自然と人間

佐平:本来根本と末節について語るべきだが、脱線のさらに脱線みたいになる。無字の書についてさらに論じるぞ。
福太郎:ええ。
佐平:自然についてゲーテの次の言葉がある。『地質学について、警句的』からの引用だ。
なぜ私は結局もっとも好んで自然と交わるかというと、自然は常に正しく、誤りはもっぱら私のほうにあるからである。これに反し、人間と交渉すると、彼らが誤り私が誤り、さらに彼らが誤るというふうに続いていって、決着するところがない。これにひきかえ、自然に順応することができれば、事はすべておのずからにしてなるのである。
佐平:自然は無形の「道」によって作用する。無字の書物だ。それに対して人間は有形の言葉や行動で対応する。だから自然に従えば無形の道によって自ずから正しく物事は成る。しかし人間は有形の言葉や行動によって間違えが重なり続ける。
福太郎:自然は無形の道によって作用するから、それこそ「自然に」物事はうまくいくんですね。
佐平:そうだ。
福太郎:「事はすべておのずからにしてなる」とは老子みたいな考え方ですね。「無為自然」じゃないですか。
佐平:そうだ。ゲーテはすこし東洋的な考え方をする。西洋人らしからぬ点がある。
福太郎:なるほど。
佐平:以前から根本と末節の連鎖を認識すれば物事は自然とうまくいくと述べているだろう。
福太郎:そうですね。
佐平:その方法は広い意味では道に従うと言えるんだが、厳密には違う。
福太郎:と言うと?
佐平:もう一度引用するぞ。
現代語訳
物事には根本と末節があり、事柄には最初に生じることと最後に生じることがある。何が先であり何が後であるかを知れば、道を知ったのに近い。

書下し文
物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。
佐平:たしかに根本と末節の連鎖に従えば物事は自然にうまくいく。
福太郎:ええ。
佐平:でもよく読むと根本と末節の連鎖を知るのは「道を知ったのに近い」と書いてあるだろう。
福太郎:なるほど。
佐平:「道に近い」のであって「道そのもの」とは少し違う。自然の無形に従うことが本当の意味で「道に従うこと」なんだ。
福太郎:そうですか。
佐平:ただそれは我々にはほぼ不可能だ。だから根本と末節という「道」の「簡略版」で物事に対処する。
福太郎:なるほど。でもそれでも十分なんですね。
佐平:ああ。ほとんどの場合はそうだ。
福太郎:そう考えると無形の思想、無字の書は根本と末節の本来の姿と言うか本来のあり方ですね。
佐平:そうかもな。
福太郎:すると今回の講義も必ずしも脱線ではないのかもしれません。
佐平:ああ。そうだな。ゲーテが自然から学ぶ思想は恐らく「道そのもの」なのだろう。
福太郎:では全ては自然に任せておき、人間は何もしないほうがいいとなるんですか?
佐平:もちろんそうではない。
福太郎:オレもそれは違うと思いますね。でもゲーテの言う通り自然が完全なら、人間は何もしなくていいはずですよね。
佐平:以前引用した経済学についての誰かのブログを再度引用するぞ。
経済学ではいままで内容のある学説は二つしかない。ひとつは基本的には経済に手を加えないほうが良いという考え。もうひとつはたまには手を加えたほうがいいという考え。この二つだ。
佐平:経済学以外の分野でもこの言葉はある程度当てはまる。基本は自然に任せるのが正しいが、人間が時々手を加えたほうがいい。
福太郎:そうですか。なんとなくそういう気もします。我々の健康も基本は自然に任せて自然治癒力を高めたがいいですが、明らかに病気になった時は医者の手を借りたほうがいい。場合によっては人為的な手術も必要かもしれない。経済で実体経済が安定しているときは自然の流れに任せたほうがいいけど、恐慌になったらケインズ的な公共事業が効くのと同じですね。
佐平:そうだな。この問題は重要な問いを含んでいる。人間が自然を超えられるかどうかという問いだ。
福太郎:ゲーテは人間より自然のほうがはるかに偉大だと考えているようですね。
佐平:おまえはどう思う?
福太郎:たしかに自然の美しさに感動することはあります。でも自然に全部任せるとコロナとか疫病は際限なくはびこるし、社会は無秩序になるし、社会は混乱します。最悪の事態になりますね。
佐平:そうだな。自然が人間より優れていると思う時と、人間のほうが自然より優れていると思う時の両方があるだろう。
福太郎:そうですね。自然の美を見ると人間にはとてもこれを超えられないと思う時もありますが、ベートーベンの第九とか、京都の美しい庭園とか見ると人間は自然を超えていると思う時もあります。人間のほうが優れているような自然のほうが優れているような。少し視点を変えるだけで逆の結論になります。
佐平:そうだな。芸術以外でも同じだ。科学技術や医学は人間の知性だ。自然に任せておけば疫病が広がる。しかし人間の医学によってそれを抑えることができる。
福太郎:科学技術はものすごく進歩します。この分野は人間が自然を超えているんじゃないですか?人間の科学技術は自然を征服している気がします。征服しすぎて環境問題なども生じる。
佐平:それも一理ある。たしかに人間が自然を超えているように見える。
福太郎:ええ。
佐平:以前にも言ったと思うが、オレは大学の生物学の講義をもぐりで聴講した。
福太郎:ええ。
佐平:人間のDNAは紫外線とか色んな理由で傷がつくことがある。しかし人間の体はその傷を非常な精巧なシステムによって見事に修復していく。その精密さはほとんど驚異的だ。「なんと精巧なシステムか!!」と驚愕した。こんなシステムは人間の技術では作れない。科学を知らない人は人間の科学技術は自然を超えたと思うかもしれないが、科学を知る科学者は科学の偉大さ以上に自然の偉大さを知るのかもしれない。人間の技術より人間の身体という自然の仕組みのほうがはるかに優れているとも言える。
福太郎:なるほど。科学技術は自然を超えているようにも見えるし超えてないようにも見えますね。どっちなんでしょうね。
佐平:思想も同じだ。例えば易経は偉大な思想だ。我々からすると人間の叡智もここまで到るかと思う。しかし偉大な儒者が言うにはその易経すら自然の道理の一部を簡潔に表現したに過ぎないと言う。
福太郎:そうですか。
佐平:次のダンテの有名な言葉がある。
自然は神の芸術である。
福太郎:そうか。「自然」は「神の芸術」で、我々が普段言う「芸術」は「人間の芸術」なんですね。
佐平:ああ。ホッブズの『リヴァイアサン』に次の言葉がある。
自然とは神が世界をつくり世界を支配するための技術である。
佐平:神は自然によって世界をつくったし自然によって世界を支配すると言うんだ。
福太郎:なるほど。さっきのダンテの言葉と通じますね。
佐平:ホッブズのような慧眼の人は自然の中に神の意志を見るのかもしれない。ゲーテも自然を師とした。『ゲーテとの対話』から引用するぞ。
自然研究の与えてくれる喜びにまさるものはない。 自然の秘密の深さは測り知れない。しかし我々人間には、徐々に進んで自然をうかがうことが許され、恵まれている。そして自然は結局測り知りがたいという点が我々にとって永遠の魅力を持つのだ。その魅力のため、我々は繰り返し自然に引き付けられ、繰り返し新たな観察と発見を試みるのである。
福太郎:ゲーテが自然を師としているのが分かりますね。
佐平:ああ。自然は神の芸術だからゲーテは間接的には神を師としていると言ってもいい。
福太郎:なるほど。
佐平:アインシュタインの言葉を引用するぞ。
わたしたちはいつか、今より少しはものごとを知っているようになるかもしれない。しかし自然の真の本質を知ることは永遠にないだろう。
福太郎:アインシュタインも自然を畏敬しているのが分かります。
佐平:アインシュタインは自然の内に神を見ているようだ。引用するぞ。
私が知りたいのは神がどうやってこの世界を創造したのかということです。わたしはあれやこれやの現象だの、元素のスペクトルだのに興味はありません。私が知りたいのは神の思考であって、その他のことは些末なことなのです。
福太郎:アインシュタインは自然の内に神の思考を見るんですね。アインシュタインが物理学をするのは神の思考を知るため。
佐平:ああ。続いて『格言と反省』からのゲーテの言葉の引用だ。
美は隠れた自然の法の現れである。自然の法則は美によって現れなかったら、永久に隠れたままでいるだろう。
福太郎:なるほど。
佐平:ゲーテの言う通り自然の法や自然の美は我々凡人には隠されている。
福太郎:我々にも自然の美の一部は分かりますけどね。
佐平:もちろんだ。オレにも一部は分かる。自然の美しさに感動することはオレにもある。しかしゲーテほどには自然を理解できない。
福太郎:ええ。
佐平:ゲーテのような天才が我々に代わって隠された自然の美を見つけ、それを芸術によって表現する。それによって自然の美が我々に明らかになる。しかし我々はその天才の作品が自然から来たものだと知らない。だから自然を師とせずにその天才を師とする。人間を師とするんだ。
福太郎:ええ。
佐平:しかしその天才自身は自然を師としている。前回も引用したが『言志四録』の『言志録』の二をもう一度引用するぞ。
現代語訳
偉大な人は天を師とし、その次の人は人間を師とし、その次の人は書物を師とする。

書下し文
太上は天を師とし、其の次は人を師とし、其の次は経を師とす。
福太郎:これも覚えてますよ。
佐平:ゲーテは自然を師とする。自然は神の芸術だからゲーテはある意味「神」=「天」を師としているんだ。そのゲーテの作品に感動した我々は、その作品が自然に由来すると知らないから、自然を尊敬せずゲーテを尊敬してゲーテを師とする。「その次の人は人間を師とする」とある通りだ。
福太郎:なるほど。自然を師とする人は無形の思想を師として、人間や書物を師とする人は有形の思想を師とするんですね。
佐平:ああ。ゲーテは自分の作品が自然に由来するとはっきりと述べている。
福太郎:そうですね。
佐平:アインシュタインの言葉を引用するぞ。
独創性の秘訣は自分がどこからそのアイデアを思いついたかを隠しておくことです。
福太郎:面白いですね。ゲーテは自分の作品のインスピレーションが自然に由来すると公言してますが、それを隠しておけば「何と独創的か!!」ともっともっとみんな思う。きっとそういう意味ですね。
佐平:このアインシュタインの言葉は少しユーモアを含んだ言葉だ。アインシュタイン自身は自分のインスピレーションが自然やモーツァルトに由来すると公言している。我々はアインシュタインが独創的だと知っているが、本当はインスピレーションのもとを隠しておけばみんなそれ以上に独創的だと思ってくれるはずだった、と笑いながらアインシュタインは言っているんだろう。
福太郎:なるほど。
佐平:アインシュタインの言葉を引用するぞ。
自然を深く深く見つめてください。そうすればすべてのことがよりよく理解できるようになります。
福太郎:やはりアインシュタインも自然を師としているのか。
佐平:ああ。さらに引用するぞ。
自分が生まれた自然界の偉大な神秘を前にし永遠や生命、宇宙について思いを馳せるとき、誰もがそこに畏敬の念を抱かないではいられない。毎日、この神秘を少しずつ理解しようとするだけで好奇心がみたされるのだ。
福太郎:やはりアインシュタインも自然を畏敬しています。
佐平:そうだな。さらに引用するぞ。
私たちが体験しうる最も美しいものとは神秘です。これが真の芸術と科学の源となります。
福太郎:この前の言葉でも「自然界の偉大な神秘」と言っています。そしてここでも「神秘」が出て来てます。これが科学と芸術の根本であり本質なんですね。科学と芸術は本質を見ずに表面だけを見ると一見別分野のようですが 本質は「相通じる」んですね。自然の神秘が科学と芸術の大本にある。
佐平:そうだな。さらに引用するぞ。
わたしたちはいつか今より少しはものごとを知っているようになるかもしれない。しかし自然の真の本質を知ることは永遠にないだろう。
佐平:人間にとっては自然や神は永遠に師であり続けると言うんだ。
福太郎:なるほど。ところで偉大な人は自然を師として、人間を師とはしないんですか?
佐平:上の言葉は分かりやすくするために単純化して言ってある。実際には孔子が周公旦を深く尊敬したように偉大な人でも人間を師とする。書物も師とする。でも同時に神や自然をも師とするんだ。アインシュタインがモーツァルトにあこがれたのも同じだ。
福太郎:なるほど。
佐平:結局人間は自然を超えるのかという問題は非常に難しい。見る角度によって結論が変わってくる。玉虫色みたいなもんだ。
福太郎:人間が自然を超えると思うときはあります。でも自然のほうが最終的に優れていると思う時も多いです。
佐平:これはオレの考えだが、この「人と自然の関係」は神が人間に与えた人と自然の絶妙なバランスだと思う。
福太郎:というと?
佐平:人間が自然を超えられないようにできているのは、自然がそして神が常に人間にとっての永遠のお手本になるためなんだ。
福太郎:ええ。アインシュタインやゲーテが自然を師としたのがその例ですね。
佐平:そして人間が自然を超えられるようにできているのは、人間が努力するための目標を神が人間に与えているんだ。
福太郎:神が人間に努力目標を与えるんですね。自然を超えられるからこそ人間は努力をする。自然をまったく超えられないなら全部自然任せにしたほうがいいです。だからある意味自然を超えられるようにしてあるんですね。
佐平:西洋では「なぜ神は世界を不完全に作ったか?」「なぜ世界には悪があるか?」という問題が提起されることがある。儒教的にその問いに答えるとすれば次のようになる。『荀子』大略篇から引用する。
現代語訳
天地が自然を生み出して、聖人が自然を完成させる。

書下し文
天地これを生じて、聖人これを成す。
福太郎:なるほど。
佐平:神が世界をつくったというのを儒教的には「天地が万物を生んだ」と言うんだ。そして人間がその世界を完成させる。神が世界を不完全に作ったのは、人間に努力させ世界を完成させるためなんだ。
福太郎:そう考えることもできます。我々が勉強したり仕事したりするのも、最終的には世界を完成させることに繋がっているんですね。
佐平:我々の貢献度は大海の一滴だけどな。
福太郎:ええ。でも絶対的なものと最終的に繋がっている。
佐平:最初から世界が完成していれば人間は努力しなくて済む。それでは神としてはよくないのだろう。
福太郎:そうか。
佐平:人間と自然の関係は見方の角度を変えると人間が優れているようで、また見方を変えると自然が優れているような関係なんだ。これは人間が常に神を師としながら、必死の努力を怠らないようにするための絶妙なバランスだと分かるだろう。
福太郎:ええ。
佐平:自然はゲーテの言う通り完全のようにも見える。しかし不完全にも見える。
福太郎:そうですね。
佐平:自然が不完全なのは人間に解決すべき課題を与えるためだ。自然が完全なのは人間に問題解決の手本を与えるためだ。
福太郎:そう考えれなくもないですね。今回は大げさな話になりましたが分からんではないです。
佐平:では休憩するぞ。

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■上部に掲載の画像は山下清。

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