
佐平:「19世紀的秩序を可能にした諸条件の決定的かつ最終的な崩壊を意味している。」とある通り、周の文王武王の時代の完成はいずれ崩壊する。それを元に戻そうとしてもうまくいかない。
福太郎:ええ。
佐平:強引に元に戻すのは「あたかも何かめぐり合わせが良ければ旧い条件が復活し、旧路線に似た状況の上に国際秩序を再構築できるかのような話になる」とある通りだ。
福太郎:なるほど。易経も同じですね。六十四卦は次々に展開していくけれど後戻りはしない。
佐平:ああ。易は後戻りをせずに前に進んでいく。もっとも一見後戻りする場合はあると思う。しかしそれは古い価値観が新しい装いのもとによみがえる時だ。強引な後戻りとは違うんだ。ルネサンスや宗教改革も古い思想が新しい形でよみがえった時代だった。ルネサンスは古代ギリシャの文芸と理性が甦った。宗教改革は純粋なキリスト教信仰が新しい形で甦った。
福太郎:ええ。それは分かります。儒教を現代的に復活させるのも一見後戻りのようですが、新しい装いのもとによみがえらせるのはある意味前進です。
佐平:ああ。モーゲンソーの『国際政治』からもう一度引用するぞ。
普遍的な道義原則はその抽象的かつ普遍的な公式で国家行動に適用されるということはありえないのであって、時間と場所の具体的な環境によって濾過されなければならない。
佐平:時代状況自体が変化するから、儒教で世の中の問題を解決するのであれば儒教は新しい装いのもとによみがえらないといけない。
福太郎:現代という「時間と場所の具体的な環境によって濾過されなければならない」んですね。
佐平:ああ。「普遍的な道義原則はその抽象的かつ普遍的な公式で国家行動に適用されるということはありえない」とある通り儒教のその普遍的思想は普遍的なだけでは現代の思想を解決できない。現代的装いがいる。古い装いでは現代の問題を解決できない。
福太郎:儒教を古い装いにおいて研究するのも大切ですが・・。
佐平:もちろんだ。個人的に学問をするだけならそれで十分だ。でも儒教を現代に役立てるならそれだけでは足りない。
福太郎:ええ。
佐平:偉大な人物が表れたからそれですべて解決ではなく、時代ごとに新しい問題が現れる。
福太郎:そうですね。
佐平:常に人々が努力するようにという自然の巧みな配合だ。
福太郎:ええ。
佐平:「過去のヒーローたちはいるが、観客が見たいのは現在のヒーローだ。」とある人が言ったことがある。
福太郎:スポーツかなんかですか?
佐平:ああ。スポーツでも過去の偉大な選手も人々の記憶に残るが、多くの人は現在のスターを見たいんだ。
福太郎:ええ。
佐平:トルストイだったか「人々は価値ある古典を読まず、新しくプリントされた価値のない書物を読んでいる。」と嘆いている。
福太郎:分かります。現代でも古典より新刊書が売れます。
佐平:もちろんトルストイの言うこともよく分かる。オレも新刊書より圧倒的に古典のほうが好きだ。しかし世界にある現象はすべてではないが、その多くはそれなりの理由がある場合もある。新刊書が好まれるという現象も、現代の新しい問題を人間が対処し努力するのを自然が促しているようにも思える。
福太郎:なるほど。話戻りますが、よく思うんですけど物事が完成してもそれが崩壊していくというのはいろんな場面であります。
佐平:例えば?
福太郎:能も観阿弥世阿弥によって完成されましたが、次第に日本人の服装も変わり言葉も変わり、能を支えていた日本人の状況は変化していきます。能の完成も現代日本人から疎遠になるという意味で崩れて行っているんですね。
佐平:ある意味そうだな。日本は能が完成された室町時代の文化状況に戻ることは決してない。
福太郎:ですよね。じゃあ能とか歌舞伎は単に守旧派というか強引に後戻りしようとしているんですか?
佐平:それは違う。周の時代の井田制とか日本古代の律令制とかは別に実社会に保存する必要はない。
福太郎:ええ。
佐平:でもどういうわけか芸術は古い伝統を大切にしたほうがいい。新しい芸術をつくるのと同じくらい古い芸術を残すのは大切だ。日本は室町時代に戻ることはない。それは逆に言えば、もし能が消えてしまったら、観阿弥世阿弥の偉大な文化は永久にこの世から消えてしまうという意味でもある。
福太郎:ええ。
佐平:強引に後戻りするのはオレは反対だ。でも少なくとも芸術は古い芸術をそのまま受け継ぐのは非常に大切だと思っている。この前も坂東玉三郎さんの公演を見に行って江戸時代が目の前で展開されて深く感動した。芸術以外で他にもそういうケースはあるかもしれない。
福太郎:なるほど。
佐平:話は少し変わるが、北村弁護士の面白い話がある。8:28から見てくれ。




福太郎:面白いですね。
佐平:ある分野の本質はその分野の専門用語という「服」につつまれている。専門用語がその分野の本質にとっての「装い」なんだ。
福太郎:ええ。
佐平:しかしその分野の本質を捉える人はその本質を相手の理解度に合わせて分かりやすく伝えることができる。
福太郎:そうですね。
佐平:「専門用語という服」ではなく、「素人に伝わる別の服」の装いでその本質を表現できるんだ。「専門用語という服」から「日常語の服」に着替えさせる。
福太郎:ええ。
佐平:それと同じように儒教の本質をつかむ人は現代的な装いで儒教を表現できる可能性がある。
福太郎:なるほど。
佐平:本質をつかむ人は異なる装いからも同じ本質を抽出できる。
福太郎:物理学の研究者が老子の言葉からその本質を抽出できたように?
佐平:そうだ。物理学と老子は全く別の装いを持っている。物理学の装いは物理に関する知識であり、数式であり物理の実験だ。老子の装いは漢文だ。全く装いは別だ。しかし本質は相通じる。物理学の本質を理解する科学者は老子の本質が分かるのかもしれない。
福太郎:ええ。
佐平:それと逆に本質を捉える人は同じ本質を別の装いのもとに表現できる。
福太郎:曹操が自分の思想を政治で実現し同じ本質を詩で表現したように?
佐平:そうだ。孔子がその精神という本質を思想や礼儀や音楽で表現したようにだ。だから儒教も本質を捉えれば新しい現代的な装いのもとに表現できる可能性がある。
福太郎:逆は真ですか?儒教を新たな装いで表現できない人は儒教の本質を理解していないんですか?
佐平:それは違う。逆は真ではない。新たな装いで表現できない人のなかにも儒教の本質を理解している人は確かにたくさんいる。ただそういう人は恐らく現代に生きておらず、昔の中国に生きている人だ。
福太郎:なるほど。
佐平:専門分野の本質を捉えている人の内にも、分かりやすくその本質を伝えきれない人はいると思う。
福太郎:逆は真ならずですか。
佐平:長嶋茂雄さんはその実績から言って野球の本質を捉えていたはずだ。
福太郎:当然です。
佐平:しかし彼の解説はプロですら理解できなかったという。
福太郎:そうですか。
佐平:巨人の監督時代「ビュンと振るんではなくてバシッ!!と振るんだ!!」と指導したらしい。
福太郎:なるほど。
佐平:皆理解できず、松井秀喜選手だけそれを理解できたらしい。
福太郎:そうですか。
佐平:松井選手がスランプに陥った時長嶋監督が松井選手と電話で話したという。電話の前で松井選手が素振りをする。長嶋監督がその音を聞いて「違う!!違う!!」と言った。
福太郎:ええ。
佐平:そして松井選手が素振りを続け、ある時長嶋監督が「それだ!!」と言った。すると次の日松井選手がホームランを打ったというんだ。
福太郎:そうですか。本質を捉えても分かりやすく説明できるとは限らないんですね。
佐平:多分。でも分かりやすく説明できる人は本質を捉えているはずなんだ。
福太郎:「素人に分かるように説明できる」→「本質を捉えている」ですが、「本質を捉えている」→「素人に分かるように説明できる」とは限らないのか。
佐平:多分そうだな。ちゃんと確かめてないけど。アインシュタインに次の言葉がある。「相対性理論」の「相対性」についてだ。
熱いストーブの上に1分間手を当ててみて下さい。
まるで1時間位に感じられる。
では可愛い女の子と一緒に1時間座っているとどうだろう。
まるで1分間ぐらいにしか感じられない。
それが相対性です。
福太郎:分かりやすい。
佐平:この比喩が物理学的に正しい比喩なのかはオレには分からない。相対性理論や物理のことは知らない。でも分かりやすい。専門用語を使わず、素人でも分かる言葉で言い換えている。
福太郎:そうですね。
佐平:続けてアインシュタインの言葉を引用するぞ。
全ての物理学の理論は、数式は別にして子供でさえも理解できるように簡単に説明すべきである。
福太郎:本質を捉えるアインシュタインならではの言葉ですね。
佐平:ああ。オレも思想を分かりやすく伝えるのを目標にしているが、分かりやすく伝えるのは案外難しい。
福太郎:ええ。
佐平:易経は難しい。
福太郎:ええ。
佐平:しかし公田連太郎氏の『易経講話』は中国思想を修めた人にとっては非常に分かりやすい。
福太郎:そうですか。
佐平:それは公田氏が易経の本質を捉えているからだと思う。
福太郎:なるほど。
佐平:清の時代の中国に魏源という人がいた。『海国図志』が有名だ。西洋列強の脅威を説いた本で中国では読まれず、日本で読まれた。佐久間象山や吉田松陰が読んだとwikipediaにある。彼の著作『聖武記』と言う本からの引用だ。
古に倣えば今に通ぜず。
雅を択べば俗に諧わず。
福太郎:解説をお願いします。
佐平:古=「いにしえ」だ。「古に倣えば今に通ぜず」とは「昔のことばかり学んでいると現代に対応できない。」と言う意味。
福太郎:ええ。
佐平:「雅を択べば俗に諧わず。」とは「格調高い学問をしていると俗な世界と調和できない。」と言う意味。「諧わず」=「かなわず」だ。「諧」=「うまく調和する」と漢和辞典にある。
福太郎:なるほど。
佐平:魏源も当時の社会に思想を役立てたいと思ったのだろう。しかし昔の思想ばかり勉強していて現代を知らないと、思想を現代に役立てられない。昔の思想はその本質は新しいが、その表面は古いからだ。格調高い学問をして俗な世界を知らないと俗な世界に影響を与えられない。
福太郎:現代に通じる思想の作り方は具体的にはどうするんですか?
佐平:ひとつの方法は西洋思想との合成だ。これがないとにっちもさっちも行かない。これが恐らく現代日本の問題の根本のひとつだ。
福太郎:やれますか?できそうですか?
佐平:分からない。まだできそうな予感はそんなに無いな。
福太郎:やる気はあるんですね?
佐平:一応試してみたいとは思っている。
福太郎:あまり期待せずに見ておきますよ。
佐平:ああ。そうだな。では休憩するぞ。

続きは中国思想とイギリス思想をご覧ください。


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