啓蒙思想家

福太郎:今回の一連の講義は以前書いた「本と末」という記事を書き改めたものになります。
佐平:そうだな。
福太郎:わざわざ書き改めたのには何か理由がありますか?
佐平:以前書いた記事は一応あれで完成のつもりだった。でも確かに中国思想をすでに知っている人からは「ああ、読んでくれたんだな。」と思うようなリアクションがあったが、中国思想に興味ない人からはあまりリアクションがなかった。「あ、これ伝わってないな」と思った。それで分かりやすく書き改めたんだ。元々中国思想に興味ない人向けに書いたつもりだったからな。
福太郎:なるほど。他人のリアクションがないと自分の文章がどういう文章か分からないですからね。
佐平:ああ。おまえは料理はするか?
福太郎:ええ。たまにします。
佐平:オレもたまにするが、料理作っているときに何度も味見すると、だんだん自分の作っている料理が美味いんだか不味いんだか分からなくなる時があるだろう。
福太郎:ええ。
佐平:同じように自分が書いた文章を何度も推敲してると、だんだん自分が意味あることを書いているのか当り前にすぎないことを書いているのか、よく分からなくなってきたりする。
福太郎:そうか。
佐平:料理も他人に食べてもらえば美味いか不味いか判断できるだろう。
福太郎:ええ。
佐平:思想の友達が何人かいれば感想聞くこともできる。中国思想に詳しい人、まったく興味ない人。それぞれの意見が貴重になる。それぞれの角度から意見をくれるからだ。
福太郎:分かります。
佐平:思想の友達は現在のところつくる気はないが、思想の友達がいないことによるデメリットもあるな。まあ当面は仕方がない。
福太郎:他人の意見がないと暗中模索みたいにはなりますよね。
佐平:ああ。中国思想を学ぶのを登山に譬える。
福太郎:ええ。
佐平:前回の「本と末」という記事は登山でいえば登り道の途中に生えている樹々の幹にナイフで傷をつけて行って自分の通り道を伝えたようなものだ。「傷のある樹々を辿っていけばここからも上に登れますよ。」という感じ。
福太郎:通り道にある樹々に傷をつけていって、傷のある樹々を道しるべにして読者も登山ができるんですね。傷のある樹を辿って行けば登っていける。
佐平:そうだ。中国思想に慣れた人はそれだけで理解する。ルートの最後まで到達する。途中崖があっても登るだろうし、川があっても渡るだろう。しかし中国思想に興味ない人はそうもいかない。
福太郎:ええ。
佐平:それで今回は舗装道路をつくることにした。道路を舗装し図解という道路標識をつくり、ガードレールをつくる。多少は分かりやすくなったと思う。
福太郎:ええ。そうですね。まだまだ分かりにくいですけどね。
佐平:ああ。本当は中国思想に興味のない人の感想をたくさん聞いて改善していかないと分かりやすい文章にはならない。
福太郎:でしょうね。
佐平:今回書いた文章も将来また分かりやすく書き直すと思う。ただ今のところイギリス哲学を学ぶのが先だから後回しだな。
福太郎:そうですか。
佐平:登山の醍醐味は何だと思う?
福太郎:途中の景色ですね。あと最終的には登頂です。
佐平:オレは儒教という山の五合目あたりをうろうろしている人間だ。もちろん登頂は目指している。しかし同時に他の人たちが儒教という山に登るのを手助けしたいとも思っている。今回はとりあえず二合目までの舗装道路をつくった感じだ。
福太郎:そうか。
佐平:登頂ももちろん魅力的だ。高度な思想はそれ自体非常に強力な魅力がある。でもあまりに高度な思想は現実世界では実は役に立たない可能性が高い。公田連太郎著『易経講話』第一巻の191ページに次の言葉がある。
易は天道をもって説明すると大きいのである。人道をもって説明すると小さくなる。しかしあまりに大きいのは人間世界に用に立ちかねる。人道をもって説明すれば小さくなるけれども人生に切実になる。
佐平:要はあまりに高遠な思想は実は現実世界で役に立たないと言える。思想が高遠ではなくなると逆に現実世界では役に立つようになる。
福太郎:分かります。
佐平:フランシス・ベーコンの『学問の進歩』に次の言葉がある。
哲学者たちは仮想の国家のために仮想の法をつくる。哲学者たちはあまりにも高みに聳えているので、彼らの言説は、光がほとんど届いてこない星のようなものである。
福太郎:ベーコンも哲学は高遠だが現実世界では役立たないと述べてますね。
佐平:そういうことだ。登頂ももちろん魅力的だ。でもそれより二合目までの舗装道路や現代に急務である西洋思想と東洋思想の合成が重要な気がする。
福太郎:今回の一連の講義を読むだけで儒教という山の二合目まで登ったことになりますか?
佐平:それは無理だな。二合目まで登るにはまず四書である『論語』『大学』『中庸』『孟子』を何度か通読するのは必須だ。あと入門のお薦めとしては『菜根譚』と『言志四録』がいい。この二冊は思想的に分かりやすく入門に最適だ。中国思想を専門にしないのであればこれくらいで十分な気もする。
福太郎:そうですか。
佐平:『菜根譚』は岩波文庫でいい。『言志四録』は講談社の久須本文雄訳がいい。講談社学術文庫の訳もあるが確か訳が劣悪だった気がする。
福太郎:はい。
佐平:日本で昭和初期くらいまで『菜根譚』と『言志四録』は一般でもよく読まれたらしい。よく読まれたには確かに理由があると思う。かなり分かりやすい。
福太郎:分かりました。
佐平:登頂を目指す求道者的な儒教も大切だが、多くの人に訴える開かれた儒教も同じくらい大切だと思う。
福太郎:そうですね。
佐平:一見話はかわるが『易経』に「地天泰」という卦がある。単純に「泰」とも言う。公田連太郎著『易経講話』の第二巻3ページに次の言葉がある。
「泰」は通じるなり。通じると言うは物と物との関係について言えば、こちらの物の気があちらの物に通じ、あちらの物の気がこちらの物に通じ、両方の物の気が相交わり相通じることである。人と人の関係でいえば、こちらの人の気分があちらの人に通じ、あちらの人の気分がこちらの人に通じ、両方の意志が善く流通することである。こちらの物の気があちらの物に通じ、あちらの物の気がこちらの物に通じ、両方の物の気が滞りなく相交わり相通じるときは両方の物の関係は安らかにうまく進行する。これが物と物との泰である。こちらの人とあちらの人と両方の意志が善く相通じるときは、両方の人と人との関係は滞りなく安らかにうまく運んでいく。これが人と人との間の泰である。泰は通じるなりと言うは、両方の物または人の気分意志が互いに善く疎通し相交わるのであり、そこで物と物との関係は安泰であり、人と人との関係は安泰であることである。
佐平:これが「泰」という卦についての説明だ。
福太郎:「通じる」についてですね。確かに恋人同士は仲が良ければ「こちらの人の気分があちらの人に通じ、あちらの人の気分がこちらの人に通じ、両方の意志が善く流通する」というのは当てはまりますね。
佐平:気が互いに「通じて」いるから「安泰」なんだ。「泰は通じるなり。」とある通りだ。
福太郎:ペットを飼っている人も言葉は通じないけれど心は通じると言いますよね。
佐平:それも「通じる」という状態だ。「こちらの人とあちらの人と両方の意志が善く相通じるときは、両方の人と人との関係は滞りなく安らかにうまく運んでいく。これが人と人との間の泰である。」とある通りだ。ペットは人間ではなく動物だけどな。いずれにしても「通じる」場合、「関係は滞りなく安らかにうまく運んでいく」。
福太郎:ええ。
佐平:森で樹々に霊気を感じる人がいるがそういう人は樹々との間に気の交流がある。「こちらの物の気があちらの物に通じ、あちらの物の気がこちらの物に通じ、両方の物の気が相交わり相通じる」とある通りだ。樹々との間に良い関係が生まれる。
福太郎:ええ。
佐平:古典を読んで感動するのも古典を書いた人と読んでいる人の気が「通じる」のかもしれない。「泰は通じるなりと言うは、両方の物または人の気分意志が互いに善く疎通し相交わるのであり、そこで物と物との関係は安泰であり、人と人との関係は安泰であることである。」とある通りだ。
福太郎:分かります。
佐平:さらに『易経講話』から引用するぞ。
泰は天の気が下って地に通じ地の気が上がって天に通じることを言うのである。天と地の気、陽と陰との気が相交わり相通じ相和合していることを現したものとみるのである。天地の陰陽の気が相交わり相通じ相和合するによって、天地間の万物は生成化育される。それを地天泰というのである。これは天地の陰陽の地天泰である。
佐平:さっき恋人同士やペットにおける「通じる」について話したが、恋人同士は横の関係だ。横の「通じる」だ。でも本来「地天泰」すなわち「泰」は上と下の「通じる」を主に表すんだ。
福太郎:なるほど。天と地が相通じる。これが「泰」の意味なんですね。
佐平:そうだ。上の物は下を向き、下の者は上を向く。上下が相通じる。続けて引用するぞ。
人事をもって言えば、上に在る君主の恩沢が下に在る人民に通じ、下に在る人民の情態が上に在る君主に通じる。そこで天下が安泰になるのである。これは君主と人民との間の地天泰である。
福太郎:なるほど。これも上と下における「通じる」ですね。君主と人民ですから。
佐平:ああ。今度は天地ではなく君主と人民という人間の関係だ。さらに引用するぞ。
君主は真心をもって大臣百官を信任し、大臣百官は真心をもって君主に仕え、君主と臣下の意志感情がよく疎通する。これは朝廷における地天泰である。
福太郎:これも上下の「通じる」です。
佐平:例えば会社で社長が社員のことを思って経営をし、社員が社長の人格を慕う場合も上下が「通じる」と言っていい。上の者は下を思い、下の者は上を思う。
福太郎:そうですね。
佐平:さらに引用するぞ。
そのほか人と人の関係、物と物の関係をいろいろ考えてみるべきである。それらの関係において両方の気分意志が互いによく疎通していれば安泰平和にうまく事が運んでいくのである。
佐平:『易経』の面白いのは例えば今回の「地天泰」が色んな状況で姿を現す点だ。天と地や会社や色んなところで、この「地天泰」という構造、本質、パターン、類型が姿を現す。公田氏が言うように、色んな「人と人の関係、物と物の関係をいろいろ考えてみるべきである」というわけなんだ。
福太郎:『易経』は色んな物事にある本質を「卦」と言うかたちで表現しているんですね。
佐平:そういうことだ。
福太郎:分かりました。
佐平:話は戻るが、中国思想を学んだ人がまだ学んでない人に分かりやすく解説するのもある意味「地天泰」と言っていいんじゃないかと思う。
福太郎:「地天泰」は上下の「通じる」です。中国思想を学んだ人が上に立ち、学んでない人が下に立つことになりますね。
佐平:それはお互い様だ。例えば物理学に詳しいAさんにオレが中国思想を教えたとしよう。オレは中国思想をある程度知っているから、中国思想だけに関して言えば知らないAさんの上に立つことになる。でもオレは物理学を常々学びたいと思っているが、Aさんに教えてもらう場合、Aさんが物理学に詳しいから上に立つことになる。お互い様なんだ。
福太郎:そういうことか。
佐平:例えば公田連太郎氏が下にいる我々に分かりやすく『易経』の内容を教える。そして我々が上に居る公田氏に感銘を受ける。これも上下が相通じる「地天泰」と言っていい。
福太郎:そうですね。
佐平:「地天泰」に対して「天地否」という卦がある。「地天泰」の逆だ。『易経講話』第二巻38ページから引用するぞ。
天地陰陽の気が相交通し相和合するによって万物が生成化育されるのであるが、この「天地否」はそうではなく、天地陰陽の気が互いに塞がり隔たって、相交通せず相和合しないのであって、万物は生成化育されないのである。これは天地陰陽の上の「否」である。
福太郎:さっきの「地天泰」は上下の気が互いに相通じる状態でしたが、「天地否」は相通じない状態ですね。
佐平:そういうことだ。上の物は上を見て、下の者は下を見る。だから上下が相通じない。さらに引用するぞ。
君主は高く上に在り、人民は低く下に在り、君主と人民との間が隔たり塞がって、君主の徳沢は下の人民に降らず、人民の意志情態は上に在る君主に通じない。これでは君主と人民の関係は、安らかにうまく行かないのである。これは君主と人民との間の天地否である。
福太郎:確かに「地天泰」とは反対です。上下が相通じない。
佐平:さらに引用するぞ。
そのほか人と人との関係、物と物との関係をいろいろ考えて見るべきである。それらの関係において、もし両方の気分意志が互いによく疎通していれば、「地天泰」であって、安泰平和にうまく事が行われる。もしそれが互いに疎通しないのであれば、この「天地否」であって世の中の物事が乱れるのである。すべて両方の気分意志がよく疎通することによって、世の中が泰平にして善く治まる。両方の気分意志が疎通しないことによって、世の中が閉じ塞がって乱れるのである。
佐平:いろんな場面で「地天泰」や「天地否」という構造、本質、パターン、類型が姿を現すんだ。公田氏はいろいろ考えてみるようにと言っている。次の記載もあるぞ。
一人の身体にも「天地否」という情態がある。例えば逆上していて足が冷えるというような情態であれば、それは一人の身体の「天地否」である。それでは身体は衰弱する。一人の身体にも「地天泰」という情態がある。例えば気力が下腹のいわゆる気海丹田に充実していて、血液が体中に滞りなく循環し、足の先までぽかぽかと暖かいというような情態であれば、それは一人の身体の「地天泰」であり、元気ますます旺盛となるべきである。
福太郎:上に在るものが上を向いて、下に在るものが下を向き、上下が相通じないのが「天地否」ですね。上半身が逆上し上を向いて、下半身は下を向いて足が冷える。これはたしかに「天地否」だ。丹田が充実し下半身が暖かいのは「地天泰」なのか。
佐平:そうだな。太極拳やヨガをしているオレにとっては興味深い記述だ。
福太郎:ええ。
佐平:難しい思想に挑戦するのは当然素晴らしいことだ。オレも日々挑戦している。しかし思想家が思想を知らない人を馬鹿にし、思想を知らない人も思想家のことを「わけのわからん奴だ」と言うような状態は「天地否」の状態と言っていい。
福太郎:ええ。互いに相通じない状況です。逆に思想を知っている人が思想を知らない人に分かりやすく話すのが「地天泰」ですね。
佐平:伊藤仁斎の『童子問』から引用するぞ。
現代語訳
高いところにいる者は低いところを見る。 だからその言葉は身近な表現になる。
低いところにいる者は高いところを見る。だからその言葉は高遠な表現になる。

書下し文
髙きに居る者は低きを見る。故にその言低からざるを得ず。
低きに居る者は高きを見る。故にその言高からざるを得ず。

佐平:思想が難しくて門外漢に分かりづらいということは、思想という分野が他分野から孤立することを意味する。
福太郎:ええ。
佐平:オレは他の分野に開かれた思想が重要と思っている。
福太郎:そうですか。
佐平:さっき引用した『易経講話』の「天地の陰陽の気が相交わり相通じ相和合するによって、天地間の万物は生成化育される。それを地天泰というのである。」という言葉があっただろう。
福太郎:はい。
佐平:思想も開かれた思想であれば他の分野と相通じえる。天地が交わることで万物が生まれるように、思想が他の分野と相交わることで色んなたくさんの有益なアイデアが生まれる気がする。
福太郎:そういうことか。
佐平:思想が政治、経済、科学、歴史、ビジネスなど他の分野と交わることで各分野で化学変化が生じていろんな有益なアイデアが生まれる。実現可能とはあまり思っていないが、できればそれを目指したい。
福太郎:分からんではないです。
佐平:「地天泰」もそうだが、『易経』の卦は色んなところに現れる。大きな規模では天と地。小さい規模では自分の体など。でもそれらは全て「地天泰」という同じ構造、本質、パターン、類型なんだ。思想が他の分野と交わるのも「地天泰」だが、もちろん天と地が交わるときほど壮大なスケールにはならない。規模はずっと小さいがそれでも「地天泰」なんだ。
福太郎:ええ。規模は違えど構造は同じなんですね。
佐平:あと天地の交わりは縦の関係だが、思想と他の分野の交わりは横の関係だ。そこが若干違う。
福太郎:そうですね。横の関係ではありますがたしかに「地天泰」に似ている。違うものが交わって豊かなアイデアがたくさん生じる。それを目指すんですね。ただ現状を言うと思想は難しすぎて門外漢には理解不能です。「天地否」になっていますね。
佐平:求道者的思想家は登山でいえばひたすら登頂を目指す思想家だ。啓蒙思想家は他の人も登れるように舗装道路をつくる思想家。啓蒙思想家のほうが「地天泰」に近い気がする。
福太郎:求道者的思想家より啓蒙思想家のほうが優れているんですか?
佐平:それはそうとは限らない。求道者的思想家の凄みというものがある。現代においては三つのタイプの人が必要だと思う。求道者的思想家と啓蒙思想家と他分野の人々。
福太郎:そうですか。
佐平:求道者的思想家や中国思想の専門家は存在する。
福太郎:ええ。
佐平:足りないのは啓蒙思想家だと思っている。求道者的思想家が啓蒙思想家に思想を教え、啓蒙思想家が他分野の人に分かりやすく思想を伝える。すると各分野で化学変化が生じる。
福太郎:実現可能かは分かりませんが、可能性はあります。
佐平:求道者的思想家より啓蒙思想家のほうが優れていると論じることはできる。求道者的思想家は上を目指すから「天地否」で啓蒙思想家が下を見るから「地天泰」だとか言ってもっともらしい根拠で争うことはできる。しかし両方必要だ。
福太郎:そうですか。
佐平:司馬遼太郎著『世に棲む日日』から引用するぞ。
革命の初動期は詩人的な予言者があらわれ「偏癖」の言動をとって世から追い詰められ必ず非業に死ぬ。吉田松陰がそれにあたるであろう。革命の中期には卓抜な行動家があらわれ、奇策縦横の行動をもって雷電風雨のような行動をとる。高杉晋作、坂本龍馬らがそれに相当し、この危険な事業家たちもまた多くは死ぬ。それらの果実を採って先駆者の理想を容赦なくすて、処理可能な形で革命の世をつくり、おおいに栄達するのが、処理家たちのしごとである。伊藤博文がそれにあたる。松陰の松下村塾は世界史的な例から見てもきわめてまれなことに、その三種類の人間群をそなえることができた。
佐平:ここで「詩人的な予言者」「卓抜な行動家」「処理家」の三つの個性が出てきている。どれが優れているかではなく司馬遼太郎は三つの個性のどれもが必要だと言っている。
福太郎:分担があるのか。確かに「詩人的な予言者」のほうが「処理家」より優れていると論じること自体は可能です。でも実際はどっちも必要なんですね。
佐平:正しく連携できるかが重要だ。
福太郎:ええ。
佐平:『言志耋録』の一八六に次の言葉がある。
現代語訳
多くの場合、人は自分と同じ価値観の人を好んで、自分と違う価値観の人を好まない。しかし私は自分と違う価値観の人を好んで、自分と同じ価値観の人を好まない。なぜか。価値観の違う人同士は互いに相反するかのようだが、しかし相互に助け合うのは必ず相反する者同士である。例えば水と火のようなものである。水は物を生ぜしめ、火は物を消滅させる。もしも水が物を生ぜしめなければ、火もまた物を消滅させることはできない。火が物を消滅させなければ、水もまた物を生ぜしめることができない。それで水と火が相互に助け合って後、万物がつぎつぎと発生して窮まりないのである。この道理は知らなくてはならない。

書下し文
凡そ人は同を喜んで異を喜ばず。余は異を好んで同を好まず。何ぞや。同異は相背くが如しと雖も、而も其の相資する者は、必ず相背く者にあり。例えば水火の如し。水は物を生じ火は物を滅す。水、物を生ぜざれば、則ち火もまた之を滅する能わず。火、物を滅せざれば、則ち水もまた之を生ずる能わず。故に水火相及んで然る後に万物の生々窮まり無きなり。此の理知らざるべからず。
福太郎:なるほど。違う個性だからこそ連携した時に大きな力を発揮するんですね。
佐平:ああ。『易経講話』第一巻56ページに次の記載があるぞ。
陽と陽と、陰と陰とでは相応じることなく、相助けない。一方が陽、他の一方が陰であれば相応じ相助けるのである。これは人間社会においてもたぶん同じことで、全く同じ能力の人、全く同じ性格の人では共同することがうまく行きかねるのである。違った能力、違った性格の人が相助け相和合するのである。
福太郎:これも同じ内容ですね。
佐平:求道者的思想家と啓蒙思想家もどっちが上ということはないと思っている。連携できるかが大事だ。いずれにしても一人の力は限られている。連携できるかが重要だと思う。
福太郎:はい。
佐平:一応これで長かった講義も終わりだ。お疲れ様。
福太郎:ええ。今回の講義で一応それなりに内容のある文章になったと思いますが、今回の内容を営業はしないんですか。投稿したり、noteやtwitterでフォロワー増やしたり。
佐平:まだしないな。noteやtwitterのフォロワー数は末節だ。根本は思想の内容だ。思想の内容がまだ十分ではないから営業しても意味ないだろう。イギリス哲学との合成が当面の課題だ。他のことに労力使いたくない。
福太郎:分かりました。しばらくは一人で思想を磨くことに専念ですね。
佐平:ああ。それじゃあ終わりだ。
福太郎:読んでいただいた方ありがとうございました。
佐平:ありがとうございました。

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