『大学』における根本と末節

佐平:物事に順番があるというのはとりあえずいいな?
福太郎:はい。
佐平:これは儒教の『大学』という書物に書いてある。
福太郎:『大学』?本の名前ですか?
佐平:そうだ。四書のひとつだ。
福太郎:四書?聞いたことはありますが。
佐平:四書は『論語』『大学』『中庸』『孟子』の四つの書物で儒教の基本が書かれている重要な書物だ。
福太郎:五経というのも聞いたことあります。
佐平:五経は『書経』『詩経』『易経』『春秋』『礼記』の五つの書物で儒教の奥義が書かれている。
福太郎:そうなんですね。
佐平:四書は比較的わかりやすく五経は難解だとされている。オレは四書は全部読んだが五経はまだ全部は読んではいない。
福太郎:で、『大学』に物事の順番が書かれているんですか?
佐平:そうだ。ノートに書くぞ。
現代語訳
物事には根本と末節があり、事柄には最初に生じることと最後に生じることがある。何が先であり何が後であるかを知れば、道を知ったのに近い。

書下し文
物に本末あり、事に終始あり、先後する所を知れば則ち道に近し。
福太郎:書き下し文は読まないといけないんすか?
佐平:読まなくてもいい。現代語訳だけで意味が通るように説明する。
福太郎:そうですか。
佐平:しかし自分でもこれから中国思想を読んでいくのであれば書き下し文も読んだほうがいい。応用が効く。
福太郎:分かりました。
佐平:ああ。
福太郎:この引用、何か分かったような、分からんような。
佐平:世の中にはたくさんの物事があるな?
福太郎:そりゃそうです。
佐平:しかし物事はバラバラに存在しているのではない。
福太郎:というと?
佐平:たとえば「A」「B」「C」「D」「E」と五つの物事がある。図で示すぞ。



佐平:一見これらはバラバラに存在しているかのようだが、実はそれらはバラバラに存在しているとは限らない。
福太郎:もしかしてさっき言ってた物事の順番ですか?
佐平:そうだ。例えば「B→A→C→E→D」という順番で物事が生じている場合がある。
福太郎:さっきの話はそうでしたね。
佐平:図を載せておくぞ。



佐平:『大学』では「物事には根本と末節がある」と言っている。つまり物事には根本的な物事と枝葉末節的な物事があるというのだ。
福太郎:何か具体例があったほうがいいな。
佐平:例えばさっきの木村拓哉さんがモテる話を思い出せ。木村さんはモテるがそれは木村さんがかっこいいからだな?
福太郎:ええ。
佐平:「木村さんがかっこいい」→「木村さんがモテる」という順番だ。「木村さんがかっこいい」が根本原因だ。「木村さんがモテる」が枝葉末節的な現象だ。他の人にも当てはまるように一般的に言うと「かっこよさ」が「モテる」ための根本であって、逆に「モテる」のは「かっこよさ」から派生する末節なのだ。



福太郎:ええ。
佐平:『論語』学而篇に次の言葉があるぞ。ノートに書いておく。
現代語訳
君子は根本を大切にする。根本が充実すれば物事は自然にうまくいく。

書下し文
君子は本を務む。本立ちて道生ず。
福太郎:君子って何ですか?
佐平:道徳的に正しい人とか賢者という意味だ。
福太郎:賢い人は根本を重視すると言うんですね。
佐平:そうだ。
福太郎:根本が充実すれば末節も自然と充実するというわけですか。
佐平:そうだ。根本を備えると自然と末節が備わってくる。「自然な力」が働くんだ。「木村さんがかっこいい」という根本から「木村さんがモテる」という末節が自然と導かれる。



福太郎:そうですか。例が微妙ですけど。
佐平:でもわかりやすいだろう。
福太郎:ええ。
佐平:おまえ去年同じクラスの花子さんにフラれただろう。
福太郎:人の心の傷をえぐるのはやめてください。せっかく傷が癒えてきたところですから。
佐平:お前がフラれたのはおまえがかっこよくないからだ。
福太郎:やかましい。
佐平:「かっこよさ」が「モテる」ための根本なのに、おまえにはその「かっこよさ」がない。おまえはモテるための要素が根本的にないということだ。
福太郎:うるさい。冷静に分析するな。先輩だって同じじゃないですか。
佐平:でも分かりやすいだろう。
福太郎:そうですけど。
佐平:他の例も挙げる。前回の会社の例だ。
福太郎:ええ。



佐平:会社の①技術力、②良い商品、③営業の成果、④売上、⑤利益は一見それぞれバラバラに生じているように見える。
福太郎:はい。部署も違いますしね。開発部門、製造部門、営業部門、販売部門、経理部門。
佐平:しかし本当はバラバラに存在している現象ではない。
福太郎:前回の話ではそうでした。
佐平:前回述べたように「技術」→「商品」→「営業」→「売上」→「利益」という順番がある。



佐平:そしてそれぞれの間には自然な力が働くんだ。



福太郎:確かに。
佐平:『大学』の「事柄には最初に生じることと最後に生じることがある。」というのはこれを指している。
福太郎:①の技術力が「最初に生じること」で⑤の利益が「最後に生じること」ですね?
佐平:そうだ。そして「何が先であり何が後であるかを知れば、道を知ったのに近い。」とある。「技術」→「商品」→「営業」→「売上」→「利益」という順番が存在するを知れば「何が先であり何が後であるか」を知ったことになり道を知ったのに近いと言うのだ。
福太郎:「技術」が先ですね。「商品」「営業」「売上」と続いて「利益」が最後。
佐平:そうだ。中国に「一了百了」という言葉がある。
福太郎:「一了百了」?
佐平:ああ。ひとつの問題が解決すると百の問題がそれにつれて解決するという意味だ。
福太郎:そうですか。
佐平:ひとつの根本問題が解決すると連鎖的に末節的な問題が解決する。ここでは①の良い技術が得られて解決すれば②良い商品、③営業の成果、④売上、⑤利益は連鎖的に解決する。
福太郎:なるほど。「道を知る」とは?
佐平:「道を知る」というのは「真理を知る」という意味だ。
福太郎:この順番を知っただけで「真理を知ったのに近い」のですか?
佐平:これだけではもちろん納得しないだろうな。しかし最後までオレの話を聞けば「なるほどそうか」と納得するはずだ。
福太郎:そうですか。わかりました。とりあえず話を続けましょう。
佐平:肩こりの例も解説しておこう。



福太郎:これは分かります。①→②→③→④→⑤のうち①の体の使い方が最初で②③④と続いて⑤の頭痛が最後ですね。すべて「自然な力」が働いてます。
佐平:そうだ。「体の使い方が悪い」と自然と「姿勢が悪くなる」。「姿勢が悪くなる」と自然と筋肉に「無駄な力が入る」。「無駄な力が入る」と自然と「筋肉が硬くなる」。「筋肉が硬くなる」と自然と「頭痛になる」。
福太郎:根本と末節という話でいうと①→②→③→④→⑤のどれが根本でどれが末節ですか?①と②が根本で③④⑤が末節?
佐平:『近思録』という本がある。中国の宋の時代の本で有名な本だ。朱熹という人が編纂した。朱子学の基本書だ。それに次の言葉がある。ノートに書くぞ。
現代語訳
物事には根本と末節があるが、ここからここまでか根本でここからここまでが末節とはっきり二つに分けてはいけない。

書下し文
凡そ物には本末有るも、本末を分かちて両段と為すべからず。

福太郎:どういう意味っすか?
佐平:おまえがさっき「①と②が根本で③④⑤が末節」と言っただろう。そういうふうに「ここからここまでか根本でここからここまでが末節」とはっきり二つに分けてはいけないという意味だ。
福太郎:ではどう考えればいいんすか?
佐平:根本と末節は相対概念と考えるべきだ。
福太郎:相対概念?
佐平:②の「姿勢が悪くなる。」は①の「体の使い方が悪い。」に対しては末節だ。常に片足に体重をかけるなど体の使い方が悪いと姿勢が悪くなるからだ。①の「体の使い方が悪い。」が根本原因だ。しかし②の「姿勢が悪くなる。」は③の「筋肉に無駄な力が入る。」に対しては根本だ。姿勢が悪いと常に筋肉に無駄な力が入ってしまうからだ。



福太郎:ええ。
佐平:要は②の「姿勢が悪くなる。」は①の「体の使い方が悪い。」に対しては末節で③の「筋肉に無駄な力が入る。」に対しては根本だ。②は根本にも末節にもなり得る。根本と末節というのは相対概念というわけだ。
福太郎:なるほど。分かりました。
佐平:さっきの会社の例でも話しておく。③の「営業がうまくいく。」というのは②の「良い商品」に対しては末節だ。良い商品があってこそ営業がうまくいくからだ。しかし③の「営業がうまくいく。」は④の売上に対しては根本だ。営業がうまくいってこそ売上が上がるからだ。やはり根本と末節は相対概念なのだ。



福太郎:はい。分かります。
佐平:『大学』からさらに引用するぞ。ノートに書いておく。
現代語訳
根本がでたらめでありながら末節が治まった場合はない。努力すべき根本を手薄にして、手薄でもよい末節が充実した例はかつてない。これを根本を知ると言い、これを知のきわみと言う。

書下し文
その本乱れて末治まる者はあらず。その厚かるべき者薄くして、その薄かるべき者厚きは、未だこれ有らざるなり。此れを本を知ると謂い、此れを知の至まりと謂うなり。
佐平:会社の例で考える。一応ノートをもう一度見るぞ。



佐平:③の営業に対して①の優れた技術②良い商品は根本だ。「根本がでたらめでありながら末節が治まった場合はない。」というのは、良い技術、良い商品という根本がでたらめであれば営業という末節はうまくいかないという意味だ。
福太郎:ダメな営業の人がよく言うセリフだ。「商品が悪いのに売れるわけないよ」というやつ。
佐平:まあそうだな。本当は商品はとてもいいのに営業が下手で売れない場合というのは実際ある。その下手な営業の人の言い訳に使われそうな言葉だ。商品が良くても営業は必死で努力しなければ売れない。しかし本当に商品がろくでもない場合は営業してもうまくいかないだろう。
福太郎:そうですね。でも疑問ですが『大学』では「末節は手薄でもよい」と書いてありますね。でも先輩は末節の営業も必死で努力する必要があると言いました。どっちが正しいんですか。
佐平:①②の良い技術、良い商品という根本が充実すると③の営業という末節がうまくいくための「自然な力」が働く。だから営業は手薄でもうまくいくというのが儒教の考えだ。でも実際には商品が良くても営業が下手で売れずに終わってしまう商品というのもたくさん存在する。
福太郎:確かに質の良いお気に入りのレストランもどんどんつぶれていくからなあ。あれブルーになるな。もっと宣伝したらいいのにと思う時あるな。
佐平:そうだろう。良い商品やサービスをもっている企業はがんばって営業する必要がある。良い商品があるから営業は不要というのではなく、逆に良い商品をもっているからこそ世の中に知ってもらう必要があり営業をがんぱる必要があるんだ。たしかに根本は末節より大切だ。しかし末節も軽視してはいけないとオレは思うのだ。
福太郎:儒教の考えと先輩の考えは若干違うというわけですか?
佐平:そうだ。その点は後から解説する。
福太郎:分かりました。ひとつ質問ですが根本と末節の関係は単なる因果関係とは違うんですか?根本が原因で末節が結果ですよね。
佐平:違う。根本と末節には単なる因果関係と違って「自然な力」が働く。
福太郎:例が必要ですね。
佐平:例えば我々は面白いから笑う。
福太郎:ええ。
佐平:「面白い」が根本で「笑う」が末節だ。
福太郎:はい。
佐平:そこには自然な力が働いている。
福太郎:ええ。



佐平:しかしドリフとかコメディでは笑うべきところに最初から笑い声が録音されていたりする。
福太郎:ありますね。
佐平:すると我々もその場面が面白いと思って笑う。「笑う」→「面白い」だ。末節と根本が逆になっている。
福太郎:はい。
佐平:これは少し強引な方法だ。
福太郎:分かります。



佐平:自然な流れが「根本→末節」の流れで、「末節→根本」は強引な方法だ。
福太郎:はい。
佐平:単なる因果関係であれば「根本→末節」も「末節→根本」も因果関係なんだ。でも自然な力が働くか強引かで「根本→末節」と「末節→根本」は区別される。
福太郎:はい。
佐平:とりあえず今回は以上だ。物事には根本と末節があり順番がある。それは儒教の『大学』という経典に書いてあるというのがまとめだ。
福太郎:分かりました。
佐平:この辺で休憩するぞ。

続きは根本と末節の具体例1をご覧ください。


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■上部に掲載の画像は山下清「ほたる」。

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