理想と現実

佐平:では続けるぞ。
福太郎:はい。
佐平:理想と現実について話してたな。
福太郎:ええ。
佐平:理想主義に過ぎて現実を無視する人は現実世界で成功しない。孟子がその典型だ。逆に現実主義に過ぎて武力や利益のみを求める人は一事的に成功しても長続きしない。董卓がその典型だ。
福太郎:はい。
佐平:儒教など普遍思想は天の意思だという意見がある。
福太郎:そうですか。
佐平:オレも部分的に同意する。でも思想は普遍的とは言っても思想家の意見でもある。
福太郎:人間の意見でもありますね。天の意思を含んでいたとしても。
佐平:そうだ。それに対して歴史の結果は歴史の意思で天の意思と言ってもいいかもしれない。
福太郎:歴史の結果はその時代を生きた人たちを超えて決まっていきますから、天の意思と言ってもいいかもしれませんね。オレは天を信じてませんけど、言っている意味は分かります。
佐平:すると董卓は天の意思にそむいた人間だ。
福太郎:言わんとするところはよく分かります。結果的に亡んでますし悪名が残りました。天にそむいたんですね。
佐平:孟子は後世において大きな名声を得たから部分的には天の意思に則ったと言っていい。
福太郎:ええ。
佐平:でも現実世界で成功しなかったから、天の意思と違う点もあったと結論できる。
福太郎:じゃあ誰が天の意思に適うんですか?
佐平:三国志で言えば曹操や孔明だ。
福太郎:どうしてですか?
佐平:それは彼らが理想と現実の中間を行ったからだ。
福太郎:中間ですか?
佐平:孔明から解説する。孔明は理想を持っていた。『近思録』総論聖賢に次の言葉があるそ。
現代語訳
諸葛孔明には儒者の風格がある。

書下し文
諸葛武侯は儒者の気象有り。
佐平:程伊川という人の言葉だ。
福太郎:程伊川?
佐平:宋の時代の儒者だ。偉大な儒者だぞ。
福太郎:はい。
佐平:孔明は儒者の風格があると言うんだ。儒者はもちろん理想を持つ人だ。孔明は理想を持っていたと程伊川ほどの偉大な儒者も認めているんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:そして孔明は理想を持つだけではなく、理想を自分の国において実現した。
福太郎:そうですね。
佐平:さらに『近思録』から引用するぞ。
現代語訳
孔明は新しい礼儀と音楽を興す人物に近い。

書下し文
孔明は礼楽に近し。
佐平:礼楽については以前解説したな。
福太郎:はい。聖人は礼儀と音楽で人々の間に道徳を広めるんでした。礼儀と音楽を合わせて「礼楽」と言います。
佐平:そうだ。「礼儀と音楽を興す」というのは新しい道徳を興すという意味だ。ある偉大な人が礼儀と音楽を興したとしても、何百年もたつと世の中の風俗に合わなくなったりして古くなる。
福太郎:分かります。理解しずらくなります。
佐平:根本的な「道」は時代を超えて当てはまり、時代によって変化したりはしない。でも礼儀や音楽は時代によって変化すると考えられる。
福太郎:そうですか。
佐平:時代ごとに再び偉大な人が現れてその時代にあった新しい礼儀と音楽を興す必要が出てくる。
福太郎:そうすると孔明は新しい礼儀と音楽、新しい道徳を興す人に近いというわけですね。
佐平:そうだ。孔明は儒教の本質を理解していた人として評価されているんだ。儒教的な理想を持っていた。
福太郎:ええ。
佐平:『礼記』楽記篇に次の言葉があるぞ。
現代語訳
礼儀と音楽の本質を知る者は新しい礼儀と音楽を興すことができる。過去の偉大な人物が興した礼儀と音楽を理解する者はそれを受け継ぐことができる。礼儀と音楽を興す人物を聖人と言い、礼儀と音楽を受け継ぐ人を明察の人と言う。

書下し文
礼楽の情を知る者は能く作る。礼楽の文を識る者は能く述ぶ。作る者をこれ聖と言い述ぶる者をこれ明と言う。
佐平:さっきの「孔明は新しい礼儀と音楽を興す人物に近い。」というのは最大級の賛辞だ。「新しい礼儀と音楽を興す」のは聖人だ。孔明はそれに近いと言うんだ。実際には孔明は聖人ではない。聖人に「近い」だけだ。彼は「礼儀と音楽を受け継ぐ人」で明察の人と言うべきだな。
福太郎:なるほど。さらに孔明は理想を持っていただけでなく、理想を現実化できたんですね。
佐平:そうだ。彼は自分の国でその理想を実現した。彼の治世は堯舜の治世のようだ。
福太郎:堯舜って昔の明君でしたよね。
佐平:上古の聖人だ。孔明が理想を現実化できたのは彼が現実を知っていたからだ。
福太郎:現実を無視しなかったんですね。
佐平:理想と現実の両方を重視したからだ。
福太郎:曹操はどうですか?
佐平:曹操は『三国志演義』という小説の影響でゴリゴリの現実主義者だと思われてるが史実ではそうではなかった。
福太郎:理想を持っていたんですか。
佐平:曹操は若い頃、当時の首都洛陽で警察部長に任命された。そのとき、彼は法律を重視して法律違反する者はたとえ高位高官の人物でも全く容赦しなかった。
福太郎:すごいですね。
佐平:ああ。当時の中国は法律が守られず高位高官の権勢が法律より幅を利かせていた。そのたるんだ社会を曹操は率先して正そうとしたんだ。
福太郎:ある意味、曹操自身にとっては危険ですよね。
佐平:そうだ。自分の命を顧みずに正義のために戦ったんだ。
福太郎:えらいなあ。
佐平:彼は若い頃、その後の抱負を語った記録が残っている。「私は天下の智者勇者に仕事をまかせ道義をもって彼らを制御するつもりだ。」と述べているんだ。
福太郎:若い頃から道義を重視していたんですね。
佐平:そうだ。そして彼は理想を持っていただけではなくて当然現実を重視していた。
福太郎:それはそうでしょうね。
佐平:理想主義にはいい意味での理想主義と悪い意味での理想主義がある。
福太郎:というと?
佐平:良い意味での理想主義は世の中をよくするための理想を持つ考え方だ。
福太郎:なるほど。
佐平:悪い意味での理想主義は理想の実現の際に現実を無視する。だから現実を動かせない。
福太郎:ええ。
佐平:現実主義にもいい意味での現実主義と悪い意味での現実主義がある。
福太郎:はい。
佐平:良い意味での現実主義は現実をよく理解して現実を動かす。
福太郎:ええ。
佐平:悪い意味での現実主義は世の中をよくするための理想を持たない。だからそもそも世の中を良くしないんだ。
福太郎:わかります。孔明と曹操はいい意味での理想主義といい意味での現実主義を兼ね備えていたんですね。
佐平:ああ。
福太郎:だから理想を持ちながら理想を現実世界で実現しえた。
佐平:儒教は根本を重視して末節を軽視するんだ。
福太郎:理想主義ですね。
佐平:オレは儒教の普遍性を信じるが儒教に捉われる気はない。儒教のすべてに賛成というわけでもない。
福太郎:先輩はどういうスタンスですか?
佐平:オレは末節も大事だと思う。でも末節を備えるには根本を備えておかないと意味がない。根本を備えた人が末節も備えると大きな力を発揮する。
福太郎:確かに世の中を良くするアイデアという根本を備えた人が、資金という末節をそなえたら資金は大きな力を発揮しますね。
佐平:そうだ。いい例だな。それに対して末節のみを求めると「末節が勝つ」とう状態になって害を及ぼす。
福太郎:金儲けのための金儲けですね。ただひたすら末節を追い求める。
佐平:ああ。そうだ。
福太郎:ですよね。
佐平:まとめると董卓のように根本を備えず末節だけ備えた人は尊敬できない。同じように世の中に役立つアイデア技術という根本を持たず利益という末節に走る企業も尊敬できない。
福太郎:ええ。
佐平:劉備のように根本たる人徳をもっていて末節である大業を成さない人は尊敬できる。でももったいないと思う。
福太郎:優れたアイデアや技術を持っていても売上が伸びない企業も同じですね。尊敬できてももったいないですね。
佐平:そうだな。それに対して孔明や曹操のように根本を持っていて末節の大業も備えた人は尊敬できるし、さらに世の中を良くできる。
福太郎:優れたアイデアや技術を持っていてさらに売上が伸びて社会で尊敬される企業も同じですね。
佐平:ああ。まとめを簡単にノートに書いておくぞ。
良い意味での理想主義は世の中をよくするための理想を持つ。
悪い意味での理想主義は理想の実現の際に現実を無視する。
良い意味での現実主義は現実をよく理解して現実を動かす。
悪い意味での現実主義は世の中をよくするための理想を持たない。
福太郎:ええ。
佐平:E.H.カーの『危機の二十年』から引用する。
福太郎:よく出てきますが西洋の本ですか?
佐平:20世紀のイギリス人の書いた本だ。理想主義と現実主義に関する現代の古典だ。
福太郎:そうですか。
佐平:次の言葉があるぞ。
理想主義者の典型的な欠陥は無垢なことであり、現実主義者の欠陥は不毛なことである。
佐平:これは悪い意味での理想主義と悪い意味での現実主義について的確に述べている。次の言葉もある。
未成熟な思考はすぐれて目的的であり理想主義的である。とはいえ目的をまったく拒む思考は老人の思考である。
佐平:現実を無視する理想主義は現実を知らない無垢な青年の思考であり、理想を持たない現実主義は目的や夢を持たない老人の思考だと述べている。
福太郎:なるほど。
佐平:続いてこれらに対比される成熟した思考について次のように述べる。
成熟した思考は目的と観察分析をあわせもつ。
佐平:ここで言う「目的」は理想だ。「観察分析」は現実だ。成熟した思考は理想と現実の中間を行くんだ。

福太郎:曹操や孔明ですね。
佐平:ああ。次の言葉が続くぞ。
こうして理想主義と現実主義は政治学の両面を構成するのである。健全な政治思考および健全な政治生活は理想主義と現実主義がともに存するところにのみその姿を現すであろう。
福太郎:理想と現実両方必要と言うのがE.H.カーの主張ですね。
佐平:ああ。でも成熟した思考は理想と現実の中間を行くと述べたが、もちろん単純に両極の中間と言う意味ではない。
福太郎:違うんですか?
佐平:もし単純に中間であれば「天→人間本性→道→仁徳→礼儀→法律→利益→武力→権謀」のうち「礼儀」が一番真ん中なので礼儀を重視する荀子が一番偉いということになる。もちろんそれはおかしい。荀子より孔子のほうが偉い。
福太郎:孔子は「仁徳」を重視しますね。
佐平:E.H.カーが「成熟した思考は目的と観察分析をあわせもつ。」と言う通り、理想と現実の両方を重視する人が正しいと言うべきだとオレは思っている。
福太郎:単に「天→人間本性→道→仁徳→礼儀→法律→利益→武力→権謀」の中間である礼儀を重視する荀子ではなく、孔明や曹操のように根本と末節の両方を重視するのがいいんですね。
佐平:ああ。
福太郎:先輩は「天→人間本性→道→仁徳→礼儀→法律→利益→武力→権謀」のうちどれを重視しますか。
佐平:オレか?おれは一番右の「権謀」以外は全部重要だと思っている。
福太郎:そうですか。
佐平:権謀は他人の罠に引っかからないために知っておく必要があるが積極的に用いるものではないと思っている。
福太郎:なるほど。
佐平:さらに付け加えるとオレは若干理想主義のほうに寄っている。理想と現実、根本と末節、両方大切だがどちらかとれと言われれば根本を取ると言うのがオレのスタンス。
福太郎:「理想:現実」の割合は?
佐平:「6:4」くらいかな。
福太郎:以前色んな人の「理想:現実」の割合を推定しましたね。
佐平:ああ。孟子は「9:1」荀子は「5:5」孔明は「6:4」孔子は「8:2」董卓は「0:10」とか。推測だけどな。
福太郎:ええ。どの比率が正しいとかあるんですか。先輩は「6:4」って言いましたよね。
佐平:ああ。オレは「6:4」くらいがちょうどいいと思っている。だから「6:4」のオレからすると孟子の「9:1」は理想主義的に過ぎる気がする。
福太郎:そうですか。
佐平:でも孟子からするとオレが孟子ほど偉大な徳を持ってないから理想のもつ力を過小評価しているんだという結論になるかもしれない。
福太郎:ええ。
佐平:孟子の「9:1」の理想主義を本当に実現しようと思ったらものすごい人格的な力が必要だ。
福太郎:イエス=キリスト並みですか。
佐平:ああ。それが成功したらものすごい効果を生む。
福太郎:なるほど。
佐平:比率「5:5」くらいのほうが実際には一番成功しやすいんだ。でも「9:1」のほうが成功した時の効果は絶大になるだろうな。
福太郎:なるほど。
佐平:オレからすると「5:5」の荀子の性悪説は現実主義に過ぎると思うが、荀子からするとオレが平和な日本で暮らしてて、苛烈な中国の戦国時代という現実を知らないからそんなことを言うのだとなるかもしれない。
福太郎:それもわかります。正解の比率はないんですか?
佐平:たぶん無いな。董卓の「0:10」みたいに絶対に間違いなのはある。でも絶対的な正解はないんじゃないかな。
福太郎:そうですか。
佐平:囲碁や将棋の序盤の打ち方さし方と同じで「これは絶対にダメだ」というのはあっても「これが絶対に正解」というのはない。
福太郎:そうですか。
佐平:思想は囲碁将棋でいうと序盤戦の感じが強い。「この手が正しいと証明されたわけではない。他にも打ち方はある。でもオレはこれで行くぜ。」という感じがある。
福太郎:ええ。
佐平:中盤戦は科学っぽい。「恐らくこれで間違いないが、もしかしたら他にもいい手があるかもしれない。」という感じ。
福太郎:はい。
佐平:終盤戦は数学に近いかもしれない。絶対にこの手が正しいという正解がある。
福太郎:う~ん。分かりにくいですね。囲碁将棋は知りません。
佐平:野球で言うと絶対間違いな投球フォームはあっても絶対正解な投球フォームはないのと一緒だ。
福太郎:ああ。なるほど。
佐平:オレは野球が下手だ。オレの投球フォームはどう見ても間違いだろう。
福太郎:ええ。先輩は運動音痴ですから、とんでもない投球をします。
佐平:だから絶対間違いの投球フォームはあるんだ。
福太郎:はい。
佐平:でも絶対正解のフォームはない。野茂選手が優れているからと言ってみな同じ投球フォームで投げなくてはいけないわけじゃない。
福太郎:そうですね。
佐平:ランディジョンソンが優れた投手だからと言ってみなサイドスローで投げなきゃいけないわけじゃない。
福太郎:ええ。
佐平:逆に言うと野茂選手の投球フォームを正確に模倣しても野茂選手のような偉大な投手になれるとは限らない。孟子の「9:1」を真似ても孟子のように偉大になれるとは限らない。
福太郎:分かります。
佐平:それと一緒だ。
福太郎:一緒にしていいんですか。
佐平:あくまで比喩だから正確ではない。でも分かりやすいだろう。
福太郎:ええ。
佐平:それぞれの人が自分の個性や信念に基づいてスタンスを決めるべきだと思うんだ。
福太郎:E.H.カーは「5:5」ですね。
佐平:一概には言えないかもしれないが多分な。E.H.カーの言葉には共感するが、別に彼の思想に全部賛成というわけでもないしそれに捉われるつもりもない。
福太郎:先輩は「6:4」のスタンスなんですね。
佐平:ああ。自分のスタンスだ。別にE.H.カーを鵜呑みにはしない。『ヨギーニ』というヨガの雑誌の2019年3月号に次の言葉が書いてあった。ノートに書いておくぞ。
師や先からの回答を鵜呑みにすると「気づきの成長」を止めてしまいます。先生の言葉はガイドであり、自分で気づきを得るための光です。自分の力で向かっていかなければいけないのです。そうすることで、主体的にものごとが見られるようになり、心の声に耳を傾け、自分にとっての正しい選択ができるようになります。いい悪いというのはすべて個人論に過ぎません。「この食べ物が血圧にいい」と言われても、みんな同じ効果を得られるわけではありません。それぞれが違う肉体と言う器と、違う真我というモーターを持っているのです。
福太郎:分かりやすい文章ですね。
佐平:少し話がそれるけど話しておきたい内容がある。『危機の二十年』からさらに引用するぞ。
現実主義が理想主義の行き過ぎを是正する手段として必要とされる時代はある。それはちょうど他の時代に理想主義が現実主義の不毛性に対抗するために必要とされるのと同じである。
理想主義と現実主義の対立は天秤のように均衡を得ようとして常に揺れており、あるいは均衡に近づこうとしあるいは均衡から離れようとするが、完全には均衡に達することはない。
福太郎:何ですか?これ。
佐平:E.H.カーは「5:5」と言ったがそうとは限らない。実際にはもっと流動的な可能性がある。
福太郎:と言うと?
佐平:西洋ではよくあることだ。例えばある時代に理想主義が唱えられたとする。理想主義が広まっていき、さらに時間がたって理想主義が行き過ぎるようになる。すると「いや現実主義が大切だ。我々はもっと現実を見なければならない。」と言う世論になって理想主義の行き過ぎを是正される。さらに現実主義が広がっていくと今度は現実主義が行き過ぎる。すると今度は「いや理想主義が大切だ。我々はもっと理想を持たなければならない。」という世論になって、現実主義の行き過ぎが抑えられる。こうやって長期的に見て正しい中庸がとられる。
福太郎:なるほど。面白いですね。
佐平:それに比べて日本はひとつの理念が掲げられると、どんどんそっちのほうに世論が動いていき、どんどん極端になっていく。そして最終的に破滅してから反省する。そしてその反省の内容も今度は逆の極端に流れるという反省の仕方になる。
福太郎:西洋のほうが中庸のとり方がうまいんですね。
佐平:そう思う。天秤は右に左に揺れるだろう。
福太郎:はい。
佐平:右に揺れて「5:5」の均衡から離れていくけれど、離れすぎて「3:7」になって右に傾きすぎると、今度は左に揺れ始め、「5:5」の均衡に近づこうとする。そして均衡を通り過ぎて均衡から離れていき「7:3」になって左に傾きすぎると、今度は右に揺れ始める。天秤は左右に揺れるがその中心には常に均衡という中庸があるんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:それと同じで社会も理想主義と現実主義の間を天秤のように揺れているというわけだ。「天秤のように均衡を得ようとして常に揺れている」とある通りだ。
福太郎:分かります。
佐平:『春秋左氏伝』昭公二十一年に次の記載があるぞ。
政治が寛大だと民は放漫になり、放漫になれば厳格によって締め直す。厳格で民が傷つけば今度は寛大によって緩める。寛大によって厳格を整え、厳格に寄って寛大を調えればそれで政治は和する。
佐平:これも似たようなことを言っている。寛大な政治が行き過ぎると厳格さで締め直し、厳格が行き過ぎると寛大さで緩める。
福太郎:ええ。理想と現実の話ではなく、寛大と厳格の話ですが、中庸のとり方は同じですね。
佐平:これも「天秤のように均衡を得ようとして常に揺れている」と言っていいだろう。
福太郎:このようにして中庸をとっていくんですね。
佐平:秦のあまりにも厳格すぎる法治に対して劉邦がとった寛大な法や逆に法が寛大すぎてたるみきった後漢の時代に対する曹操や孔明の厳格な政治は正しく中庸を執った例だ。
福太郎:ええ。
佐平:全ての場合ではないが多くの場合物事にはちょうどいい「中庸」というものがある。四書のひとつ『中庸』に次の言葉があるぞ。
現代語訳
孔子が言われた。「君子は中庸を守り、小人は中庸に反する。 君子が中庸を守るのは、君子はその時その場にふさわしい中庸を知っているからであり、 小人が中庸に反するのは、小人は自分の言行が世間に悪影響を与えることを恐れず極端に走るからだ。」

書下し文
仲尼曰く。君子は中庸し、小人は中庸に反す。君子の中庸は時に中すればなり。小人の中庸に反するは小人にして忌憚するなければなり。
佐平:さらに引用するぞ。
現代語訳
孔子が言われた。「中庸は優れている。中庸を行う人は少ない。」

書下し文
子曰く、中庸はそれ至れるかな。民よく久しくすること少なし。
佐平:さらに引用するぞ。
現代語訳
孔子が言われた。「中庸という道が世の中に行われないと私は知っている。知者は中庸を越えてやりすぎてしまい、愚者は中庸まで到達しない。中庸という道が世の中に明らかになっていないと知っている。賢者は中庸を越えてやりすぎてしまい、能力がない人は中庸まで到達しない。」

書下し文
子曰く、道の行われざるや、我これを知れり。知者は之を過ぎ愚者は及ばざるなり。 道の明らかならざるや、我これを知れり。賢者はこれに過ぎ、不肖者は及ばざるなり。
佐平:知者は能力に任せて中庸を超えて物事をやりすぎてしまう。
福太郎:分かります。
佐平:愚者はそもそも能力が足りないのでそもそも中庸まで到達しない。
福太郎:どっちも十分ではないんですね。
佐平:ああ。君子はちょうどよい中庸を行うと言うんだ。
佐平:さらに引用するぞ。
現代語訳
孔子が言われた。「天下国家を治めることができる人はいる。高い地位を辞退することができる人もいる。敵の軍に突撃することもできる人もいる。しかし中庸を行うことができる人はいない。」

書下し文
天下国家も均しくすべきなり。爵禄も辞すべきなり。白刃も踏むべきなり。中庸は能くすべからざるなり。
佐平:天下国家を治めるという優れた才能を持つ人はいる。、高い地位を辞退するという高潔さを持つ人もいる。、敵の軍に突撃するという勇敢さを持つ人もいる。これらは難しいと思われている。しかしできなくはない。しかし中庸を行うのはもっと難しい、と述べている。
福太郎:なるほど。我々日本人も正しい中庸をどう実現するか考えるべきなのかもしれませんね。
佐平:日本人は西洋に比べ中庸のとり方が下手だと思う。さっき言った通り理想と現実や寛大と厳格のように二つの価値観の間のちょうとよい中庸を取るのが正しいのだけれど、日本人はひとつの価値観を追求して極端に走る。中庸をとるのはは難しい。ひとつの価値観を盲目的に信じる方が簡単だからだ。
福太郎:ええ。
佐平:極端に走るといずれ危機が生じて滅亡する。日本人は滅亡すると反省するが今度は逆の極端に走る。
福太郎:そうですか。
佐平:例えば鎖国だ。元々戦国時代日本はポルトガルと貿易をしていた。しかしポルトガル人によって日本人が奴隷として売られたりしたため徐々に西洋との付き合いに距離を取るようになった。そして最終的に鎖国になる。
福太郎:そうですね。
佐平:外国との付き合いで適度な距離を取るという中庸なら良い。しかし鎖国と言う極端に走った。極端に走ると最終的に危機が生じる。
福太郎:ペリー来航ですね。
佐平:ああ。ペリー来航で国が亡びる直前までになってはじめて鎖国をやめた。
福太郎:確かに。
佐平:嘉吉の乱という事件があった。室町時代、六代将軍足利義教の時だ。
福太郎:はい。
佐平:義教が赤松家という大名の後継争いに介入した。それを怒った赤松家が将軍義教を殺害した事件だ。
福太郎:ええ。
佐平:この事件をきっかけに室町幕府は反省し他家への後継争いに一切介入しなくなった。
福太郎:反省したんですね。
佐平:確かに義教は愚かな人でその介入は極端であり間違っていた。
福太郎:はい。
佐平:しかし室町幕府は反省して今度は逆の極端に走った。
福太郎:最終的にどうなったんですか?
佐平:他家の後継争いに一切介入せず無為無策を決め込むようになった。そのためその後に起きた応仁の乱でも無為無策を決め込んだため長期間に及ぶ戦乱が続いてしまった。将軍義政が決断をしなかったのが長期化した原因だ。
福太郎:逆の極端に走ったんですね。
佐平:正しい中庸を執るのがいかに難しいかが分かる。
福太郎:そうですね。日本人は中庸が苦手かもしれません。でも西洋や中国でも似たようなことはないんですか?
佐平:ある。理想主義が行き過ぎてそして現実無視になる。現実を無視するから現実でうまくいかない。そこで理想をすべて捨ててしまい完全な現実主義になってしまう。そういうことは世界中で起こりえる。日本だけでなく他の地域でも生じる。
福太郎:そうですか。
佐平:『危機の二十年』から引用するぞ。
思考が願望に与える衝撃は、この最初の非現実的な構想が挫折した後にみられるものであり、それはとりわけ理想主義の時代の終焉を画するものである。すなわち願望に対するこの思考の衝撃こそ、一般に現実主義と呼ばれるものである。
福太郎:解説をお願いします。
佐平:「思考」とは現実分析のことだ。現実主義だ。
福太郎:ええ。
佐平:「願望」とは実現したい理想のことだ。理想主義だ。
福太郎:はい。
佐平:最初に人は現実をよくしたいという理想と目的を持つ。しかしその理想は願望であり現実を無視するため最終的に挫折する。理想主義が挫折した後に現実を突きつける現実主義による衝撃が見られるという。理想主義は現実主義による衝撃を受ける。
福太郎:分かります。
佐平:続いて引用するぞ。
初期段階での夢のような願望に対する反動を象徴するかのように、現実主義は批判的でいくぶんシニカルな性格を帯びる傾向にある。
福太郎:「シニカル」って何ですっけ?
佐平:「冷笑的」と言う意味だ。理想を掲げて実行したけど失敗して「どうせ理想なんか掲げても意味ないよ。」と理想を冷笑するという意味だ。
福太郎:なるほど。
佐平:中国でもあるぞ。孟子の時代は孟子に代表されるように理想主義を掲げた。まだ世の中が殺伐としていない時代だ。孟子は読んでみると分かるが、びっくりするくらい理想主義的だ。
福太郎:ええ。
佐平:しかし現実を無視して理想を掲げてもうまくいかない。そして中国の戦国時代も時代が下ると世の中はどんどん殺伐としてくる。それで韓非子や荘子の時代になると理想を捨ててしまう。韓非子は理想を捨て過度に現実主義になってしまう。荘子は理想により現実を良くするのをやめて世捨て人になる。
福太郎:韓非子と荘子はずいぶん趣が違いますが、理想を捨ててシニカルになるという点では一致していますね。
佐平:そういうことだ。「現実主義は批判的でいくぶんシニカルな性格を帯びる傾向にある。」とある通りだ。孟子のように「理想:現実」の比が「9:1」の理想主義を掲げて失敗し、今度は韓非子のように「1:9」の現実主義になってしまう。ひとつの極端からもうひとつの極端にぶれてしまう。
福太郎:ええ。
佐平:確かにあまりに理想主義に過ぎると現実でうまくいかない。失敗をする。しかしだからと言ってあまりに現実主義に過ぎると、これも一時的に成功することはあっても長続きしない。さらに正義として名を残さない。董卓や袁術のようになってしまう。
福太郎:ええ。
佐平:結局過度の理想主義も過度の現実主義も似たようなものだ。両極にぶれるより最初から「理想:現実」の比を「5:5」とか「6:4」にしておけば現実でもうまくいき、さらに正義として名を残すことも可能なんだ。
福太郎:やはり中庸が大事なんですね。
佐平:でも話がそれたな。元々は根本と末節の話だったな。根本が理想で末節が現実だ。根本と末節では根本のほうが重要だが、末節も軽視してはいけないという話だった。
福太郎:そのスタンスは先輩のスタンスですね。確かにそのスタンスだと「根本:末節」が「6:4」になってるな。
佐平:ああ。古代ギリシャの格言に次の言葉がある。この言葉に根本と末節の正しい関係が表れている。
賢者にあっては金は良き召使であり、愚者にとっては冷酷な主人である。
佐平:賢者は金を本当の意味で自分を高めるため、世の中を良くするために使う。金は手段だから「召使」なんだ。そして良いことに使うから「良き」召使だ。
福太郎:なるほど。
佐平:愚者においては金は目的だから「主人」だ。そういう人は寒々とした人生を送るので「冷酷な」主人だ。
福太郎:分かる気がします。
佐平:金は末節ではあるが根本を備えた賢者が使うと自分を本当の意味で高めたり社会を良くする会社を起こしたりできる。
福太郎:末節が有効に使われますね。大きな力を発揮します。
佐平:根本を備えない愚者が金を得ても世の中は良くならず当人にとっても必ずしもプラスになるとは限らない。
福太郎:ええ。
佐平:要は根本を備えた人が末節も備えると末節は非常に大きなプラスの力を発揮する。末節を軽視してはいけない理由がここにある。
福太郎:分かります。
佐平:根本を備えない人が末節を充実させるとそれはすでに述べた「末節が勝つ」状況になる。
福太郎:金を主人とする人たちですね。
佐平:そうだ。『言志四録』の『言志後録』二十三に次の言葉があるぞ。
現代語訳
君子も利害の話をする。しかしそれは道義に基づく。 小人も道義の話をする。しかしそれは利害に基づく。

書下し文
君子も亦利害を説く。利害は義理に本づく。小人も亦義理を説く。義理は利害に本づく。
佐平:君子も利益について語る。しかしそれは道義を実現するための手段として語る。
福太郎:はい。
佐平:小人も道義を語る。しかしそれは自分の利益や私欲を実現する手段として語る。
福太郎:なるほど。
佐平:『荀子』修身篇に次の言葉があるぞ。
現代語訳
君子は物を使うが、小人は物に使われる。

書下し文
君子は物を役し、小人は物に役せらる。
福太郎:あっ!分かりました。さっきのギリシャの格言と同じですね。賢者にとって金は召使だったのと同じで、君子にとっても物は召使なんですね。
佐平:ああ。
福太郎:そして愚者にとっては金は主人だったように、小人にとっては物が主人なんですね。
佐平:そうだ。
福太郎:なるほど。
佐平:『論語』公冶長篇に次の言葉があるそ。
現代語訳
孔子が言われた。「私は剛の者を見たことがないね。」或る人が答えて言った。「申トウがいますよ。」孔子が言われた。「申トウには欲がある。剛の者とは言えない。」

書下し文
子曰く、吾未だ剛者を見ず。或る人答えて曰く申トウと。子曰くトウは欲あり。焉んぞ剛たるを得ん。
福太郎:「申トウ」って誰?
佐平:誰かよく分かってないんだ。おそらく三国志の魏延みたいな人だろう。威勢がいい人。ヤクザみたいな人。
福太郎:ヤクザみたいな人は剛の者のように確かに見えますね。
佐平:でも孔子は否定した。
福太郎:「欲があるから」と言ってますね。欲があったら剛の者ではないんですか?
佐平:これに関して『論語集注』に次の言葉があるそ。
現代語訳
程子が言われた。「多欲であれば剛の者ではない。剛の者であれば多欲に屈しない。」謝氏が言った。「剛と多欲は正反対のものである。物の誘惑に勝つのを剛と言う。それゆえ常に万物の上に位置する。物に蔽われてしまうのを多欲と言う。それゆえ常に万物の下に屈する。」

書下し文
程子曰く。人欲有れば則ち剛無し。剛なれば則ち欲に屈せず。謝氏曰く。剛と欲は正に相い反す。能く物に勝つ、これを剛と言う。故に常に万物の上に伸ぶ。物に蔽わるるをこれ欲と言う。故に常に万物の下に屈す。
福太郎:なんかよく分かりませんね。
佐平:さっきのギリシャの格言と同じことを言ってるんだ。剛の者は金などの物より上に位置する。物の誘惑に勝つからだ。
福太郎:なるほど。物より上だから物に使われるんじゃなくて物を使うんですね。物が召使。
佐平:そうだ。剛の者ではない人は金などの物より下に位置する。物の誘惑に負けるからだ。
福太郎:はい。物より下だから物を使うんじゃなくて物に使われるんですね。物が主人。
佐平:その通りだ。金などの物のために自分の志を捨ててしまうかもしれない。それでは剛の者とは言えない。
福太郎:物の誘惑に勝つのが剛の者の条件なんですね。
佐平:ああ。少し付け足しとく。『言志四録』の『言志耋録』八十に次の言葉があるぞ。
現代語訳
優れた英気は天地の間のもっとも優れた気である。聖人はこの英気を内に包んで外に表さない。 賢者は時々外に表す。豪傑の士はこの英気を全て表す。

書下し文
英気はこれ天地精英の気なり。聖人はこれを内に包みて敢えてこれを外に現わさず。賢者は則ち時々これを現わし、自余の豪傑の士は全然これを現わす。
佐平:『三国志』の魏延みたいな豪傑は一見非常に勇敢だ。そして実際勇敢でもある。でも孔明のように一見穏やかに見える人は魏延より勇敢ではないのだと言うとそれは違う。孔明はその勇敢さを内に包んでいるんだ。
福太郎:なるほど。分かりました。
佐平:では休憩するぞ。

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■上部に掲載の画像は山下清。

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