君子器ならず



佐平:それでは続けるぞ。『論語』為政篇に次の言葉がある。
現代語訳
孔子が仰った。君子は器ではない。

書下し文
子曰く、君子器ならず。
福太郎:意味が分かりません。
佐平:器とは皿とかコップだ。
福太郎:ええ。
佐平:皿は料理をのせるためのものだ。コップは飲み物を入れるためだ。
福太郎:そうです。
佐平:あらかじめ用途が決まっている。
福太郎:そうですね。
佐平:しかし君子は用途が決まっておらず色んな状況に対応できると言うんだ。
福太郎:そうですか。君子は柔軟なんですね。用途が決まっているのは我々普通の人。例えば剣術しかできない人は用途が決まっていますね。それが器ですか。
佐平:ああ。『論語集注』該当箇所に次の記載があるぞ。
現代語訳
器はそれぞれ個別の用途にかなうけれど、色んな用途に相い通じて役に立つというわけではない。徳が完成している人は本質的なものが全うされている。だから具体的な働きもあまねく広く行きわたる。一つの才能、一つの能力だけしか働かせられないというわけではないのである。

書下し文
器は各々其の用に適えども、相い通ずること能わず。成徳の士は体、具わらざる無し。故に用、周からざる無し。ただ一才一芸を為すのみに非ざるなり。
佐平:一つの分野を学ぶ際、枝葉末節だけをたくさん頭に詰め込んでも、他分野に応用できない。なぜなら枝葉末節は分野ごとに大きく違うからだ。
福太郎:ええ。
佐平:しかし枝葉末節だけではなく、ひとつの分野の根本である本質も捉えられれば別の分野にその本質をかなりの程度応用できる。
福太郎:そうですか。
佐平:例えば物理学と老子研究は別の分野だろう。
福太郎:もちろんです。
佐平:物理学と老子研究はその表面を見れば全く別分野で共通点はない。
福太郎:そうです。共通点はゼロです。
佐平:しかし本質をとらえるほど分野の垣根は崩れていく。海外の物理学者には『老子』を愛読する人がいるという。表面的には別分野だが、本質は一致するんだ。
福太郎:そうなんですね。
佐平:『論語集注』の言葉にある通り、「本質的なものが全うされている」とその本質は「色んな用途に相い通じて」役に立つのだ。だから物理学の本質は老子の本質と相通じるものがあるのかもしれない。それぞれの枝葉末節は全く別でも本質は応用できるというわけだ。相通じるんだ。優れた物理学者は優れた老子研究者になれる可能性がある。
福太郎:「一つの才能、一つの能力だけしか働かせられないというわけではないのである」というわけですか。
佐平:そうだ。
福太郎:一つの才能に限定されるのが「器」なんですね。
佐平:ああ。根本である深い本質をとらえず枝葉末節である表面に捉われると応用が利かないからだ。
福太郎:はい。我々普通の人間はそうですね。
佐平:万能人は洋の東西を問わず時々現れる。日本での典型は空海だろう。仏教はもちろん、詩文、語学、書道、土木工事、薬学など実に多才だ。
福太郎:そうですね。
佐平:「ひとつでも大変なのに頭の中どうなってるんだ?」とオレなんかは思う。彼らの心境は確かに分からない。でも色んな文献からできるだけ予測してみる。恐らく一事に通じる本質は万事に通じるんだろう。
福太郎:ええ。
佐平:曹操も万能人のひとりかもしれない。彼は政治で優れていただけではなく詩人としても優れていた。
福太郎:そうですか。
佐平:でも曹操も多くの分野をこなしているという感覚はなかったと思う。政治で得た本質を詩に応用できるからだ。
福太郎:なるほど。
佐平:曹操が詩を書く時の想いと政治に向き合う精神は同じものだっただろう。自分の精神を、詩で表現するかそれとも政治で現実化させるかの手段の違いでしかなかったと思う。本質をとらえる人にとって分野の垣根などそれほど重要ではなくなるのだ。
福太郎:ええ。
佐平:『論語』衛霊公篇に次の言葉がある。
現代語訳
孔子が仰った。「子貢よ。おまえは私をたくさん学んで多くを知っている者だと思うか?」子貢が答えて言った。「はい。違いますか?」孔子が仰った。「違うぞ。私はひとつのことを貫いた人間だ。」

書下し文
子曰く。賜や。汝、我を以って多く学びてこれを識る者と為すか。応えて曰く、然り。非なるか。曰く。非なり。我は一を以てこれを貫く。
福太郎:これ以前出てきましたよ。
佐平:そうだな。「多才であること」と「ひとつのことを貫くこと」の両方が孔子の本質だと以前言った。以前の引用では「多才であること」を取りあげたな。「格物致知」という中国的修行を若い頃行ったため孔子は多才だったと言った。
福太郎:ええ。そうでした。
佐平:今回は「ひとつのことを貫くこと」を解説する。
福太郎:ええ。
佐平:孔子は偉大な精神を持っていた。偉大な思想を持っていた。それが本質だ。本質はひとつだ。孔子はその本質を貫いた。「ひとつのことを貫いた」んだ。その偉大な精神が行動として現れて政治になり、言葉として現れて思想になり、人に応対して礼儀となり、弟子を導いて教育になり、楽器を弾くことで音楽となった。孔子は確かに多才だったが、多くを行っているという感覚はなく、「ひとつのことを貫く」という感覚だったと『論語』の言葉から推測できる。
福太郎:なるほど。才は多であっても、本質はひとつだったんですね。
佐平:多分な。「私はひとつのことを貫いた人間だ。」という孔子の言葉にはもちろん深い実感がこもっていると思う。
福太郎:ええ。礼儀の細かい知識にひたすら詳しいだけの人は器なんですね。孔子は本質をとらえたから他の分野にも「相通じる」。
佐平:『易経』に「天火同人」という卦がある。
福太郎:『易経』ですか。難しい書物ですね。
佐平:ああ。「同人」とは多くの人が一致して物事にあたる状況を指す。
福太郎:分かったような分からんような。
佐平:例えば大きい話だと天下の人々が協同一致したり、少し小さい話だと同じ会社の人が協同一致したり。
福太郎:ええ。
佐平:公田連太郎著『易経講話』第二巻72ページに次の言葉がある。
同人はもっと一層小さい範囲のものとして考えることもできる。例えば自分一身の中にいろいろな思想感情欲望という類のものがある。それらの思想感情欲望という類のものを、あるひとつの物事に集中して行くことがあるとすれば、それも同人の卦の領分の中にはいるのである。
佐平:「同人」は通常は社会で多くの人たちが一致して協力するのを指すが、小さく考えてひとりの人の中で色んな知識が繋がってひとつの物事に集中していく様子にも当てはまる。
福太郎:そうですか。
佐平:孔子の多才ぶりがその典型だ。
福太郎:孔子は色んなことができますけど、それらは「儒教的道」というひとつのことに集中しているというのはさっきの説明で分かりました。
佐平:そうだ。公田連太郎氏の言う「ひとつの物事に集中していく」が孔子の「一を貫く」の意味だろう。単にたくさんの幅広い知識があるだけではただの物知りだ。インターネットがある時代、単に情報を蓄積するだけでは意味がない。google検索でそれは間に合うからだ。
福太郎:そうですね。
佐平:「一を貫く」が無いといけない。例えば他分野にわたる色んな知識が繋がり合ってひとつの論文に仕上がる。
福太郎:そんなこと言ってますが先輩は下手の横好きですよ。
佐平:これでもだんだん知識がつながってきてはいるんだ。知識を詰め込むと細かいところは忘れるが、本質はだんだん結晶化されていく。誰かが言ってたが知識はコーヒーの粉みたいなものだと言うんだ。お湯を入れてコーヒーが出る。コーヒーが本質だ。本質を得たら余ったコーヒーの粉は捨ててもいいんだと言う。
福太郎:知識を捨てていいかは分かりません。大雑把なところは覚えておかないといけないです。でも一理ありますね。少しわかります。知識は細かいところは忘れていきます。
佐平:アインシュタインの言葉を引用するぞ。
教養とは学校で学んだことをすべて忘れたあとに残るもののことです。
福太郎:これも同じこと言ってますね。ここで言う「教養」はおそらく「本質」のことでしょう。
佐平:知識は無理につなげてはいけない。本質は分野の垣根を超える。本質が結晶化して知識が勝手につながるまで待たないといかん。これでもオレの中で知識は徐々につながってきているんだ。
福太郎:まあいいです。
佐平:孔明についても考えるぞ。孔明は曹操ほどの万能人ではなかったと思う。しかし彼も物事の本質を捉えるのに優れていたと推測させる記述が『魏略』にある。引用するぞ。
石広元、徐元直、孟公威は学問の精密さに努力したが、諸葛亮だけはその大要をつかもうとした。
福太郎:どういう意味ですか。
佐平:孔明は二十七歳まで読書生活だ。
福太郎:それまで仕官しなかったんですか。
佐平:そうだ。当時としては非常に遅いスタートだ。
福太郎:そうですね。
佐平:この箇所は晴耕雨読の生活をしていた時の読書方法についての記述なんだ。
福太郎:へえ。
佐平:「石広元、徐元直、孟公威」というのは孔明の友達だ。彼らは古典を精密に読み解いていた。しかし孔明は大略のみをつかんだと言うんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:孔明が枝葉末節にこだわらず、本質をとらえていたと推測できる。
福太郎:でも思想は細部も重要ですよね。
佐平:思想を研究する人にとっては大事だ。細部を丁寧に読むことで本質が現れてくることもある。
福太郎:そうですよ。
佐平:でも孔明は思想家ではなく政治家だ。政治家は思想を研究するのが仕事ではない。思想を勉強してもそれを現実に応用し現実を良くするのが仕事だ。
福太郎:ええ。
佐平:学者は思想の一字一句にこだわって勉強すべきだ。しかし政治家はそれをすべきではない。本質だけとらえて応用すべきなんだ。
福太郎:分かります。
佐平:孔明は自分の思想を現実に応用できた。政治家としてデビューしたばかりなのに無一文の劉備を三国の一角に押し上げるという奇跡的大業を為した。
福太郎:そうですね。
佐平:学問の本質をとらえた孔明だからこそできたんだ。
福太郎:ええ。
佐平:『竜馬がゆく』に竜馬の学問についての描写がある。もちろん小説なので本当かは分からない。でも司馬遼太郎の推測はけっこう本質をついている場合が多い。引用するぞ。
竜馬は毎日ひきこもって例の『資治通鑑』を読んだ。しかも白文である。送り仮名も返り点もついていないから、竜馬の学力にはちょっと無理だったが、この男には一種の天才があった。
大づかみに意味が分かるのである。竜馬の意見では意味さえ分かればよいではないか。
「一度、竜馬の学問を見物に行こう。」と若侍たちが寄り合った。
のちに土佐勤皇党で働いた大石弥太郎ら三人が坂本屋敷にやってきて竜馬の部屋を訪ねた。
なるほど神妙に書見している。
「竜馬、さあ読んでくれんか」
「読んじょる」
と竜馬はおちついて言った。
「声をあげて読んでくれ」
「ふむ」
竜馬は音吐朗々と読み始めた。三人は顔を真っ赤にして笑いをこらえている。竜馬はどんどん読み進める。
文法も訓読法もなにもあったものではない。無茶で我流で意味も通らず、まるで阿保陀羅経をとなえているようなものであった。
ついにこらえかねて三人は大笑いした。
「笑うとは無礼ではないか。」
竜馬も仕方なく笑っている。
「しかし竜馬。それでは意味が分かるまい。」
「意味なら分かる。まあ、そこで聞け。」
と、竜馬は漢の劉邦が沛という田舎町のあぶれ者の群れのなかからおこって秦帝国をほろぼすまでのくだりを二時間にわたって講義した。
それがいちいち正鵠を得ているので大石らはだんだん気味が悪くなってきた。
「もうよい。竜馬。いったい読めもせんで意味ば、分かるっちゅうのはどういうわけじゃろかなあ。」
「わからん。わしは文字を見ちょると頭に情景が絵のように動きながら浮かんで来おる。それを口で説明しちょるだけじゃ。」
不思議な才である。
福太郎:これ本当ですかね?
佐平:分からないが分かりやすくするために若干大げさにしてあるかもしれない。でも基本的には史実だ。竜馬は孔明と同じで本質を捉える能力があった。その能力はその後の竜馬の人生と功績によって証明されている。竜馬は学問に向いていなかったので正確な学問はしていないはずだ。しかし学問の本質を的確に捉えていく。その能力は天性のものだ。竜馬の思想をたどると学問ができないはずなのに学問ができている。非常に不思議な人だ。
福太郎:我々もそのような学問をしていいんですか?
佐平:本質を捉えることができるならそれも一つの方法だ。
福太郎:先輩はどうしてますか。
佐平:おれは熟読している。竜馬のような能力はないからな。竜馬が瞬間的に本質を捉えるのに対しオレは熟読で少しづつ本質の近似値に近づいていくんだ。
福太郎:でも先輩の引用や現代語訳も原文に忠実じゃないときもありますよね。
佐平:ああ。正確さより分かりやすさを優先しているからな。でも本質は基本的には外してないつもりだ。
福太郎:ええ。
佐平:アインシュタインの言葉で次の言葉があるぞ。
すべての宗教、芸術、科学は同じひとつの木の枝である。
佐平:人間の創造する各分野は木の枝がそれぞれ分かれているようにある意味別の分野だが、根本において本質においてはひとつの木のようにつながっていると言うんだ。
福太郎:各分野は本質をたどれば根本においては同一なんですね。
佐平:そうだ。アインシュタインは科学以外にも宗教や哲学を論じ、バイオリンを弾きモーツァルトを楽しむ人物だった。彼にとって科学や宗教、芸術は決して別々のものではなく、彼の世界観というひとつの木、その一部だったと思う。物事の本質をとらえるアインシュタインの才能はいろんな分野に「相通じる」のだ。
福太郎:アインシュタインも「多を為す」というより「一を貫く」というという感覚だったんでしょうね。
佐平:恐らく。
福太郎:よく分かりました。
佐平:さらにアインシュタインの言葉を引用するぞ。
ある高い水準に達すると、科学と芸術は、美的にも形式的にも融合する傾向があります。 したがって超一流の科学者はつねに芸術家でもあります。
福太郎:これも同じ内容ですね。
佐平:「ある高い水準に達すると」とあるだろう。
福太郎:ええ。
佐平:これはオレが言った言葉でいうと「その分野の本質を捉えると」となる。
福太郎:なるほど。アインシュタインの言葉と一致しますね。
佐平:水準が高くなり本質を捉えると分野の違いは少なくなっていくと言う意味だ。
福太郎:ええ。
佐平:『論語』の「君子器ならず」とこのアインシュタインの言葉は実は全く同じことを別の角度から述べているんだ。
福太郎:ええ。『論語』とアインシュタインは別の分野の人と思ってましたが、本質は「相通じる」んですね。
佐平:そうだ。文献を熟読しその本質を捉えると万能人の世界観は共通していると分かる。
福太郎:そうかもしれませんね。
佐平:一見関係のない二つのものをその本性に基づいて結び付けるのは本質を見る眼だ。外見上一見関係ない二つの物が本質において一致する。モンテスキューの『法の精神』に次の言葉がある。
私は自分の諸原理を自分の偏見から導き出したのではなく、事物の本性から導き出した。
佐平:オレも中国思想と三国志を勉強しているが、個人的にこの二つは別分野と思えない。
福太郎:中国思想と三国志は隣分野ですが別分野です。
佐平:表面的にはな。
福太郎:ええ。
佐平:しかし物事の本性を見て本質をたどると両者は一致すると思う。
福太郎:と言うと?
佐平:三国志の本質を抽象化したのが中国思想で、中国思想が特定の時代において具現化したのが三国志だと思うんだ。
福太郎:なるほど。本質は一致するのか。
佐平:『論語集注』の言葉にあった通りだ。その本質は中国思想と三国志の両方で「相い通じる」のだ。
福太郎:確かにそうですね。でも先輩はいろいろ勉強してますけど万能の人というより下手の横好きですね。
佐平:残念ながらそうだな。
福太郎:ええ。
佐平:『老子』第八章に次の言葉があるぞ。
現代語訳
最上の善は水のようだ。水は道に近い。

書下し文
上善は水の如し。道に近し。
福太郎:どういう意味ですか?
佐平:水は一定の形を持たないよな。
福太郎:ええ。コップなどの形に合わせて自在に変化します。
佐平:君子は器ではない。一定の用途を持たない。それが一定の形を持たない水に似ているんだ。
福太郎:よく分かりません。
佐平:解説するぞ。
福太郎:はい。
佐平:我々は生まれる時代を選べない。
福太郎:そうです。
佐平:君子や聖人であっても生まれる時代を選べない。
福太郎:もちろんです。
佐平:そして時代によってその様相は全く違う。抱える問題は千差万別だ。
福太郎:はい。
佐平:しかし君子は物事の本質を捉える。物事の本質を捉えればどの時代にも対応できる。本質はどの時代にも「相通じる」からだ。
福太郎:なるほど。
佐平:曹操は万能人だった。たしかに詩と政治など各分野は表面的には別の分野だ。しかしそれぞれの本質は一致する。本質は他の分野に「相通じて」応用できる。同じように時代によって抱える問題は違うけれど、本質を捉える能力のある君子はどの時代に生まれても、その時代にあった解決策を提示できるはずだ。
福太郎:そうかもしれませんね。
佐平:時代によって抱える問題は違う。
福太郎:ええ。
佐平:環境問題が重要な現代と、昔のように環境はきれいだが食糧不足で飢饉が起きる時代ではやるべきことは違う。
福太郎:ええ。
佐平:戦乱が長期化していた応仁の乱の時代と平和だが人々に覇気がない時代では抱える問題は違う。
福太郎:そうです。
佐平:学生の暴力が問題だった昭和と学生に元気がない時代では対処するべき内容が違う。
福太郎:ええ。
佐平:景気が過熱するバブル期とデフレが続く時代ではやるべきことは違う。
福太郎:はい。
佐平:法が厳しすぎる秦の時代と法が緩すぎる後漢末では抱える問題は違う。
福太郎:ええ。
佐平:中央集権が必要な明治初期と画一化が過ぎて地方分権が必要な時代では対処すべき内容が違う。
福太郎:はい。
佐平:他民族多宗教が共存して対立しあう国と同一民族で宗教同士が争わない国では対処すべき問題は違う。
福太郎:ええ。
佐平:周りを海で囲まれた島国と陸続きで複数の外国と国境を接する国では生じる問題は違う。
福太郎:そうですね。
佐平:確かに時代によって状況や世相や抱える問題は違う。しかし君子は物事の本質を捉えるからどんな時代でもその時代に合わせて正しい解決策を提示できるんだ。
福太郎:これも「君子は器ではない。」なのか。理想的にはそうなりますね。あくまで理想的にはですが。
佐平:そうだ。時代によって状況は違うけど、本質は時代を超えて「相通じる」んだ。
福太郎:なるほど。
佐平:水について説明する。時代の状況を水が流れる地形に譬えるぞ。
福太郎:と言うと?
佐平:地形は場所によって違うだろう。
福太郎:ええ。凹んでるところもあれば凸ってるところもあります。
佐平:図で示すぞ。水が流れる地形だから斜面で表す。





福太郎:別にいいんですけど図が下手過ぎませんか?
佐平:うるさい。理解できればいいんだ。
福太郎:そうですかねえ?
佐平:ペンタブレットを買ったんだが応答速度が悪くてまだ使いこなせない。
福太郎:そうですか。
佐平:安物のペンタブのせいかオレのおんぼろPCのせいか動きが全くスムーズではない。
福太郎:分かりました。まあいいです。
佐平:地形は場所によって違うな?図の二つの地形は形が違う。
福太郎:ええ。
佐平:それと同じように時代の状況は時代によって違う。
福太郎:はい。
佐平:だから時代の状況を地形に譬えるんだ。
福太郎:はい。分かります。
佐平:水はこの地形の上を流れていく。
福太郎:ええ。
佐平:図で示すぞ。





佐平:水は地形に合わせて形を変えながら流れていくよな。
福太郎:ええ。
佐平:それはなぜだ?
福太郎:水には一定の形が無いからです。
佐平:そうだ。水は無形だからだ。地形に合わせて流れていく。
福太郎:ええ。
佐平:同じように君子の思想も無形なのだ。
福太郎:と言うことは?
佐平:君子の思想は本質を捉えるからその時代に合わせて物事を解決していく。本質を捉える。本質はいろんな時代に「相通じる」。君子の思想が時代の問題を解決していく様子が水が地形を流れていくのに似ている。
福太郎:そう言われてみればそうですね。
佐平:君子の思想は無形なのだ。水に譬えることができる。図で示すぞ。





福太郎:なるほど。
佐平:地形の凹ってるところが時代の抱える問題だ。そして二つの図では凹ってるところが違う。時代によって抱える問題が違うんだ。君子の思想はその時代に合わせながら問題を解決していく。
福太郎:無形の思想か・・。
佐平:『老子』第八章をもう一度引用するぞ。
現代語訳
最上の善は水のようだ。水は道に近い。

書下し文
上善は水の如し。道に近し。
福太郎:意味が分かりました。最も優れた者は本質を捉えて水のような無形に至るんですね。
佐平:そう言うことだ。
福太郎:やっと分かりました。
佐平:老子は道を一定の形を持たないものと考える。
福太郎:水のようなんですね。
佐平:ああ。『老子』第十四章に次の言葉があるぞ。
現代語訳
これを姿の無い姿。形の無い形と言う。

書下し文
是を無状の状、無物の象と言う。
佐平:道には一定の形がない。だからすべての問題に対応できる。道には一定の形がない。だから「姿の無い姿」と言い、「形の無い形」と言うんだ。
福太郎:難しくなってきました。
佐平:『老子』第四十一章に次の言葉があるぞ。
現代語訳
大いなる姿には形が無い。

書下し文
大象は形無し。
福太郎:これも同じ内容ですね。「大いなる姿」は道のことですね。
佐平:ああ。
福太郎:道は形がないのか。
佐平:『老子』第二十三章に次の言葉があるそ。
現代語訳
道に従う者は道と同化する。

書下し文
道に従事する者は道に同ず。
佐平:道は無形だ。聖人は道を体現しているからその思想は道と同化し無形になる。
福太郎:なるほど。
佐平:『孟子』離婁章句下に次の言葉があるそ。
現代語訳
徐子が尋ねた。「孔子はしばしば水をたたえて「水だ水だ」と言いました。水にどのような良さがあるのですか?」孟子が仰った。「源のある水はこんこんと湧き出て昼も夜も休みなく流れ、穴があればそれを盈たして進んでいき大海に至るからだ。」

書下し文
徐子曰く、仲尼しばしば水を称して曰く、水なるかな水なるかなと。何をか水に取れる。孟子曰く、源ある水はこんこんとして昼夜をおかず、穴を盈たして後に進み、四海に至る。
福太郎:どういう意味ですか?
佐平:源がある川は根本を備えておりどんどんあふれてくる。水源が根本だ。根本たる徳のある君子と同じだと言うんだ。
福太郎:と言うと?
佐平:徳ある君子からは善いことがどんどんあふれてくる。
福太郎:そういうことか。
佐平:そして根本から末節に至る物事の流れは自然な力が働く自然な流れだ。川の水が上から下にどんどんと自然に流れていくのも自然な流れだ。両者は似ている。
福太郎:分かります。
佐平:さらに昼も夜も休まないのが君子が常に努力を惜しまないのに似ている。
福太郎:ええ。
佐平:そして穴があればそれを盈たして進む。
福太郎:これはさっきから解説してる内容ですね。
佐平:ああ。無形の思想で時代に合わせて問題を解決しながら進んでいくんだ。穴がその時代特有の問題だ。水はそれを自在に解決しながら進んでいく。
福太郎:ええ。
佐平:そして大海に至る。
福太郎:分かります。天下に太平をもたらすんですね。
佐平:そういう意味だ。蔡沈『夢奠記』に次の言葉があるぞ。
現代語訳
天地は万物を生み、聖人は万事に応ず。

原文
天地生万物
聖人応万事
福太郎:なるほど。
佐平:聖人が万事に応じれるのはその思想が本質を捉え無形だからだ。
福太郎:ええ。
佐平:『言志四録』のうちの『言志耋録』の六十八に次の言葉があるぞ。
現代語訳
窮めることができない道理は無く、応じることができない変化はない。

書下し文
窮む可からざるの理無く、応ず可からざるの変無し。
福太郎:これも同じですね。本質である道理を捉えれば応じることができない変化はない。
佐平:そうだ。本質を捉えれば無形の思想を得るからだ。
福太郎:でもそんな無形の思想を持っている人っています?
佐平:いないだろうな。
福太郎:じゃダメじゃん。
佐平:でもそれに近い人は歴史上にはいる。
福太郎:そうですか。
佐平:無形というのはあくまで現実を分かりやすく説明するための理論なんだ。
福太郎:というと?
佐平:慣性の法則って知ってるか?
福太郎:物理か。聞いたことありますけど。
佐平:wikipediaから引用するぞ。
すべての物体は、外部から力を加えられない限り、静止している物体は静止状態を続け、運動している物体は等速直線運動を続ける。
福太郎:え~っと・・。
佐平:ボールを転がすと転がり続けるだろう。
福太郎:ええ。
佐平:転がしたボールはどこまでもまっすぐ転がり続けるというのが慣性の法則だ。
福太郎:でも大抵そのうちボールは必ず止まりますよ。
佐平:そうだ。地面との間で摩擦力が働くからだ。外部からの力が働いてしまう。
福太郎:ええ。
佐平:無形の思想もこれと同じだ。理論的に言うと本質を完全に捉えれば無形に至るかもしれないが、摩擦が働かない地面など無いように、完全な聖人はいないから完全な無形など存在しないんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:ボーリング場でボールを転がすとボーリング場のレーンは摩擦が少ないので慣性の法則がある程度成り立つのが誰の眼にも見て取れる。ボーリングではボールは同じ速度でまっすぐ進んでいくだろう。
福太郎:ええ。ボーリング場のレーンは無摩擦表面ですね。
佐平:ああ。同じように偉大な聖人があらわれた時だけ無形の思想がある程度成り立つのが見て取れるんだ。
福太郎:そういうことか。
佐平:完全な無摩擦表面は開発されていないのと同じで完全な無形の思想を持った人は存在しない。
福太郎:でも我々は無形の思想を目指すべきではないですよ。聖人ではありません。
佐平:そうだな。『三国志』劉表伝引注『傅子』に次の言葉があるそ。韓嵩と言う人の発言だ。
現代語訳
聖人は時代に合わせて柔軟に対応し、その次の人物は自分の信念を貫きます。私は自分の信念を貫く者です。

書下し文
聖は達節し、次の者は守節す。嵩は守節する者なり。
佐平:「聖人は時代に合わせて柔軟に対応する」とは言っても風見鶏のような悪い意味での臨機応変ではない。
福太郎:もちろんです。
佐平:自分の信念を貫いて、且つ時代に合わせて柔軟に対応するという非常に難しいことができるのが聖人だと言っている。
福太郎:そうですね。
佐平:それは我々凡人には無理。我々は自分の信念を貫くのを目指す。偉大な人は時代に必要なものは何かを考えて行動する。我々普通の人間は自分が何が一番得意かを考えて行動する。
福太郎:我々は自分の得意なところを活かす方が現実的です。
佐平:そうだな。
福太郎:特に無形の思想を持つというのは非常に難しいと思います。
佐平:ああ。ただ無形に至るのは無理でも我々にもそれに近いことができる場合がある。
福太郎:どんな方法ですか?
佐平:『大学』から再度引用するぞ。
現代語訳
物事には根本と末節があり、事柄には最初に生じることと最後に生じることがある。何が先であり何が後であるかを知れば、道を知ったのに近い。

書下し文
物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。
福太郎:これはさすがにもう覚えました。暗唱できますよ。
佐平:ああ。「道を知る」とは無形の思想を持ちどんな状況にも柔軟に対応できるということだ。でも我々には難しい。でも何が根本で何が末節かを知るのは我々でもできる。それが分かればそれなりに色んな問題に対応できるというんだ。だから「道を知ったのに近い」と言っている。
福太郎:なるほど。
佐平:根本と末節の流れを確認しどこがボトルネックになっているかを把握すればそれなりに問題は解決する。
福太郎:分かりました。
佐平:では休憩するぞ。

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