根本と末節の具体例5

佐平:『大学』からさらに引用するぞ。
現代語訳
いにしえの時代に自らの聖人の徳を天下に明らかにしようとした人は、まず自分の国を治めた。自分の国を治めようとしたひとは、まず自分の家を和合させた。自分の家を和合させようとした人は、わが身を修めた。わが身を修めようとした人は、まず自分の心を正しくした。自分の心を正しくしようとした人は、自分の意を誠にした。 意が誠になってこそはじめて心が正しくなる。心が正しくなってこそ、はじめてその身が修まる。その身が修まってこそはじめて家が和合する。家が和合してはじめて国が治まる。国が治まってはじめて天下が平らかになる。

書下し文
古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉う。その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。意誠にして後、心正し。心正しくして後、身修まる。身修まりて後、家斉う。家斉いて後、国治まる。国治まりて後、天下平らかなり。
福太郎:なんすか?これ?
佐平:これも帝王学だ。
福太郎:さっきのとは違うんですか?
佐平:これも帝王になる人がたどる順番だがさっきのとは違う角度から書いてある。
福太郎:冒頭の「いにしえの時代に自らの聖人の徳を天下に明らかにしようとした人は、まず自分の国を治めた。」って何ですか?
佐平:「自らの聖人の徳を天下に明らかにしようとした人」というのは「自分自身の徳で天下に太平をもたらそうとした人」を指す。
福太郎:はあ。
佐平:そういう人は天下を太平にする前に自分の国を治めた。
福太郎:まあ、そうでしょうね。素人考えでも自分の国を治められない人には天下を太平には出来ません。
佐平:そうだな。そして「自分の国を治めようとしたひとは、まず自分の家を和合させた。」と続く。
福太郎:国を治めるのは、自分の家を和合させられない人には無理でしょうね。だから言っている内容はわかります。
佐平:そして「自分の家を和合させようとした人は、わが身を修めた。」と続く。
福太郎:「わが身を修めた」って何ですか?
佐平:「修身」って聞いたことないか?「身を修める」という意味だが。
福太郎:聞いたことありますが、なんか古臭いイメージしかないですね。
佐平:そうだろうな。「わが身を修める」というのは本来は「自分の道徳を修養する」という意味だ。
福太郎:ふ~ん。まあ確かに自分の道徳ができてないと家を和合できないでしょうね。
佐平:「わが身を修めようとした人は、まず自分の心を正しくした。」と続く。
福太郎:「自分の心を正しくした」か。ここは当たり前な感じしますね。
佐平:そうだな。じゃあ次に行くぞ。「自分の心を正しくしようとした人は、自分の意を誠にした。」と続く。
福太郎:「自分の意を誠にする」ってどういう意味ですか?
佐平:『大学』にその解説がある。ノートに書くぞ。
現代語訳
自分の意を誠にするというのは、自分に嘘をつかないことである。

書下し文
その意を誠にすとは自ら欺く無きなり。
佐平:「自分の意を誠にする」=「誠意」とは自分に嘘をつかないことだ。自分に正直であることだ。
福太郎:誠意っていうと他人に対して誠実であることじゃないんですか?
佐平:もちろんそれもある。しかしその前にそれ以上にまず自分に嘘をつかないことを儒教は重視する。
福太郎:儒教っていうと道徳を押しつけがましく押し付けてくるイメージがあるんですが、必ずしもそうではないんですね。
佐平:自分に正直であることが儒教的な修行の出発点だ。
福太郎:でも儒教では「無私」とも言いますよね。「無私」って考えようによってはとても非人間的な感じもします。自分を押し殺すような感じがする。自分に正直であることと矛盾しないですか?
佐平:「自分の意を誠にする」というのは、現代の言葉で言えば自分自身の良心に従うことだ。
福太郎:なるほど。でも聞き飽きた言葉ですね。
佐平:聞き飽きた言葉だからと言ってそれが正しくない言葉というわけではない。
福太郎:まあそうですが。
佐平:おまえには良心はあるな?
福太郎:あります。
佐平:おまえには欲望はあるな?
福太郎:あります。
佐平:もちろん自分の中には欲望もある。それがあるのは仕方ない。欲望を必ずしも押さえつけたりはしない。誰しも自分の中に良心と欲望の両方を見出すだろう。そして実際に何か行動する時、自分の内に欲望はあるがそれには従わず、自分の良心のほうに従って行動する。
福太郎:「誠意」と「無私」の関係はどうなりますか?
佐平:自分の良心に正直に従うのが「誠意」だ。「誠意」は自分の良心に正直であることだ。そして自分には欲望はあるし、それを押さえつけるわけでもないが、でも実際に行動する時にその欲望に従わないのが「無私」だ。
福太郎:「誠意」は自分の良心に従うこと。「無私」は自分の欲望に従わないこと。そう考えると「誠意」と「無私」は矛盾しないのか。
佐平:そうだ。
福太郎:欲望に走るのは私利私欲ですね。
佐平:そうだな。
福太郎:でも完全に欲を否定するのもどうかと思うな。自分も将来的にお金も地位も欲しいですからね。
佐平:例えば医者を志望している学生がいたとする。医学を修めたいというのは彼の良心だろう。そして努力して医学を修めてその結果お金や地位がついてくる。これは立派な志だ。「無私」とは言っても仙人になれと言っているのではない。
福太郎:正しい方法で手に入れるのはいいんですね。
佐平:もちろんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:そして私利私欲に従うより良心に従うほうが最終的に本当の意味で自分のためになる。
福太郎:そうですか?
佐平:欲望に従うと一時的な快楽を得るが最終的に自分のためにならないんだ。
福太郎:あまりピンときませんが。
佐平:欲望に従っても最初のうちはたいして悪い影響はないんだ。欲望も満たされて一見より良いようだ。
福太郎:ええ。
佐平:それを何年も続けると徐々に良心は失われていき心は枯れて濁ってきて、気づいた時にはもう遅く寒々とした人生を送るようになる。元に戻れなくなる。
福太郎:あ!でもそういう人たまに見かけますね。地位が高い人でもたまにいます。
佐平:昔チェッカーズというグループの『ジュリアに傷心』という曲があったろう。
福太郎:知ってます。
佐平:「俺たち都会で大事な何かを失くしちまったね」という歌詞があった。これだ。
福太郎:なるほど。
佐平:昔チューブというグループがあった。
福太郎:知ってます。
佐平:『ガラスのメモリーズ』という曲に「二度とはほどけないの。ねじれた純情。」という歌詞があった。あれだ。
福太郎:別にいいですけど例が古いっすね。
佐平:昔の曲しか知らないからな。最近の曲を聴いてないとこういう時に適切な例を出せない。反省すべき点か・・。
福太郎:そんなのはいいですから。
佐平:欲望に従っても最初のうちはすぐには心は枯れたりしない。ここが面白い。だから欲望に従うと心の豊かさを保ったまま欲望も満たせる。多くの人はその道を選ぶ。
福太郎:何か分かるなあ。
佐平:しかし欲望に従い続けるとだんだん心が枯れてくる。そして元に戻れなくなるのだ。
福太郎:そうかあ。なるほど。
佐平:すぐには心が濁らない点が、神の老獪さ、天の老獪さを示している。
福太郎:そう考えるのも可能ですね。
佐平:さっき『ガラスのメモリーズ』について述べたな。せっかくだから歌詞を解説する。前田亘輝作詞だ。


ガラスのメモリーズ

昔見た青空 照りつける太陽
心にもプリズム 輝いた季節

今となりゃ 想い出 美しくにじんで
戻りたい 帰れない 素直になれない

恋して焦がれて あなたに一途だった あの頃
二度とはほどけないの ねじれた純情
見つめているだけで この胸いつもふるえていた
今でも好きよキラキラ ガラスのメモリーズ

愛さえも演じて 心まで化粧して
強がって失くした 大切な人

写真なら今でも 仲のいい二人ね
振り向いた笑顔が 魅力的だった

飛び散る 光に 何もかもまぶしかったあの頃
割れたらもどせないの こわれた純愛
もう一度あなたがきつく抱きしめてくれたなら
枯れてた涙キラキラ あふれてくるでしょう

佐平:この歌詞では心が濁ってないときの感動があったころの描写がでてくる。
福太郎:ありますね。「恋して焦がれて あなたに一途だった あの頃」とか「見つめているだけで この胸いつもふるえていた」とか「飛び散る 光に 何もかもまぶしかったあの頃」とかですね。
佐平:ああ。
福太郎:「飛び散る 光に 何もかもまぶしかったあの頃」なんて感動のある人生だとよく伝わってきます。いい歌詞ですね。「見つめているだけで この胸いつもふるえていた」も感動が伝わります。
佐平:そうだろう。しかしその豊かな感動はだんだん薄れていく。その原因が次だ。「愛さえも演じて 心まで化粧して 強がって失くした 大切な人」だ。
福太郎:確かにこれは『大学』の「自分の意を誠にするというのは、自分に嘘をつかないことである。」に反してますね。「愛さえも演じて 心まで化粧して」はけっこうつらい言葉ですね。自分自身に対しても嘘をついている。
佐平:だな。自分に嘘をつくと本当に自分が何を求めているかが分からなくなる。心は濁る。そして失った豊かな感情はもう戻らない。
福太郎:確かに。「戻りたい 帰れない 素直になれない」とか「二度とはほどけないの ねじれた純情<」とか「割れたらもどせないの こわれた純愛」ですね。元に戻れないのを嘆いています。
佐平:そうだな。ただ「もう一度あなたがきつく抱きしめてくれたなら 枯れてた涙キラキラ あふれてくるでしょう」ともある。基本的には戻れないが、だが望みを捨ててはいけない。完全には戻れなくても少しは戻るかもしれない。「枯れてた涙キラキラ あふれてくる」可能性はゼロではない。
福太郎:なるほど。
佐平:冒頭の「昔見た青空 照りつける太陽 心にもプリズム 輝いた季節」はもちろん感動のあった昔のことを指している。当時は心に青空があり太陽があり心がプリズムのように輝いていた。
福太郎:ええ。続く「今となりゃ 想い出 美しくにじんで 戻りたい 帰れない 素直になれない」は、豊かな心を失った現在ですね。
佐平:ああ。「芸術家は金がなくても貧乏ではない」と言う。芸術家は感動する豊かな心を大人になっても失わない。いやそれどころか子供の頃より豊かな心を持つ。だから金がなくても身近な自然や芸術から大きな感動を得る。だから貧乏ではない。しかし欲に走った結果、豊かな心を失った人は感動する心をなくしているから、金があっても貧乏なのだ。
福太郎:分かります。
佐平:アインシュタインの言葉を引用するぞ。
わたしたちが体験しうる最も美しいものとは神秘です。
これが真の芸術と科学の源となります。
これを知らず、もはや不思議に思ったり、驚きを感じたりできなくなった者は、 死んだも同然です。
福太郎:これも同じことを言ってますね。アインシュタインは豊かな心を失わない人のようです。欲に走って豊かな心を失った人は感動を忘れてしまい死んだも同然になる。
佐平:そうだな。アインシュタインは人生の途中から有名になったので金持ちになっただろう。でも金がない時から豊かな感情を持っていたんだ。だから金がない時代も彼は貧乏ではなかったはずだ。さらに引用するぞ。
生き方には2通りしかありません。
奇跡はどこにもないという生き方とすべてが奇跡だという生き方です。
福太郎:なるほど。アインシュタインにとってはすべてが奇跡なんですね。
佐平:ああ。さらに引用するぞ。
わたしたちは好奇心に満ちた子供のようになってしまう。この偉大なる神秘、わたしたちが生まれてきたこの世界の前では。
佐平:こどもは感動する心を持っている。しかし普通はだんだん大人になるにつれ感動する心を失っていく。でもアインシュタインは大人になっても感動する心を持ち続ける。これがアインシュタインが天才たる本質だ。
福太郎:そうなんですか?
佐平:次のアインシュタインの言葉がある。
わたしには特殊な才能はない。ただ熱狂的な好奇心があるだけだ。
福太郎:たしかにこの言葉から察すると感動する心がアインシュタインの天才たるゆえんかもしれませんね。
佐平:ユーミンの『やさしさに包まれたなら』の歌詞も引用するぞ。名アルバムのひとつ『ミスリム』からだ。


やさしさに包まれたなら

小さい頃は神様がいて
不思議に夢をかなえてくれた
優しい気持ちで目覚めた朝は
大人になっても奇跡は起こるよ

カーテンを開いて静かな木漏れ日の
やさしさに包まれたなら きっと
目に映る全てのことはメッセージ

小さい頃は神様がいて
毎日愛を届けてくれた
心の奥にしまい忘れた
大切な箱開くときは今

雨上がりの庭でくちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目に映るすべてのことはメッセージ

佐平:小さい頃はみな純粋で感動する心を持っている。
福太郎:「小さい頃は神様がいて」ですね。
佐平:ああ。もちろん直接神様と会話するわけではない。しかし子供はある意味神様に近いのかもしれない。
福太郎:そう言えなくもないですね。感動する心を持っているという点ではそうです。精神的に成熟した大人が子供の心を忘れないのは大抵好感が持てます。子供から成長してない人はヤバいですが。
佐平:ああ。子供は感動する心を持っている。「不思議に夢をかなえてくれた」「毎日愛を届けてくれた」とある通りだ。必ずしも大げさな表現ではないかもしれない。
福太郎:ええ。
佐平:大人になると感動する心は薄れていく。しかしユーミンは「大人になっても奇跡は起こるよ」と言っている。
福太郎:そうですね。
佐平:「目に映るすべてのことはメッセージ」と言う歌詞が素晴らしい。アインシュタインの言う「すべてが奇跡だ」と言うのはこの歌詞と同じことを言っている。目に映るすべてのことに神秘と意味を見出す。メッセージなんだ。
福太郎:すごいですね。我々には難しい。
佐平:そうだな。でも我々でも感動する豊かな心をそれなりに持ち続けることはできる。
福太郎:ええ。
佐平:アインシュタインの言う奇跡と同じことをプラトンやアリストテレスも言っている。哲学の始まりは「驚き」にあるという。プラトン『テアイテトス』から引用するぞ。
実にその驚異の情こそ知恵を愛し求める者の情なのだからね。つまり、哲学の始まりはこれよりほかにはないのだ。
福太郎:我々が自然からインスピレーションを感じたりするのも「驚き」でしょうね。
佐平:そうだ。この「驚き」が哲学の最初であり初心だ。これがないと哲学をしても他人の哲学をなぞるだけになる。自分自身の哲学を紡げない。
福太郎:そうか。
佐平:アリストテレス『形而上学』から引用するぞ。
驚異することによって人間は、今日でもそうであるがあの最初の場合にもあのように、知恵を愛求し始めたのである。
佐平:「哲学は驚きだ」というのは哲学科の1年生が最初の授業で習う陳腐な常套句とされている。しかし陳腐になるほど常に言われ続けるのは、本来深い意味があるからだ。アインシュタインの「全てが奇跡」という言葉はプラトンとアリストテレスの見解と一致している。
福太郎:ええ。
佐平:他の所でも引用したがギリシャの諺を書いておく。
賢者においては金は善き召使だが、
愚者においては冷酷な主人である。
佐平:豊かな心を持ち続ける人は自分の人生を本当の意味で豊かにするために金を使う。金が手段なので「召使」であり、金で自分の人生を本当の意味で豊かにするので「善き」召使だ。
福太郎:ええ。
佐平:豊かな心を失った人は金を目的とする。だから金が「主人」だ。そういう人は寒々とした人生を送るので「冷酷な」主人だ。
福太郎:分かります。
佐平:『大学』に次の言葉がある。
現代語訳
仁者は財産によって自分を高めるが、不仁者は自分を犠牲にして財産を増やす。

書下し文
仁者は財をもって身を発し、不仁者は身をもって財を発す。
佐平:「発す」は「おこす」と読む。
福太郎:これもさっきと同じこと言ってますね。
佐平:ああ。話は元に戻る。続きだ。『中庸』から引用するぞ。ノートに書いておくぞ。
現代語訳
孔子が言われた。「道は人から遠いものではない。道と言われていながら人から遠いのであれば、そもそもそれは道とは呼べないのだ。」

書下し文
子曰く。道は人に遠からず。人の道を為して人に遠きは以て道と為すべからず。
佐平:さらに『中庸』から引用するぞ。
現代語訳
道というものはかた時も人から離れないものである。離れてしまうものはそもそも道ではないのである。

書下し文
道なる者は須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。
福太郎:どういう意味ですか?
佐平:おまえは道徳と言うのは他人から押し付けられるものだと思っているだろう?
福太郎:そういう面もありますね。
佐平:しかし「本当の意味で自分のためになることは何か」を考えると自然と道徳に従うようになるんだ。
福太郎:分からなくはないです。
佐平:押し付けられた道徳は他人から強制されている間はそれに従うが、独りになると道徳は自分から離れてしまう。
福太郎:そうですね。
佐平:でも「一時的に自分のためになることではなく、本当の意味で自分のためになることは何か」を考えるとひとりの時も道徳は自分から離れなくなる。離れてしまうものはそもそも道とは言えないのだ。
福太郎:ええ。
佐平:道徳的に正しくない人は道徳的に劣っているというよりも知的に劣っているのだ、と言われることがある。
福太郎:と言うと?
佐平:そういう人は「本当の意味で自分のためになること」を理解していないからだ。「表面的に自分のためになること」を追求している。だからある意味知的に劣っているのだと言えるかもしれない。
福太郎:一理ありますね。
佐平:『危機の二十年』から引用するぞ。
すべての国家は平和に共通の利益を持っている。従って平和を阻もうとする国家は愚かであるか不道徳である。
佐平:戦争になれば当事者の国はすべて損害を被る。だからすべての国家は平和を利益とする。共通利益だ。その平和を壊そうとする国は愚かであるかもしくは不道徳なのだと言う。
福太郎:一理ある考えです。そういう国もありますが。
佐平:国家だけでなく個人においても同様に、西洋では道徳に従わない人は不道徳か愚かであるかいずれかだと言う。
福太郎:分からんではないです。
佐平:『論語』里仁篇から引用するぞ。
現代語訳
仁の人は仁であるのが心地よいのであり 智の人は仁を優れていると考える。

書下し文
仁者は仁に安んじ智者は仁を利とす。
佐平:仁の人は仁である状態が心地よい。その状態が心地よいと言うのはその人の素だ。仁を楽しんでいる人は本当に仁なのだ。『論語集注』為政篇から引用するぞ。
現代語訳
動機が善であっても心からこれを楽しんでいなければまだ本物ではない。どうして長い間変わらずにいられようか。

書下し文
由る所善なりと雖も心の楽しむ所の者、ここに在らざれば則ちまた偽のみ。豈に能く久しくして変わらざらんや。
福太郎:「仁であるのが心地よい」人は「心から仁を楽しんでい」るんですね。だから「長い間変わらずに」仁であり続ける。たとえその行いと動機が善であっても楽しんでいないと本物ではない。レベルが高すぎて我々には難しいですね。
佐平:そうだ。「智の人は仁を優れていると考える。」とあったな。智の人は仁を楽しむというところまでは到達しない。しかしそれでも道徳に従う事が本当の意味で自分のためになると考える。これも行うのは大変だが我々でも目標にすることは可能だ。
福太郎:なるほど。
佐平:同じく『論語』里仁篇から引用するぞ。
現代語訳
孔子が言われた。仁を拠り所にするのが素晴らしい。仁を拠り所として択ばないならばどうして知と言えようか。

書下し文
子曰く、仁に居るを美となす。択びて仁に拠らずんば焉んぞ知たるを得ん。
佐平:知の人は仁を優れていると考える。だから道徳に従う。道徳を選ばない人はそもそも知者ではないと言うんだ。
福太郎:ええ。
佐平:「知の人は仁を優れていると考える。」というのは二重の意味がある。一つは自分自身が生きていくうえで道徳に従うという意味。もう一つは仁を備えた他人を優れていると考えその人を助けようとするという意味。
福太郎:自分と他人の両方において仁を優れていると考えるんですね。
佐平:ああ。
現代語訳
君子はまず徳を充実させる。徳があれば自然に有能な人々が帰服し、有能な人々が帰服すれば領地が得られる。領地が得られれば財物が豊かになり、財物が豊かになれば大業が起こる。徳が根本であり、財物は末節である。

書下し文
君子は先ず徳を慎む。徳あれば此に人あり、人あれば此に土あり、土あれば此に財あり、財あれば此に用あり。徳は本なり、財は末なり。
佐平:「徳があれば自然に有能な人々が帰服」するというのは多くの有能な智者たちは徳ある人を優れていると考え助けようとするからだ。荀彧、荀攸、程昱、劉曄たち智者が曹操を助けて天下に平和をもたらそうとしたのを言うんだ。
福太郎:なるほど。荀彧たちは他人である曹操の仁を優れていると評価したんですね。
佐平:これら『論語』の言葉はさっきの『危機の二十年』の言葉を逆から述べている。
福太郎:と言うと?
佐平:『危機の二十年』では道徳に従わないのはその人が不道徳かもしくは愚かかのいずれかだと言った。『論語』では道徳に従うのはその人が道徳的かもしくは智恵があるかのいずれかと言っている。
福太郎:確かに同じことを逆から述べてますね。『危機の二十年』では「道徳に従わない場合」だから消極的側面から述べてます。『論語』は「道徳に従う場合」だから積極的側面から述べてますね。同じ内容です。東洋と西洋で考えが一致する場合はけっこうあるんですね。
佐平:ああ。『自己愛とエゴイズム』という本が講談社現代新書にある。現在は絶版だ。
福太郎:そうですか。
佐平:キリスト教の神父さんが書いた本だ。キリスト教の道徳を「神」の概念なしで書いた本だ。
福太郎:そうなんですね。
佐平:良心とは何かを非常に分かりやすく書いてある。
福太郎:ふ~ん。キリスト教の本なんですね。
佐平:そうと言えばそうだが、この本の考え方は全ての宗教や思想に共通する基本的な考えだ。儒教の考えとも一致する。仏教、イスラム教の考えとも共通する。基本と言ってもレベルが低いという意味ではない。基本と言うのはこの本に関しては重要と言う意味だ。
福太郎:お薦めですか?
佐平:そうだ。これほどわかりやすく書くのは難しい。オレには無理だ。だから推薦するんだ。この本では「奥深い自己」に忠実であることを勧めている。「表面的な自己」ではなく奥深い「良心」に従うという意味だ。
福太郎:なるほど。
佐平:普通哲学をよく知らない人が哲学に期待するのは、科学哲学でも法哲学でもなく、政治哲学でも難解な弁証法でもない。期待するのは人生哲学だろう。この本は人生哲学を分かりやすく解説してくれる。
福太郎:なるほど。でも話が飛びませんでしたか?何の話してましたっけ。
佐平:話を戻そう。
現代語訳
いにしえの時代に自らの聖人の徳を天下に明らかにしようとした人は、まず自分の国を治めた。自分の国を治めようとしたひとは、まず自分の家を和合させた。自分の家を和合させようとした人は、わが身を修めた。わが身を修めようとした人は、まず自分の心を正しくした。自分の心を正しくしようとした人は、自分の意を誠にした。 意が誠になってこそはじめて心が正しくなる。心が正しくなってこそ、はじめてその身が修まる。その身が修まってこそはじめて家が和合する。家が和合してはじめて国が治まる。国が治まってはじめて天下が平らかになる。

書下し文
古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉う。その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。意誠にして後、心正し。心正しくして後、身修まる。身修まりて後、家斉う。家斉いて後、国治まる。国治まりて後、天下平らかなり。
佐平:「誠意」の話をしていたら長くなったんだったな。後半の解説をするぞ。後半は前半の流れを逆から述べている。
福太郎:はい。
佐平:「意が誠になってこそはじめて心が正しくなる。」とある。そして「心が正しくなってこそ、はじめてその身が修まる。」と続く。
福太郎:さっきの「自分に正直であること」が「道徳を修養すること」の始めと言ってましたね。
佐平:そうだ。「誠意」→「修身」の順番だ。
福太郎:ええ。
佐平:続きは「その身が修まってこそはじめて家が和合する。」となる。
福太郎:分かります。
佐平:そして「家が和合してはじめて国が治まる。国が治まってはじめて天下が平らかになる。」で終わりだ。
福太郎:これが帝王が修行をする段階から天下を太平に導く段階までの過程ですか。
佐平:そうだ。「誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」となる。
福太郎:「正心」って何ですか?
佐平:心を正しくすることだ。
福太郎:「斉家」って何ですか?
佐平:家を和合させることだ。
福太郎:治国は?
佐平:国を治めること。
福太郎:平天下は?
佐平:天下を太平にすること。
福太郎:ふ~ん。
佐平:「誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」は身近なことから始めて徐々にスケールが大きい物事に移行している。
福太郎:そうですね。
佐平:『中庸』に次の言葉があるぞ。ノートに書いておく。
現代語訳
君子が道を行うのは、例えば遠くに行くのに近くから始めるようなものであり、高いところに登るのに低いところから始めるようなものである。

書下し文
君子の道は例えば遠きに行くに必ず近きよりするが如く、例えば高きに登るに必ず低きよりするが如し。
福太郎:なるほど。「誠意→正心→修身→家斉→治国→平天下」は自分自身という近いところから始めて天下という遠くに行っている感じしますね。ある意味無理が無くて合理的なのかな。
佐平:そうだ。東洋的な合理性だ。さらにノートを見返すぞ。これは覚えているか?
現代語訳
物事には根本と末節があり、事柄には最初に生じることと最後に生じることがある。何が先であり何が後であるかを知れば、道を知ったのに近い。

書下し文

物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。
福太郎:これはさすがにもう覚えましたね。
佐平:この言葉を「誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」に当てはめると?
福太郎:当然「誠意」が「先」で「最初に生じること」です。「正心」「修身」「斉家」「治国」と続いて「平天下」が「最後に生じること」ですね。「誠意」=「自分に正直であること」が出発点なのか。
佐平:「誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」も物事の順番だとわかるだろう。
福太郎:はい。
佐平:ではいったん休憩するぞ。

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