儒教の偽凡性

佐平:根本と末節についてたくさん例を挙げて解説したが少し復習だ。「仁徳→人材→土地→財力→大業」の根本と末節の連鎖は覚えているか?
福太郎:え~っと。これだ。
現代語訳
君子はまず徳を充実させる。徳があれば自然に有能な人々が帰服し、有能な人々が帰服すれば領地が得られる。領地が得られれば財物が豊かになり、財物が豊かになれば大業が起こる。徳が根本であり、財物は末節である。

書下し文
君子は先ず徳を慎む。徳あれば此に人あり、人あれば此に土あり、土あれば此に財あり、財あれば此に用あり。徳は本なり、財は末なり。
佐平:そうだ。将来帝王になる人たちが必ず通る道、必ずだどる順番だ。
福太郎:そうでした。
佐平:「誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」は覚えているか?
福太郎:これも帝王学でしたね。確かノートにあった。・・・これだ。
いにしえの時代に自らの聖人の徳を天下に明らかにしようとした人は、まず自分の国を治めた。自分の国を治めようとしたひとは、まず自分の家を和合させた。自分の家を和合させようとした人は、わが身を修めた。わが身を修めようとした人は、まず自分の心を正しくした。自分の心を正しくしようとした人は、自分の意を誠にした。 意が誠になってこそはじめて心が正しくなる。心が正しくなってこそ、はじめてその身が修まる。その身が修まってこそはじめて家が和合する。家が和合してはじめて国が治まる。国が治まってはじめて天下が平らかになる。

書下し文
古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉う。その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。意誠にして後、心正し。心正しくして後、身修まる。身修まりて後、家斉う。家斉いて後、国治まる。国治まりて後、天下平らかなり。
佐平:そうだ。これも帝王になる人がたどる順序だったな。
福太郎:はい。
佐平:「良い技術→良い商品→営業→売上→利益」は覚えているか?
福太郎:これは読んで字の如くですね。ノートにあった。企業活動です。



佐平:優れた技術があるから良い商品ができる。良い商品があるから営業がうまくいく。営業がうまくいくから売上が上がる。売上が上がるから利益が生じる。
福太郎:そうでしたね。
佐平:これらの例に共通しているのは、根本と末節の順番と連鎖をよく理解したうえで物事を進めていけば、物事は無理なく自然にうまくいくという点だ。
福太郎:言っていることは分かりますけど。全部当りまえのこと言ってますよね。
佐平:その通りだ!!!!
福太郎:うわぁ!何すか?急にでかい声だして。
佐平:よく気づいたな!!これは当り前を述べているんだ。
福太郎:・・ええ。そうですよね。
佐平:「良い技術→良い商品→営業→売上→利益」は普通の企業活動だ。「仁徳→人材→土地→財力→大業」も当り前だ。「誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」も当り前。これをもう一度確認するぞ。
福太郎:はい。
佐平:ノートを見返すぞ。
現代語訳
いにしえの時代に自らの聖人の徳を天下に明らかにしようとした人は、まず自分の国を治めた。自分の国を治めようとしたひとは、まず自分の家を和合させた。自分の家を和合させようとした人は、わが身を修めた。わが身を修めようとした人は、まず自分の心を正しくした。自分の心を正しくしようとした人は、自分の意を誠にした。 意が誠になってこそはじめて心が正しくなる。心が正しくなってこそ、はじめてその身が修まる。その身が修まってこそはじめて家が和合する。家が和合してはじめて国が治まる。国が治まってはじめて天下が平らかになる。

書下し文
古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉う。その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。意誠にして後、心正し。心正しくして後、身修まる。身修まりて後、家斉う。家斉いて後、国治まる。国治まりて後、天下平らかなり。
佐平:「自らの聖人の徳を天下に明らかにしようとした人は、まず自分の国を治めた。」とある。天下を太平にするする人はまず自分の国を治めた、というわけだ。これは当たり前だ。自分の国を治めきれない人が天下を太平にするわけがない。
福太郎:そうですね。
佐平:そして「自分の国を治めようとしたひとは、まず自分の家を和合させた。」と続く。これも当たり前だ。自分の家を和合できない人が自分の国を治められるはずがない。
福太郎:たしかに。
佐平:「自分の家を和合させようとした人は、わが身を修めた。」と続く。これも当たり前だ。自分の道徳を修養せずに家を和合できるわけがない。
福太郎:そうですね。
佐平:要は当り前の積み重ねなのだ。当り前の積み重ねが実は儒教の本質なのだ。
福太郎:・・・・・なるほど。分かった!はいは~い!
佐平:どうした?
福太郎:オレも毎日当たり前を積み重ねて生きてます。オレの生活も儒教の本質ですね!!
佐平:馬鹿やろう。それは凡人の日常だ。
福太郎:ガクッ・・!!そうなのか。
佐平:儒教が非凡なのは「当たり前を積み重ねて当たり前ではないことを実現する」点にあるんだ。
福太郎:当り前じゃないことを実現する・・?
佐平:そうだ。「誠意→正心→修身→家斉→治国→平天下」は当たり前の積み重ねだが、最終的には「天下に太平をもたらす」という当たり前ではないことをもたらすだろう。
福太郎:ええ。
佐平:そこが凡人の日常と違うのだ。我々の生活は「当たり前を積み重ねて当たり前を実現する」だけだ。儒教は凡人の日常と一見区別がつきにくいのだ。
福太郎:なるほど。
佐平:儒教を読んでいて眠たくなるのは、ここに原因がある。儒教を理解すると一見平凡な文章の中の深い含蓄が理解できるようになるが、儒教の非凡さに気づくのはそれなりに難しい。
福太郎:うん。少しわかる気がする。
佐平:オレも最初儒教を読んだときは、こんなに眠い思想が存在するのか、と愕然とした。何度読んでもその良さが分からなかった。
福太郎:今のオレの状態だな。
佐平:当り前の積み重ねだからこそ自然とうまくいくのだ。当り前ではないことが当り前に実現できる。当たり前ではないことを「自然に」「無理なく」「当たり前に」行うための知恵が儒教にはあるんだ。
福太郎:そういうもんですか。
佐平:奇策であれば確かに面白いが、やってみないとうまくいくかわからない場合もあるだろうし、道徳的な問題が生じるかもしれない。
福太郎:権謀術数ですか。
佐平:高遠な思想だと地に足がつかずうまくいかないかもしれない。
福太郎:たしかプラトンも現実では失敗者でした。
佐平:でも当たり前のステップに還元された思想は、実に当たり前に結果が出るんだ。非常に正統派の地に足のついた思想なんだ。
福太郎:でも確か孔子も孟子も現実では失敗者ですよね。
佐平:確かにそうだ。でも中国思想の創始者のひとり周の文王は成功者だ。
福太郎:そうですか。
佐平:オレの考えでは諸葛孔明の政策の背景思想には儒教があると考えている。
福太郎:三国志の諸葛孔明ですね。
佐平:儒教の思想を用いて現実を改善した人は歴史に残っている人と残ってない人合わせると恐らく大量にいるだろう。
福太郎:でも現代では儒教はあまり人気ないですよ。オレの周りで思想よむ人たちの間でも東洋思想を読むなら仏教だという人多いですね。
佐平:儒教は当たり前を述べるから高遠な思想家からは評価されづらいんだ。仏教徒の一部やヘーゲルのような高遠な思想家は、儒教は通俗的な道徳の範囲を超えないと批判する。
福太郎:実際現代日本でもそういう人多いですよ。
佐平:でも本当は実は儒教は非常に含蓄が深いのだ。儒教はじつは偽凡的なんだ。
福太郎:偽凡的?
佐平:そうだ。一見平凡に見えるという意味だ。
福太郎:そうですか。
佐平:すこし余談だ。「当たり前を積み重ねる」というのは論文を書くときも重要な考えなんだ。
福太郎:どういう意味ですか?
佐平:オレは論文を書くのが趣味なのだが、最も理想的なのは「当たり前の推論を積み重ねて当たり前でない結論を論証する」論文なんだ。
福太郎:ほう。
佐平:その時論文は最も説得的で意義ある論文になる。
福太郎:その心は?
佐平:まず、「当たり前を積み重ねて当たり前の結論を論証する」論文は意味がない。これは常識を再確認しただけだな。
福太郎:そうですね。
佐平:それと反対に「当たり前ではない結論」主張しながら「当たり前の推論」に還元されていない論文は、センセーショナルなだけで、重要な根拠が抜け落ちているはずだ。
福太郎:分かります。
佐平:最も良い論文は「当たり前の推論を積み重ねて当たり前でない結論を論証する」論文である。
福太郎:そういう論文は誰も気づかなかったことを指摘していて、さらに十分な根拠に基づいているんですね。
佐平:そうだ。
福太郎:分かりました。
佐平:話を戻す。『近思録』致知篇に次の言葉がある。ノートに書いておくぞ。
現代語訳
聖人の言葉は確かに天のように高遠だが、しかし同時に地のように身近でもある。

書下し文
聖人の言は其の遠きこと天の如く、其の近きこと地の如し。
福太郎:どういう意味ですか?
佐平:聖人は非常にレベルが高い。
福太郎:そうでしょうね。
佐平:だからその思想は自ずと高遠になる。我々凡人には理解するのが難しいのだ。
福太郎:ええ。
佐平:しかし聖人はみんなに分かるように身近なことに例えて話す。
福太郎:はい。
佐平:だから高遠でありながらも同時に身近で分かりやすいというわけなんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:だから「天のように高遠だが地のように身近だ」というのだ。
福太郎:分かりました。
佐平:おまえMr.Childrenは聴くか?
福太郎:ヒット曲しか知らないです。
佐平:そうか。
福太郎:どうかしたんですか?
佐平:Mr.Childerenに『Discovery』というアルバムがある。「終わりなき旅」という曲が入っているアルバムだ。
福太郎:「終わりなき旅」は知ってます。いい曲ですね。
佐平:そうだろう。もうひとつ好きな曲が入っていて「ラララ」という曲があるんだ。
福太郎:その曲は知りません。
佐平:歌詞をノートに書くぞ。
太陽系より果てしなく
コンビニより身近な
そんな La La La そんな La La La
探してる 探してる
佐平:太陽系のように果てしなくかつコンビニより身近な「何か」を常に探している、という意味だ。「天のように高遠だが地のように身近だ」という『近思録』の言葉と相通じるものがあるだろう。
福太郎:そうですね。
佐平:この歌詞はオレもとても共感する歌詞だ。次の歌詞もある。ノートに書くぞ。
参考書より正しく
マンガ本よりも楽しい
そんな La La La そんな La La La
探してる 探してる
福太郎:いい歌詞ですね。
佐平:この歌詞もとても共感する歌詞だ。
福太郎:ええ。オレも共感します。
佐平:参考書やマンガ本は中学生や高校生など若い人が読むものだ。こんな歌詞もある。
明日を生きる子供に何を与えりゃいい?
僕にできるだろうか。
佐平:作詞者は明らかに若い人々を心配し時代を憂えて国を憂えている。
福太郎:そう思います。
佐平:伊藤仁斎の『童子問』から引用するぞ。
福太郎:伊藤仁斎?
佐平:江戸時代の日本の儒者だ。
福太郎:日本の儒者ですか。
佐平:京都に伊藤仁斎の塾の跡が残っていて見てきたぞ。
福太郎:お。さすが。
佐平:レンタサイクルだ。小回りが利くぞ。
福太郎:はいはい。
佐平:引用する。ノートに書くぞ。
現代語訳 高いところにいる者は低いところを見る。 だからその言葉は身近な表現になる。
低いところにいる者は高いところを見る。だからその言葉は高遠な表現になる。

書下し文
髙きに居る者は低きを見る。故にその言低からざるを得ず。
低きに居る者は高きを見る。故にその言高からざるを得ず。

福太郎:なるほど。一理ありますね。あくまで一理ですけど。高遠な思想も大事だと思いますが。
佐平:儒教は高遠であると同時に身近である思想を目指すというのがこの言葉からもわかるだろう。
福太郎:ええ。
佐平:『中庸』に次の言葉があるぞ。ノートに書いておく。
現代語訳
君子の道は一見とても分かりやすいが実は非常に奥深く難しいのである。あまり賢くない人でも道を理解することができるが、その奥義は聖人でも理解できないところがある。あまり立派ではない人でも道を行うことができるが、その究極は聖人でも行うのが難しいところがある。

書下し文
君子の道は費にして隠なり。夫婦の愚も以て与り知るべきも、その至れるに及んでは聖人と雖もまた知らざる所あり。 夫婦の不肖も以て能く行うべきも、その至れるに及んでは聖人と雖もまた能くせざる所あり。
福太郎:「道」は真理と思えばいいんですね。
佐平:そうだ。『中庸』から引用するぞ。ノートに書いておいた分だ。
現代語訳
孔子が言われた。「道は人から遠いものではない。道と言われていながら人から遠いのであれば、そもそもそれは道とは呼べないのだ。」

書下し文
子曰く。道は人に遠からず。人の道を為して人に遠きは以て道と為すべからず。
佐平:さらに『中庸』からの引用だ。ノートを見返すぞ。
現代語訳
道というものは、かた時も人から離れないものである。離れてしまうものはそもそも道ではないのである。

書下し文
道なる者は須臾も離るべからざるなり。離るべきは道に非ざるなり。
福太郎:これ前に引用した文章ですよね。
佐平:今回は前回引用した時とは少し違う文脈での解釈になる。
福太郎:別の解釈も可能と言うんですか。
佐平:そうだ。
福太郎:どうなります?
佐平:高遠な思想を読んだことあるか?
福太郎:あります。ヘーゲルの『精神現象学』です。
佐平:どうだった?
福太郎:よく分かりませんでした。
佐平:高遠な文章は一時的に理解できてもすぐ自分から離れていくだろう。
福太郎:そうですね。
佐平:そのように自分から離れてしまうものはそもそも道とは言えないというのだ。
福太郎:でも高遠な文章も人を啓発するものだと思いますが。
佐平:その通りだ。しかし理解しやすい思想こそ真理に近いというのも一理あるだろう。
福太郎:一理ですけどね。
佐平:『論語集注』に次の言葉があるぞ。
現代語訳
聖人が人に教えるときは相手のレベルまで下りて来て教える。高遠に過ぎると考えて人々が思想を身近に感じないのを恐れるからだ。賢人は逆に自分自身を高めて表現する。そうしないと道の高遠さが明らかにならないからだ。

書下し文
聖人の人を教えるに俯して之に就くこと此の如し。猶お衆人の以て高遠なりと為して親しまざるを恐るるなり。賢人の言は則ち引いて自ら高くす。此の如くならざれば、則ち、道尊からず。
佐平:聖人は相手のレベルまで下がってきて教える。だから教えを受ける側は思想を身近に感じることができる。
福太郎:ええ。
佐平:それに対して賢人は高遠な思想を高遠な表現で述べる。それにも長所があって、高遠に思想を述べることで教えを受ける側は高遠な思想があるということを知るんだ。
福太郎:なるほど。
福太郎:向上と向下という思想が仏教にあるらしい。引用する。
禅宗で迷いの境からさとりの境へ入るのを向上門といい、さとりの境からでて迷いの境中に順応していくのを向下門という。向上と向下が具わらなければ真のさとりではない。
佐平:迷いの世界と言う下の世界からさとりの世界と言う上の世界に向かうのが「向上」らしい。
福太郎:なるほど。
佐平:そして人々を導くためにさとりの世界から迷いの世界におりていくのを「向下」と言うらしい。
福太郎:我々には分からない境地ですがでも儒教と共通する点もあるようですね。
佐平:そうだな。和光同塵という言葉もある。もともと老子の言葉だが仏教に取り入れられている。引用する。
光を和らげて塵に同じるの意。仏や菩薩がさとりの智慧の光をかくして衆生を救うために仮に煩悩の塵に同じて世俗の間に生まれ、衆生を次第に仏法へ引き入れることを言う。
福太郎:おもしろいですね。
佐平:これも我々には分からない境地だが、やはり儒教と共通点があると思う。
福太郎:そうですね。
佐平:謡曲『敦盛』に次の言葉がある。
それ春の花の樹頭に上るは上求菩提の機をすすめ、秋の月の水底に下るは下化衆生の相を表す。
福太郎:どういう意味ですか?
佐平:春の花が樹の上に咲くのは悟りを求め高い世界を目指すことを表していて、秋の月が水の底に映るのは悟った人が人々を導くために俗世に降りてくるのを表すと言うんだ。
福太郎:素晴らしい詩句ですね。
佐平:SMAPの「たいせつ」という曲がある。
福太郎:知ってます。
佐平:次の歌詞がある。
真実は人の住む街角にある。
福太郎:なるほど。
佐平:我々一般人の中で生きた思想こそが「たいせつ」なのだ。
福太郎:思想は分かりやすく書く必要があるんですね。
佐平:そうだ。人々の中で生きた思想を目指すというのが儒教の本質のひとつだ。
福太郎:儒教でも難しい思想ありますけどね。
佐平:もちろん。儒教も高遠なものを否定しているわけではない。でも「身近さ」も重視している。
福太郎:分かりました。
佐平:よし、休憩だ。

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