孔明論

佐平:賈クの次は孔明だ。
福太郎:はい。
佐平:賈クは孔明と正反対だ。
福太郎:と言うと?
佐平:孔明は権謀術数のような末技は用いず、根本である道義を重視した。末節ではなく根本を大切にしたんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:『三国志』『蜀書』諸葛亮伝に陳寿の次の言葉が載っている。
諸葛亮は丞相になると、民衆を慰撫し、踏むべき道を示し、官職を少なくし、時代に合った政策に従い、まごころを開いて、公正な政治を行った。 忠義をつくし、時代に利益を与えたものは、仇であっても必ず賞を与え、法律を犯し、職務怠慢な者は、身内であっても、必ず罰した。 罪に服して反省の情をみせたものは、重罪人でも必ずゆるしてやり、いいぬけをしてごまかす者は、軽い罪でも必ず死刑にした。 善行は小さくとも必ず賞し、悪行は些細でも必ず罰した。あらゆる事柄に精通し、物事はその根源をただし、建前と事実が一致するかどうかを調べ、 うそいつわりは、歯牙にもかけなかった。かくて、領土内の人々は、みな彼を畏敬し愛した。刑罰・政治は厳格であったのに怨む者がいなかったのは、彼の心くばりが公平で、 賞罰が明確であったからである。
佐平:ここからわかるのは孔明が仲がいい人に甘くしたり仲が悪い人を冷遇したりしなかったという点だ。それよりも道義を重んじて、公平に賞罰を行った。法律を大切にし正義を行ったんだ。
福太郎:素晴らしいですね。私欲に従わず公正さを重視したんですね。
佐平:ああ。彼は法律を重視し刑罰は厳格だったが怨む者がいなかった。
福太郎:それはなぜですか。
佐平:孔明の賞罰が公平だったからだ。公平であれば罰されても怨まれないものだ。
福太郎:わかります。
佐平:『三国志』を書いた陳寿自身、陳寿の父親が孔明に罰されているが陳寿は怨んでない。それどころか孔明に心酔しているくらいだ。いかに孔明が公平だったか分かる。
福太郎:すごいですね。
佐平:『三国志』『蜀書』李厳伝に次の言葉があるぞ。
昔、管仲は伯氏の三百戸の村を没収したが、伯氏は生涯恨みがましい言葉を発しなかった。聖人である孔子もそれは難しいことだと言っている。諸葛亮はその死によって廖立に涙を流させ、李厳を死にいたらせた。ただ単に恨みがましい言葉をいわせなかったというだけではない。そもそも水は完全に平らかでありながら、傾いたものはそれを手本にし、鏡は何もかも明らかに映しながら、醜い者は腹を立てないものだ。水や鏡が物の本質を究明しながらしかも怨恨を抱かせない理由は、それらに私心がないからである。水や鏡ですら私心がなければ、人は怨んだりしないものである。ましてや大人君子が生命をいとおしむ心を抱き、憐れみと思いやりの徳を施し、用いざるを得ない場合にのみ法を行使し、自分から犯した罪にのみ刑罰を加え、私心によらずに封爵を与え、怒りによらずに処罰を行うならば、天下に服従しないものなどあろうか。諸葛亮はこういう次第で、刑罰の行使が的を射ていたといってよく、秦・漢以来絶えてなかったことである。
福太郎:なんか難しいこと言ってますね。
佐平:説明するぞ。
福太郎:管仲って誰ですか?
佐平:紀元前七世紀の春秋時代の名宰相だ。斉という国の桓公という君主に仕えて桓公を覇者にした。
福太郎:そうですか。伯氏とは?
佐平:伯氏はよく知らないが『論語』憲問篇に記載があるんだ。伯氏というひとが何か落ち度があって管仲が伯氏を罰して伯氏の村を没収したらしいんだ。しかし伯氏はその罰が道義に照らして正しかったので生涯恨みごとを一切言わなかったというんだ。管仲の刑罰が公平だったとして孔子は管仲をほめている。
福太郎:なるほど。廖立と李厳は誰ですか?
佐平:落ち度があって孔明に罰せられた人たちだ。平民に身分をおとされた。でも廖立は孔明が死んだときに嘆いたし、李厳は孔明の死を嘆いて李厳自身も死んでしまった。
福太郎:すごいですね。孔明の処罰が公平だったから二人は孔明を慕い続けたんですね。
佐平:ああ。孔明は明らかに管仲以上なんだ。単に恨みがましい言葉をいわせなかったというだけではないんだ。
福太郎:その後、水とか鏡の例が出てますが、何ですか。
佐平:昔の技術には詳しくないけど家を建てるとき土台を水平に立てなきゃいかん。
福太郎:家の土台が傾いてたら大変です。
佐平:たぶん器に水をはると水平になるから水の水平さを基準にしたんだろう。それで家を建てた。
福太郎:ええ。
佐平:水は私心がないから大工さんは水の水平さに従うんだ。
福太郎:そうですね。
佐平:鏡も私心がない。自分が鏡に不細工に映っていても誰も鏡を責めない。鏡に私心がないからだ。
福太郎:ええ。
佐平:それと同じで孔明が罰するのも、罰せられた人が間違いを犯した時だけで、仕方なく罰する。私心がない。だから孔明が厳しくても誰も怨まなかった。
福太郎:分かります。鏡と水に私心がないのと同じです。
佐平:ああ。孔明が私心ではなく法と道義に従ったから誰も怨まなかったのだ。
福太郎:ええ。
佐平:それなのに現代日本の歴史研究者によっては孔明が派閥争いに加担していたと結論する人もいる。益州出身者と荊州出身者の間に派閥争いがあったという。孔明がそんな私欲で人材登用をしていたはずがない。派閥争いは私心だ。だから派閥争いで冷遇された人は怨むはずだ。そんな話は残っていない。
福太郎:そうですね。
佐平:『危機の二十年』に次の言葉があるぞ。
平等とは不適切だと思われる理由から差別を受けることがない状態である。
福太郎:分かったような。分からんような。
佐平:続きがある。
イギリスではある人々が他の人たちよりも高い収入を得たり、より多くの税金を払うその理由は、あまり恵まれていない多くの人たちからも適切であると思われている。正しいか間違っているかはともかく。それゆえ平等の原則は侵害されていないのである。
福太郎:解説をお願いします。
佐平:平等とは言っても完全な平等はあり得ない。当然人によって地位も給料も違う。
福太郎:そうですね。
佐平:実際に不平等はある。しかし問題はその不平等が適切な理由によるのか不適切な理由によるのかなんだ。
福太郎:と言うと?
佐平:例えばオレは仕事をしているが給料は安いとしよう。
福太郎:ええ。
佐平:しかしオレは「大した仕事してないから、給料は安くてもいいか。」と思っている。
福太郎:先輩の認識が「正しいか間違っているかはともかく」ですね。
佐平:そうだ。オレが納得しているとすると、オレの給料が安いという不平等は適切な理由によることになる。
福太郎:ええ。
佐平:だから現代日本では平等の原則は基本的に侵害されていない。
福太郎:そうですね。
佐平:続きだ。
しかしもし青い目の人たちが茶色い目の人たちに比べて冷遇されているなら、あるいはハンプシャー出身者に比べてサリー出身者が冷遇されるなら、この平等の原則は侵害され、その共同体は崩壊するだろう。 多くの国で少数派は彼らが不適切と思う理由から現に差別されている。これら少数派は自分たちが共同体の一員であるとは思えなくなり、事実共同体の一員とはみなされなくなるのである。
福太郎:なんとなく分かりますが。
佐平:例えばオレが働いている会社で出身地による差別があったとしよう。
福太郎:ええ。
佐平:オレは佐賀出身だが、佐賀は、ど田舎なので佐賀出身者は全員給料20%カットするという規則があったとする。
福太郎:ええ(笑)。
佐平:するとこれは不適切な理由による不平等なので、平等の原則は侵害されているんだ。
福太郎:はい。
佐平:すると佐賀出身者はその会社の一員であるという意識が薄れていくんだ。「これら少数派は自分たちが共同体の一員であるとは思えなくなり」とある通りだ。
福太郎:分かります。
佐平:そしてその少数派は会社の一員としての行動をとらなくなり、それが原因で会社からも会社の一員と見なされなくなる。「事実共同体の一員とはみなされなくなるのである。」とある通りだ。
佐平:坂本龍馬を知っているな?
福太郎:もちろんです。
佐平:彼は土佐出身だ。高知県。
福太郎:ええ。
佐平:幕末だが、当時土佐には上士と郷士の区別があった。
福太郎:それは知りません。
佐平:土佐藩は藩主は山内家だった。
福太郎:そうですか。
佐平:戦国時代は長曾我部氏だったんだ。
福太郎:長曾我部元親は知ってます。
佐平:ああ。四国を統一した人だ。
福太郎:そうでした。
佐平:長曾我部家は関ケ原で西軍についたため家が滅んだ。
福太郎:ええ。
佐平:そして代わりに土佐に入ってきたのが関ケ原で東軍だった山内家だ。
福太郎:はい。
佐平:山内家の武士たちが上士で、元の長曾我部氏の武士たちが郷士なんだ。
福太郎:そうですか。
佐平:郷士たちは差別されていて出世ができなかった。竜馬も郷士だったんだ。
福太郎:分かった!これが「不適切な理由による不平等」ですね。
佐平:ああ。引用した通り「不適切な理由による不平等」があると、差別された側は「自分たちが共同体の一員であるとは思えなくなる」んだ。
福太郎:なるほど。
佐平:『竜馬が行く』で田中光顕という土佐郷士の言葉が引用されている。
私どもは土佐藩には複雑な気持ちを持っている。故郷と呼ぶには冷たすぎた。私など、脱藩後、新選組など幕吏の追及に生命をなまに曝されているときに親身になって庇護してくれたのは母藩の土佐ではなく長州藩だった。私の故郷は長州と言っていい。
福太郎:確かに土佐藩の一員と言う意識は薄れていますね。「不適切な理由による不平等」があるせいです。
佐平:そうだ。東洋的に言うと私心があるかないかという表現になる。郷士に対する差別は不適切な理由によるものであり、ある意味私心のようなものだ。
福太郎:ええ。
佐平:孔明の話に戻る。引用した通り「領土内の人々は、みな彼を畏敬し愛した。刑罰・政治は厳格であったのに怨む者がいなかったのは、彼の心くばりが公平で、 賞罰が明確であったからである。」とある。孔明が出身地による派閥争いに加担していたならばそれは「不適切な理由による不平等」になる。差別された側は「自分たちが共同体の一員であるとは思えなくなる」んだ。
福太郎:ええ。
佐平:しかし孔明の統治にはそのような形跡はみじんもない。
福太郎:そうですね。
佐平:孔明が派閥争いに加担していたとは考えられない。
福太郎:はい。
佐平:孔明の治世は堯舜の治のようだった。非常に国内は治まったんだ。『荀子』君子編に次の言葉がある。
元来、犯罪にかなっていれば刑罰に威厳が生まれるが、犯罪にかなっていなければ刑罰は怨まれ侮られる。また優れた者にふさわしく与えられれば爵位は尊重されるが、優れていない者に与えられれば爵位は尊敬されない。<中略>昔は刑罰は犯罪よりも重くはならず、爵位褒賞は本人の徳より上にはならず、賞においても罰においても、しっかりとした誠実さが当事者の間に通じ合っていた。 そこで善事を行う者は奨励され、悪事を働く者は阻止され、刑罰は殆ど執行されないでいて威令が水の流れるようにゆきわたり、 政令も非常に明白で不思議なほどにうまく民衆の風俗を変化させる。
佐平:この文章はまるで孔明の治世を描写しているかのようだ。
福太郎:そうですね。孔明の賞罰は私心がなく道義に基づいてます。道義に基づいて賞罰が行われれば自然と威厳と尊敬が生まれ世の中は良くなるんですね。
佐平:ああ。ノートを見返すぞ。
君主たる者が、礼儀を重視して賢者を尊重すれば王者になれる。 法律を重んじて民を愛すれば覇者になれる。 利益を好んでいつわりが多いのであれば国は危うい。 権謀術数をめぐらし陰険であれば国が亡ぶ。
福太郎:毎度おなじみですね。
佐平:「礼儀を重視して賢者を尊重する」とか「法律を重んじて民を愛する」とかはまるで孔明のことを言っているかのようだ。
福太郎:ええ。全くその通りです。
佐平:そして孔明は権謀術数を用いなかった。
福太郎:はい。
佐平:この引用では「礼儀→法律→利益→権謀術数」の根本と末節の階梯がある。孔明は「礼儀」や「法律」という根本を大切にしたんだ。賈クが「権謀術数」という末節が得意だったのと非常に対照的だ。
福太郎:対照的というのはそういう意味ですか。孔明が根本を重視し賈クは末節が得意だったんですね。
佐平:ああ。『三国志』『蜀書』諸葛亮伝の裴松之の注に「孔明は根本を備えた人物だった」と記載がある。
福太郎:なるほど。その通りですね。
佐平:前回のノートを見返すぞ。
現代語訳
君子の道は人目をひかないのに、 日に日にその真価が表れてくるが、 普通の人間の道ははっきりと人目をひきながら、 日に日に消え失せてしまう。

書下し文
君子の道は闇然として而も日々章かに、小人の道は的然として而も日々に亡ぶ。
佐平:孔明は一見当たり前の仕事しかしていない。特別なことはしていない。能力ある人を登用し、正義を重視し法律を公正に運用した。それだけ。しかし堯舜の治のような理想的な統治を行った。
福太郎:はい。
佐平:孔明の統治は一見、人目をひかないんだ。一見パッとしない。「君子の道は人目をひかないのに日に日にその真価が表れてくる」というのは孔明の治世を描写したかのようだ。
福太郎:確かに。
佐平:一見ぼんやりとしているがその効果はボディブローのようにじわじわと効いてくる。
福太郎:ええ。
佐平:『論語』学而篇に次の言葉があるぞ。
現代語訳
君子は根本を大切にする。根本が充実すれば物事は自然にうまくいく。

書下し文
君子は本を務む。本立ちて道生ず。
佐平:孔明は君子の典型だ。根本を重視した。そして根本が充実したので特別なことをしなくても物事は自然とうまくいった。堯舜の治が実現したんだ。
福太郎:根本を備えた人は一見ぼんやりとしていてもその真価は日に日に明らかになるんですね。
佐平:『言志晩録』の249を再度引用するぞ。
現代語訳
小さな知恵は目の前の問題を見事に解決するが、大きな知恵は後から効果が現れてくる。

書下し文
小智は一事に輝き、大智は後図に明らかなり。
佐平:賈クのような権謀術数が目の前の問題を見事に解決する。しかし孔明の知恵は後から効果が表れてくる。孔明が残した有形無形の遺産は国にとって非常に大きかったはずだ。
福太郎:なるほど。
佐平:『言志四録』の『言志録』百八十をもう一度引用するぞ。
現代語訳
部分的な道理をみて全体の道理を見ない。一時の利害を考慮して永久の利害を察しない。 政治をする場合にこのようであれば国は危険である。

書下し文
一物の是非を見て大体の是非を問わず。一事の利害に拘りて久遠の利害を察せず。 政を為すにかくの如きは国危うし。
福太郎:孔明の知恵は全体の道理と永久の利害を重視して、賈クの知恵は部分的な道理に適い一時の利害を考慮する知恵なんですね。
佐平:ああ。『竜馬がゆく』に次の記載があるぞ。
深山である木こりが斧をふるって大木を伐っていたとき、いつのまに来たのかサトリという異獣が背後でそれを見ている。
「何者ぞ」と聞くと、「サトリという獣に候」と言う。
あまりの珍しさにふと生け捕ってやろうと思った時、サトリは赤い口をあけて笑い、「そのほう、いまわしを生け捕ろうと思ったであろう」と言い当てた。
木こりは驚き、この獣容易に生け捕れぬ。斧で打ち殺してやろうと心中たくらむと、すかさずサトリは「そのほう、斧でわしを打ち殺そうと思うたであろう」と言った。
木こりは馬鹿らしくなり、「思うことをこうも言い当てられては詮もない。相手にならず木を伐っていよう」と心中思い斧をとりなおすと、「そのほう、いま、もはや致し方なし、木を伐っていようと思うたであろう」とあざ笑ったが、木こりはもはや相手にならずどんどん木を伐っていた。
そのうちはずみで斧の頭が柄から抜け、斧は無心に飛んで異獣の頭にあたった。頭は無残にくだけ、異獣は二言と発せずに死んだという。

剣術でいう無想剣の極意はそこにある。
この寓話はおそらく創作上手の禅僧が作った話だろうが、 神田お玉が池の千葉周作はこの話がすきで、門弟に目録や皆伝を与えるときはかならず、「剣には心妙剣と無想剣がある」と言った。周作は言う。
「心妙剣とはなにか」別名を実妙剣といい、自分が相手に加えようとする狙いがことごとくはずれぬ達人のことで、剣もここまでくれば巧者というべきである。
しかしこの剣もサトリの異獣のようにそれ以上の使い手が来れば敗れてしまう。
無想剣とは「斧の頭」なのだ。斧の頭には心がない。ただひたすらに無念無想で動く。異獣サトリは心妙剣と言うべきであり、無想剣は斧の頭なのだ。
剣の最高境地であり、ここまで達すれば百戦百勝が可能である。心妙剣は凡人の到達できる最高の位であり、 無想剣は天才の到着できる最高の位である。
佐平:心妙剣は賈クに近い。前回言っただろう。伏線になると言っていたところだ。賈クはその鋭い知性で徹底的に考えて読みはことごとく当たる。心妙剣は「自分が相手に加えようとする狙いがことごとくはずれぬ達人」とある通りだ。
福太郎:なるほど。その通りですね。
佐平:それに対して孔明だ。彼の事績を読んでも考えた跡があまりない。賈クは徹底的に考えた跡があるのだが、孔明にはそれがない。
福太郎:ええ。となると孔明は無想剣に近いんですか?
佐平:そうだ。『中庸』第十一章に次の言葉があるぞ。
現代語訳
誠を体現した人は努力しなくても自ずから考えは適中し、思慮を巡らさなくても自然と本質を得て、自然にしていても道に適う。聖人である。

書下し文
誠なる者は勉めずして中り、思わすして得て、従容として道に中る。聖人なり。
佐平:これもまるで孔明のことを言っているかのようだ。孔明には努力して考えた跡が少ない。
福太郎:実際にはいろいろ考えたんでしょうけどね。
佐平:そうだな。しかしたしかに無想剣に近いところがある。
福太郎:むむむ。
佐平:無想剣のほうが心妙剣より本質を捉えるように、「思慮を巡らさなくても自然と本質を得る」孔明のほうが、徹底的に考え適中させる賈クよりも本質を捉えているんだ。
福太郎:うーん。言っている意味は分かりますがこれは危険思想ですね。
佐平:なぜだ。
福太郎:これは凡人にはマネができません。これをマネしようとすると酷いことになりますよ。
佐平:そういう意味か。
福太郎:「心妙剣は凡人の到達できる最高の位であり、無想剣は天才の到着できる最高の位である。」とある通りですね。誰にでも到達できる境地ではないです。表面的に孔明の真似すると単に何も考えないでくのぼうになります。
佐平:そうだな。
福太郎:ええ。
佐平:老子第二十七章に次の言葉がある。
書下し文   
善く行くものは轍迹なし

現代語訳   
すぐれた行き方をする車は轍の跡を残さない

意訳     
優れた仕事をするものはその形跡が歴史には残らない
佐平:心妙剣の賈クは徹底的に考えた跡が残っている。しかし無想剣の孔明はもっと優れているためその形跡が残らないんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:梁の殷芸の「小説」に以下の有名な話がある。ノートに書くぞ。
桓温が蜀を征したとき、孔明に仕えたことのある百歳の老人がいたという。桓温「諸葛丞相は、今で言えばだれでしょうか。」桓温は自分と言ってほしかったのだろう。しかし老人は次のように言った。「諸葛公の在世中は他人と違うところに気づきませんでした。しかし公が歿せられてからは、あのような人は見たことありません。」
福太郎:桓温とは誰ですか?
佐平:孔明の100年後の人だ。100年前孔明が治めていた蜀に攻め込んだ。その時の話らしい。
福太郎:「諸葛公の在世中は他人と違うところに気づきませんでした。」と老人は言ってますね。「諸葛公」とは孔明のことですね。
佐平:ああ。「君子の道は人目をひかないのに日に日にその真価が表れてくる」という『中庸』の言葉の通り孔明の偉大さは人目をひかなかったというわけだ。老人もその偉大さに気づかなかった。
福太郎:でも「孔明亡き後は孔明ほどの人は見たことない」と老人は言ってます。
佐平:孔明の治世は根本を重視するため『中庸』にある通り、人目をひかなかったというのだ。しかし彼の政治は『中庸』にある通り日に日に真価が表れ理想的な治世をもたらした。
福太郎:はい。
佐平:我々はこの老人をバカにして笑ってはいけない。我々も「孔明は小説では超人的な知者だけど正史ではただの有能な官吏だよ。」とか言うんだ。
福太郎:ええ。聞いたことあります。
佐平:我々も根本を重視し一見当たり前を行う孔明の叡智に気づいていないのだ。正史の孔明は実は過小評価されやすいのだ。
福太郎:ええ。
佐平:昔は根本と末節と言う思想が常識だった。だから孔明の事績を読むとみな「孔明は根本を備えている」と感じた。しかし現代では根本と末節の思想が忘れられている。だから誰も孔明の偉大さに気づかないんだ。
福太郎:ええ。
佐平:「孔明は小説では超人的な知者だけど正史ではただの有能な官吏だよ。」と言われがちだが、本当は「孔明は小説ではただの権謀術数家だけど正史では聖人に近いよ。」と言うべきだ。
福太郎:なるほど。
佐平:『論語』為政篇に次の言葉があるぞ。
現代語訳
政治をするのに道徳によっていけば、北極星がその場所にいて、多くの星がその周りを巡るようなものだ。

書下し文
子曰く。政を為すに徳を以てすれば、譬えば北辰の其の所にいて、衆星之に向かうが如し。
佐平:孔明の治世も特別なことをしないのに国中の人が孔明を慕って国は正しく治まった。この『論語』の言葉を孔明にあてはめるのは少し大げさな気もするが、ある程度は当てはまっていると言える。
福太郎:確かに。
佐平:そして『論語集注』に、『論語』のこの箇所に関する注釈があるぞ。
現代語訳
政治を行うに徳をもってすれば、動かないでも教化し、言わなくとも信じられ、殊更何もしなくてもうまくいく。行うところが簡略に極みであっても、煩雑な事柄を御し、静かにしていても、多様な動きを御する。最小のことしかしなくても、多くのものを服させることができる。

書下し文
政を為すに徳を以てすれば、則ち動かずして化し、言わずして信じ、為すこと無くして成る。守る所の者至簡にして、能く煩を御し、処る所の者至静にして能く動を制し、務むる所の者至寡にして能く衆を服す。
佐平:「動かないでも教化し、言わなくとも信じられ、殊更何もしなくてもうまくいく。」は孔明の治世にもある程度当てはまっている。
福太郎:そうですね。
佐平:本来国を治めるのは非常に煩雑で複雑なはずだ。
福太郎:ええ。
佐平:しかし孔明は当り前のことを行うだけで堯舜の治のような善政を実現した。
福太郎:はい。
佐平:「行うところが簡略に極みであっても、煩雑な事柄を御す」という言葉や「最小のことしかしなくても、多くのものを服させることができる」という言葉はまるで孔明のことを言っているかのようだ。
福太郎:言われてみればそうですね。
佐平:この『論語集注』の書き下し文を読んでほしい。文章が優れている。「守る所の者至簡にして、能く煩を御し」は「簡」⇔「煩」つまり「簡略」⇔「煩雑」の対照になっている。対義語が用いられているだろう。「至静にして能く動を制し」は「静」⇔「動」つまり「静か」⇔「動き」の対照、「至寡にして能く衆を服す」は「寡」⇔「衆」つまり「少ない」⇔「多い」の対照だ。そして「簡」「静」「寡」それぞれに「至」がついている。
福太郎:たしかに。
佐平:「守る所」「至簡」「煩」「御し」。「処る所」「至静」「動」「制し」。「務むる所」「至寡」「衆」「服す」。となっている。
福太郎:中国の古典らしい表現ですね。優れています。
佐平:『老子』淳風篇に次の言葉があるぞ。
現代語訳
聖人は言う。私が無為であれば民は自ずから感化され、私が静さを好めば民は自ずから正しくなり、私が物事を行わなければ民は自ずから豊かになり、私が無欲であれば民は自ずから素朴さを保つ。

書下し文
聖人云う、我無為にして民自ずから化し、我静を好みて民自ずから正しく、我無事にして民自ずから富み、我無欲にして民自ずから朴なり。
福太郎:これも孔明のことを言っているんですね。
佐平:そうだ。孔明は特別なことをしないのに民は自ずから善良になった。特別なことをせずに堯舜の治を実現した。
福太郎:ええ。
佐平:『言志録』の二十六に次の言葉があるぞ。
現代語訳
物事を考えるには広くそして詳しく考察すべきだ。 物事を行うには容易にそして簡潔に行うべきだ。

書下し文
事を慮るには周詳ならんことを欲し、事を処するは易簡ならんことを欲す。
佐平:恐らく孔明も政策を行うに当たり広く情報を集め詳しく分析しただろう。しかし熟慮した結果、実際に政策を行う時は簡潔に分かりやすく行った。
福太郎:その可能性はありますね。
佐平:『孟子』尽心章句下に次の言葉があるぞ。
現代語訳
孟子が言った。「表現は身近でも意味が深長なのは良い言葉だ。行いは簡単でも効果が広くいきわたるのは良い行いだ。」

書下し文
孟子曰く。言近くして旨遠き者は善言なり。守り約にして施し博き者は善道なり。
福太郎:だんだん結論が見えてきました。「行いは簡単でも効果が広くいきわたるのは良い行いだ。」というのは確かに孔明の政治のようです。
佐平:そうだな。『老子』三十五章から引用するぞ。
現代語訳
道が言葉として表されると、淡々として味気がない。 これを視ようとしても見えず、 これを聴こうとしても聞こえない。 しかし道の働きはいくら用いても尽き果てない。

書下し文
道の口より出づるとき、淡として其れ味無し。 之を視れども見るに足らず、之を聴けども聞くに足らず。 之を用いれば尽くすべからず。
福太郎:これ確か以前出てきました。
佐平:そうだ。これも孔明を描写しているかのようだ。孔明の政治は淡々としていて当り前を当たり前に行う。その偉大さは「視ようとしても見えず、聴こうとしても聞こえない」。
福太郎:ええ。
佐平:しかし孔明の政治はその「働きはいくら用いても尽き果てない」。
福太郎:なるほど。
佐平:『菜根譚』に次の言葉があるぞ。
現代語訳
濃い酒や肥えた肉は本物の味ではない。本物の味はただ淡白である。 神妙不可思議な才を発揮する人は至人ではない。至人はただ尋常な人である。

書下し文
濃肥辛甘は真味にあらず、真味は只だ是れ淡なり。神奇卓異は至人にあらず、至人は只だ是れ常なり。
福太郎:これも孔明のことを言ってますね。至人は一見当たり前を当たり前に行う人。
佐平:そうだな。小説では孔明は奇計百出で特別な才能を発揮する人だ。史実の賈クに近い感じ。でも史実では当り前を当たり前に行う人だ。中国的な思想を体現した人はもしかしたら孔明のような人なのかなとも思う。
福太郎:はい。分かります。
佐平:孔明は聖人ではない。しかし知的な方面では聖人に近い人のような気がしている。 『老子』の「淡々として味気がない」や『菜根譚』の「至人はただ尋常な人である」は中国的聖人像に近いと思う。孔明はそれにある程度当てはまっている。
福太郎:ええ。
佐平:『菜根譚』からさらに引用するぞ。
現代語訳
真に巧妙な技を体得した者には巧妙な術は見られない。巧妙な術を用いる人は本当は拙劣な人である。
福太郎:これも孔明のことを言ってますね。あと思ったんですが、郷太先輩と駒男先輩のことを言っているようでもあります。郷太先輩は巧妙な術を用いず当たり前を行う王道の就職活動をしました。駒男先輩は嘘をつきとおすという巧妙な術を用いました。
佐平:ああ。その通りだ。続けて『菜根譚』から引用するぞ。
現代語訳
文章は最高の域に達すると珍しい表現があるのではなく自然な表現をするのみである。 人も最高の域に達すると特別に変わった点があるのではなく自然のままである。

書下し文
文章は極処に為し到れば、他の奇あることなく只だ是れ恰好のみ。人品は極処に為し到れば他の異あることなく、只だ是れ本然のみ。
福太郎:これも孔明ですね。
佐平:孔明の文章も名文と言われる。飾らず誠実さがあふれる文章だ。
福太郎:そうですか。
佐平:孔明の人柄も自然な人だ。
福太郎:そうですね。
佐平:シェイクスピア『ハムレット』から引用するぞ。ハムレットがとある芝居を称賛する場面だ。
科白に味をそえようと、どぎつい薬味をきかせることもなく、作者の気どりが見え見えの奇をてらった言い回しもない。こういう書きぶりこそ堅実、健やかにして快く、人工的な美しさより遥かに自然な美に富んでいる。
福太郎:分かります。自然さが人工美より優れています。ただ人工的な美もオレは好きですが。
佐平:オレも同感だ。
福太郎:ですよね。
佐平:原始仏典の『サンユッタ・ニカーヤ』に次の言葉があるぞ。
現代語訳
この道は行きがたく険しいのです。 聖者たちは行きがたき険しい道をも進んでいきます。 聖者ならざる人は険しい道において頭を下にして倒れます。 聖者の道は平らかです。聖者は険しい道においても平らかに歩むからです。
福太郎:解説しなくてもわかります。孔明のことを言っています。
佐平:『老子』第五十三章に次の言葉があるぞ。
現代語訳
正しい知恵のある人は、大きな道を行き、わき道に入り込むのを恐れる。 大道は平らかであるのに、多くの人は小道を好む。

書下し文
我をして介然として大道に知行すること有らしめば、唯施をこれ恐る。 大道は甚だ夷なるも而も民は径を好む。
福太郎:これも同じですね。自然な道理に従う人は平らかで大きい道を行く。自然な道理から離れてしまう人は小道を行き物事を難しくしてしまう。
佐平:ただ他人の権謀術数に引っかからないために権謀術数にある程度習熟している必要はあるんだ。
福太郎:権謀術数の勉強はしとけっていうことですね。
佐平:アインシュタインの言葉に次の言葉があるぞ。
解決策がシンプルなときは、神が答えている証しです。
福太郎:孔明の政治がシンプルだったのと一致しますね。
佐平:そうだな。孔明の政治は神の意思に適っていると言えるかもしれない。それと対になるアインシュタインの言葉を引用するぞ。
知的な馬鹿は、物事を複雑にする傾向があります。それとは反対の方向に進むためには、少しの才能と多くの勇気が必要です。
福太郎:なるほど。孔明の逆ですね。
佐平:そうだな。賈クのことを言っているかのようだ。物事を複雑にしてしまう。ある意味知的な馬鹿といえる。
福太郎:郷太先輩と駒男先輩も同じですね。郷太先輩は非常にシンプルに就職活動を行いました。駒男先輩は「知的な馬鹿」なのかもしれません。
佐平:その通りだな。一番悪いのは「複雑な世界を単純に捉え単純な回答を出す人」だ。
福太郎:あまり頭が良くない人ですね。
佐平:ああ。アインシュタイン的に言うと「知的ではない馬鹿」だ。
福太郎:ええ。
佐平:それよりいいのが「複雑な世界を複雑に捉え複雑な回答を出す人」だ。アインシュタインの言う「知的な馬鹿」だ。
福太郎:ええ。駒男先輩です。
佐平:一番いいのは「複雑な世界を複雑に捉えシンプルな回答を出す人」だ。
福太郎:アインシュタイン自身ですね。郷太先輩もそうです。
佐平:孔明も同じだな。続けてアインシュタインの言葉を引用する。
物心両面において質素で気取らない生活が誰にとっても望ましいのです。
佐平:孔明はその飾らない文章からしても気取らない人だった。孔明の死後、彼は財産らしい財産は何もなかったという。
福太郎:なるほど。物心両面において気取らない人だったんですね。
佐平:そうだ。『菜根譚』に次の記載がある。
現代語訳
権勢名利や豪奢華美のたぐいに近づかないように心がける者は潔白な人である。しかしそれらに近づいても、その悪習に感染しない者こそ最も潔白な人である。権謀術数のたぐいを、全く知らない者は高尚な人である。しかしそれを知っていても、自分では用いない者こそもっとも高尚な人である。

書下し文
勢利や紛華は近づかざる者を潔しとなし、これに近づきてしかも染まざる者を尤も潔しとなす。智械機巧は知らざる者を高しとなし、これを知りてしかも用いざる者を尤も高しとなす。
佐平:孔明は国のトップだった。だから権勢や豪華な生活に近づいていた。しかしその悪習に染まらなかった。
福太郎:孔明のような人がもっとも潔白なんですね。
佐平:ああ。孔明は非常に頭が良かったので権謀術数を用いようとすれば用いれたはずだ。しかし彼はあえて用いなかった。彼のような人が最も高尚な人なんだ。
福太郎:そうですね。別にいいんですけど、孔明関連の引用が多くないですか?
佐平:そこだ。それには理由がある。孔明がいかに中国思想の本流を受け継いでいるかを論証したいんだ。
福太郎:なんでですか?
佐平:孔明は法家思想を受け継いだとかなりの数の研究者に言われている。
福太郎:法家思想?
佐平:『韓非子』とかだ。
福太郎:ふ~ん。
佐平:確かに表面的に孔明に関する『三国志』の記述を読むとそうなる。そしてそれが通説だ。
福太郎:そうですか。
佐平:孔明は法律に厳格だった。そして劉備の息子の劉禅という皇帝に『韓非子』を読むように勧めている。
福太郎:なるほど。それで法家思想を受け継いだと言われるんですね。
佐平:ああ。しかしそれは表面的な解釈だ。表面的な文字面に捉われた解釈。中国思想の全体をある程度理解し、孔明の事績の本質を捉えれば、孔明は儒教を含む中国思想の本質を捉えていたという結論になるはずだ。おそらく儒教、老子、法家、兵家など中国思想の全体を大雑把に理解していた。そしてそれらを自分流に合成していたはずなんだ。その中でも恐らく儒教が中心だと思う。
福太郎:そうなんですね。
佐平:孔明は27歳まで在野で読書生活だった。その読書の仕方が書物の細部にはこだわらず大略を理解したとある。そう考えると恐らくかなり幅広く書物を読んでたはずだ。
福太郎:なるほど。そうかもしれませんね。
佐平:中国史に出てくる政治家たちのうち儒教の古典を読んでいるのはほんの一部でほとんどの人は読んでいなかったと言われている。
福太郎:そうなんですか。
佐平:中国史にそこまで詳しくないが恐らくそうだと思う。『三国志』でも劉備は読書をしなかったというし、曹操も『孫子』は読んだが儒教は読んだ節がない。
福太郎:ええ。
佐平:しかし孔明はその長い読書生活からして儒教の経典は読んでいるはずだ。それどころかその本質を体現していたと言ってもいい。そういう人物の行動や事績は儒教的な思想にもとづくから儒教の思想で解説しやすい。逆に劉備や曹操の事績は儒教での分析が孔明に比べると難しくなる。
福太郎:そうですか。
佐平:『菜根譚』から引用するぞ。
現代語訳
陰謀や奇習、風変わりな行為は、いずれも世間を渡る上での禍のたねである。 一見平々凡々の徳と行いこそが、本来のすがたを全うして、平和を招くものである。

書下し文
陰謀怪習、異行奇能は共に是れ世を渉るの禍胎なり。只だ一個の庸徳庸行のみ、則ち以て混沌を完くして和平を招くべし。
福太郎:これも孔明ですね。郷太先輩と駒男先輩でもあります。
佐平:そうだな。『近思録』に次の言葉があるぞ。
現代語訳
諸葛孔明には儒者の風格がある。

書下し文
諸葛武侯は儒者の気象有り。
佐平:さっき孔明が法家思想を受け継いだという解釈は文字面に捉われた表面的な解釈だと言った。
福太郎:ええ。
佐平:「諸葛武侯には儒者の風格がある。」という言葉は程伊川という宋代の偉大な儒者の言葉だ。
福太郎:そうですか。
佐平:程伊川のような偉大な儒者は言葉の表面にとらわれず本質を捉える。本質を捉える人は孔明が法家思想だけを受け継いだのではなく儒教を受け継いでいると喝破するはずだ。
福太郎:ええ。
佐平:『春秋左氏伝』昭公二十年から再度引用するぞ。
政治が寛大だと民は放漫になり、放漫になれば厳格によって締め直す。厳格で民が傷つけば今度は寛大によって緩める。寛大によって厳格を整え、厳格に寄って寛大を調えればそれで政治は和する。

気負わず。急がず。
剛ならず。柔ならず。
政道ゆるやかに、
百禄ここに聚まる。
福太郎:これは以前出てきましたね。
佐平:儒教には寛大と厳格でバランスをとるという思想がある。この文章はその思想を表している。
福太郎:ええ。
佐平:先に引用した孔明に関する陳寿の評だがもう一度引用する。
現代語訳
領土内の人々は、みな彼を畏敬し愛した。

書下し文
皆、之を畏れ愛した。

原文
咸畏而愛之
佐平:人々は孔明を「畏れ」そして「愛した」とある。厳格と寛大が正しく調和しているのが分かる。『春秋左氏伝』の「剛ならず。柔ならず。」はまるで孔明を描写しているかのようだ。
福太郎:ただ少し疑問があります。
佐平:何だ?
福太郎:なんか先輩の話聞いていると飾らない自然な人だけが正しいかのように聞こえます。
佐平:そうか。
福太郎:でも芸術の華やかさや論理の鋭さや思想の深遠さだって否定してはいけないと思います。
佐平:それはその通りだ。
福太郎:ですよね。
佐平:たとえて言うなら王貞治選手の一本足打法だ。
福太郎:以前何か聞きましたね。
佐平:儒教や孔明の素晴らしさを述べてきたのは例えば王選手の一本足打法を誉めるようなものだ。
福太郎:と言うと?
佐平:一本足打法の「こんな利点がありますよ」というのをどんどん列挙していくと一本足打法はそんなにいいものなのかと思うかもしれない。野球を知らない人は一本足打法だけが正しい打法だと思ってしまうかもしれない。
福太郎:ええ。
佐平:しかしだからと言って他のバッティングフォームが悪いわけではない。もちろん他にも優れたバッティングフォームはたくさんある。
福太郎:ええ。
佐平:イチローの振り子打法も優れている。王選手の一本足打法のほうが優れている側面もあるかもしれないが、逆にイチロー選手の振り子打法が優れている側面もたくさんあるだろう。
福太郎:そうでしょうね。
佐平:落合選手の神主打法にも王選手の一本足打法にない良さがある。
福太郎:ええ。
佐平:それと同じで儒教や孔明の思想の利点をたくさん列挙した。それを聞いていると儒教だけが正しいような気がするかもしれない。しかし何も儒教や孔明だけが正しいわけではない。
福太郎:そういうことか。
佐平:思想に詳しくない人は儒教だけが正しい思想だと思ってしまうかもしれない。
福太郎:そうなりますね。特に「君子は~。小人は~。」と言われると我々は自分は小人だと思いたくないですから、どうしても半分あせって儒教の思想に自分を合わせてしまいがちです。
佐平:そうだな。「君子は~。小人は~。」はあまり気にする必要はない。儒教や孔明の思想に利点があるのは事実だ。でも他にも全く趣の違う優れた思想や文化はたくさんある。他の地域や他の時代の文化に触れると儒教とは違う文化に会うこともできる。それぞれに貴重で偉大な文化なんだ。
福太郎:なるほど。別に儒教や孔明の思想に捉われる必要はないんですね。
佐平:ああ。そうだ。思想に捉らわれるのが思想の害だ。『竜馬がゆく』に次の記載があるぞ。竜馬が武市半平太という同郷の学問に秀でた人と話す場面だ。竜馬が学問をすると言いだす場面だ。竜馬は元々学問に向いておらず学問をしなかった。竜馬二十四才の時だ。
武市「さて竜馬、なんの用じゃ」
竜馬「わしはの、学問をするんじゃ。なんぞよい本はないか」
武市「ほう。竜馬が学問を」

それは結構だ、と普通なら調子を合わせるところだが、武市はそうは言わない。慎重な男である。例の長いアゴをなでながら、 「竜馬が学問をのう」と、くそまじめな眼で竜馬の顔を見た。

竜馬「不服か」
武市「いやいや、そうではない。心中、その年で学問とは、と感服しておる。しかしほどほどが良かろうな」
竜馬「なぜじゃ」
武市「お前の生まれつきの珍しさが学問で薄れるかもしれん」
竜馬「なんのことじゃ」

竜馬には分からない。
半平太の普通人でないところは、学問の害も見抜いていた。せっかく型破りにうまれついてきた竜馬が腐れ学問でただの人間になってしまうのは惜しいと思ったのである。「やるもよいが、ほどほどにすることだ」と言った。
佐平:独創的で型破りな竜馬が、学問に捉らわれることで、きれいに整形されて普通の人間になってしまうのを武市半平太は恐れたんだ。
福太郎:なるほど。学問に捉らわれるくらいなら学問をしないというのもひとつの選択なんですね。
佐平:ああ。学問から学べるところは学んで、自分の個性が消されるようなら距離をとるのがいい。
福太郎:先輩は儒教を学んでますが儒教に捉われないのをモットーにしてますね。何かきっかけがあったんですか。
佐平:オレは儒教をする前に7年ほど西洋思想を勉強していた。最初に出会った偉大な思想は儒教ではないんだ。だからどんな偉大な思想にも一長一短あると知っている。
福太郎:そういうことか。
佐平:花が咲き乱れる華やかな春のような思想。緑が濃くエネルギーにあふれる夏のような思想、緑が散って実がなる生産的な秋のような思想、無駄なものが全てなくなり本質だけが残った冬のような思想。どれも大切だ。冬の思想は「花や緑は本当は本質的ではなかったのだ」と主張するしそれは当たっている。でも春のような華やかな思想や夏のようなエネルギーにあふれた思想も同じくらい大切なんだ。何も枯淡な思想だけが正しいのではない。
福太郎:分かります。
佐平:他人からオレのことを儒者だと言われればうれしい。しかし儒者かというと半分儒者のつもりだが半分は儒者ではないつもりだ。ひとつは儒者と言うほど人間ができていない。だから儒者を自称してはいけない。もうひとつは儒教を尊敬しているが信奉していない。儒教に捉われるつもりがない。儒者である前に思想家のつもりなんだ。自称思想家だ。
福太郎:そうですか。
佐平:大学時代よく言われたのが、「カントを読めない学生はダメな学生かもしれない。しかしカントしか読めない学生はもっとダメな学生である。」という言葉だ。オレは儒教だけを読むという人間ではない。儒教に捉われる気は全くないんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:大学時代の授業でも一限は日本中世の仏教文学についてみなで議論し、二限は古代ギリシャ語の授業。三限はガチガチの科学主義者による現代英米哲学を学び、四限はキリスト教神秘主義の講義を受ける。五限はカントをドイツ語で読まされると言った調子だった。
福太郎:すごい不協和音ですね。絶対相互に矛盾します。
佐平:ああ。道路でいえば八差路の交差点のようなもので四方八方から色んな車が来るようなものだ。一見矛盾する思想たちがオレの頭の中で交通事故を起こす。
福太郎:ええ。
佐平:しかしそのうち自然と交通整理ができるようになった。いろんな思想があるがそれぞれに理由がある。一長一短あると分かるようになった。野球でいえばいろんなバッティングフォームがあるのと一緒だ。そんな勉強のやり方を5年も続けていた。しかもガチで勉強していた。
福太郎:5年?1年留年してますよ。
佐平:やかましい。別にいいんだ。
福太郎:はい(笑)。
佐平:儒教を学び始めたのは大学を中退した後だ。今でもよく覚えている。25の時だ。『大学』『中庸』を読んで深く感動した。それから儒教を読むようになった。
福太郎:要は儒教が初恋の相手ではないんですね。でも先輩って設定上は大学1年生でしたよね。
佐平:設定上は忘れてくれ。
福太郎:分かりました(笑)。
佐平:孔明の話に戻るぞ。
福太郎:孔明はその偉大さが気づかれにくいんでしたね。
佐平:そうだ。公田連太郎著『易経講話』第一巻292ページに次の記載があるぞ。
名臣であり賢相であるという名誉もなく無能に見えるのが宜しい。賢明なる大臣である。傑出した偉人であるという名誉が無いのが、本当に傑出したる偉人である。人の眼に見える赫赫たる功績を立てた人も、もとより偉人であるけれども、どこが偉いか分からぬ人が、一層偉大なる人傑である。これが坤の卦の道である。
福太郎:どういう意味ですか?
佐平:「どこが偉いか分からぬ人が、一層偉大なる人傑である。」とあるだろう。これが孔明にある程度当てはまっている。
福太郎:そうですね。
佐平:物事には陰と陽がある。
福太郎:陰陽ですね。陰が消極的側面。陽が積極的側面。
佐平:そうだ。「人の眼に見える赫赫たる功績を立てた人」は「陽」の偉人だ。積極的な功績を立てる。
福太郎:ええ。
佐平:「どこが偉いか分からぬ人」は「陰」の偉人だ。人の眼につかない方法で功績を立てる。
福太郎:なるほど。
佐平:陽の偉人も陰の偉人もどちらも同じくらい偉大だ。公田氏が「どこが偉いか分からぬ人が、一層偉大なる人傑である。」と言って「陰」の偉人をいっそう評価しているのは、普通は「陽」の「人の眼に見える赫赫たる功績を立てた人」のほうを評価しやすいのでバランスをとるために、敢えて「陰」の偉人を高く評価したのかもしれない。
福太郎:ええ。分かります。
佐平:人間は陰と陽の両方を持っているだろう。
福太郎:そうですね。大体どっちかに偏ってますけど。乱暴に言うとインドア派は陰でアウトドア派は陽でしょうか。
佐平:普通は陰対陽は「5:5」とか「6:4」「4:6」とか。「3:7」「7:3」くらいまでは多い。でも「9:1」「1:9」は滅多にいない。老子はたぶん「10:0」だがこれは例外でかなり極端だと思う。
福太郎:ええ。孔明はどうですか?
佐平:分からないが多分陰対陽は「6:4」だと思う。彼は赫赫たる功績を立てている。一文無しの劉備を三国の一角に押し上げた。だから陽である積極的な功績をあげている。中国では知者と言えば孔明を指すくらいだ。
福太郎:そうですね。
佐平:しかし彼は「どこが偉いか分からぬ人」でもある。消極的な功績も持つ。消極的なので功績を気づかれない。すでに述べた通りだ。
福太郎:確かに。「無為自然」を「さかしらな作為をせずに自然に任せる」という意味とすれば孔明はその通りの人です。
佐平:陰対陽が「5:5」の人がいるとしよう。その人は自分の中に陰と陽を見出す。そして自分の個性を活かせれば、自分の中の陽を用いて積極的な功績を立てて、自分の中の陰を用いて消極的な功績を立てる。
福太郎:ええ。
佐平:『大学』に次の言葉がある。
現代語訳
自分の意を誠にするというのは、自分に嘘をつかないことである。

書下し文
その意を誠にすとは自ら欺く無きなり。
福太郎:これは以前も出てきましたね。
佐平:我々も「自分に正直に」とよく言う。この『大学』の言葉はそういう意味だ。ただ「自分の個性に正直に」という意味でもある。
福太郎:わかった!陰対陽が「5:5」の人は「5:5」であることがその人の個性だから、その個性に忠実になるということですね。
佐平:そうだ。自分の個性を殺さず生かすんだ。
福太郎:孔明は積極的な功績をあげ、消極的な功績もあげてます。自分の個性を生かしたんでしょうか。
佐平:そうだな。そう思う。
福太郎:孔明は至誠の人ですね。自分に対しても正直だ。
佐平:ほとんどの人は陰陽をあわせ持つ。だから自分の個性を活かす偉大な人は「赫赫足る功績」と「どこが偉いかわからない功績」の両方を残すはずだ。
福太郎:確かに孔明はそうなっています。
佐平:ああ。例えば論理展開がうまい思想書を読むと「なるほど。その通りだなあ。でも何か自分の直観と合わないんだよな。」ということがあるだろう。
福太郎:ありますね。
佐平:それは著者と自分の個性が違うからという場合がある。
福太郎:そうか。
佐平:老子は陰対陽が「10:0」だ。オレは「6:4」。オレの中に「6」の陰がある。だから老子に共感する。しかしオレの中に「4」の陽がある。それが「老子は間違えてるぞ」とささやく。
福太郎:なるほど(笑)。
佐平:そしてオレはブログで「老子は偉大だが極端だ」とコメントする。オレの中の陰が「老子は偉大だ」と言う。オレの中の陽が「老子は極端だ」と言う。
福太郎:ええ。
佐平:それは老子が悪いわけではない。オレが生意気なわけでもない。個性が違うんだ。
福太郎:そうか。
佐平:思想には正しい思想と間違えた思想はある。確かにある。これは正しい、これは間違い、と決着がつくこともある。確かにある。でも正しいとか間違いだ、とかで片付かず、結局個性としか言えない部分はある程度残る。
福太郎:ええ。
佐平:どこで線引きすべきかはまだ自分の中で結論が出ていない。
福太郎:そうですか。それで歯切れが悪いんですね。
佐平:では休憩するぞ。

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