天と性善

佐平:それでは続けるぞ。今回は少し難しい話だ。分からなくても全体の理解には影響しない。分からない場合は聞き流してくれ。
福太郎:ええ。
佐平:性善説と性悪説だ。聞いたことあるだろう。
福太郎:人間は善か悪かという争いですか。
佐平:そうだな。「性善説」の「性」というのは「人間本性」という意味だ。だから人間の本性が善か悪かという問題だ。
福太郎:はい。
佐平:どう思う?善か悪か。
福太郎:そうですね。自分自身を振り返ると善の側面も確かにありますが、悪の側面もあります。半分半分というのが実際のとこですね。
佐平:儒教では孟子が性善説を唱えた。そして荀子が性悪説だ。そして朱子学では性善説の孟子を正統とする。性悪説の荀子が異端だ。
福太郎:ということは儒教は性善説を採ると考えていいんですね。
佐平:そうだ。
福太郎:でも性善説ってダサいですよ。馬鹿正直というか。実際悪い人と言うのは世の中にいますから、それを想定しないで物事を進めていくと酷いことになります。社会は崩壊しますよ。
佐平:それはその通りだ。全く間違いない。
福太郎:ですよね。
佐平:よく「この社会制度は甘い。性善説に立って考えられているからだ。悪い人間もいるという前提に立って物事は考えなくてはならない。」と言われることがあるだろう。
福太郎:ええ。実際その指摘は正しいです。
佐平:確かにそうだ。
福太郎:儒教はその指摘を否定するんじゃないんですか?
佐平:いや否定しない。
福太郎:儒教は性善説ですよね。
佐平:そうだ。
福太郎:なぜ否定しないんですか?どういうわけですか?
佐平:人間に良心と欲があるというのは儒教は否定しない。
福太郎:ええ。
佐平:しかし儒教的な精神修養を正しく積み重ねると人間の本性は善であったと気づく。だから本当は人間の本性は善だというのが性善説の意味だ。
福太郎:なんじゃそりゃ。
佐平:オレの勝手な推測だと恐らくインド思想も同じだ。正しい修行が行われると人間の本性が善だったと気づく。
福太郎:そんなもんですかね。
佐平:我々には良心があるだろう。
福太郎:ありますね。
佐平:正しい精神修養を積み重ねると良心がより豊かになっていく。
福太郎:それは少しわかりますけど。
佐平:そして精神修養が完成した人は良心が非常に豊かになる。善の心が自分の中から湧いてきて人間の本性が本当は善だったと気づくらしい。
福太郎:らしい?
佐平:オレにはその境地は分からない。だから推測だ。でも色んな思想書を読んでいると全体としてそう結論できる。
福太郎:例えば?孟子は性善説って言いましたけど、孟子も修行してたんですか?
佐平:していた形跡がある。
福太郎:どこに書いてありますか?
佐平:『孟子』の公孫丑章句上だ。孟子自身の言葉だ。
現代語訳
私は広々とした気を養っている。

書下し文
我善く吾が浩然の気を養う。
福太郎:これだけ?
佐平:まあそうだ。決定的なのはこれだ。「広々とした気を養う」という感覚は恐らく仏道修行にも共通する。現代的な言葉では「精神の拡大」と言う。すでに記事を別に書いた。一応リンクを載せておく。

精神の拡大をご覧ください。

福太郎:そうですか。
佐平:さっきも言ったが我々には良心があるな。
福太郎:ええ。
佐平:『孟子』の公孫丑章句上に「四端の心」という記述がある。「四端の心」とは良心のことだ。
現代語訳
「憐れみの心」がない人は人ではない。「悪を恥じる心」がない人は人間ではない。「譲り合う心」のない人は人間ではない。「正しさを見分ける心」がない人は人間ではない。

書下し文
惻隠の心無きは人に非ざるなり。羞悪の心無きは人に非ざるなり。辞譲の心無きは人に非ざるなり。是非の心無きは人に非ざるなり。
佐平:「憐れみの心」「悪を恥じる心」「譲り合う心」「正しさを見分ける心」この四つを「四端の心」と述べている。良心を指す。誰にでもある程度は良心があると言っている。おまえにも「四端の心」はあるよな。
福太郎:それなりにあります。
佐平:そうだな。我々凡人はそれなりだ。だから我々の場合は善悪半々というのはある意味正しい。岩波文庫の『海舟座談』の「清話のしらべ」で勝海舟が次のように述べている。
孟子は性善といい荀子は性悪といったが、性善でもなく、性悪でもないようだが、まずどっちかというと、悪い方が多いようだ。
佐平:勝海舟ほど世間を知り人を知る人は少ないから彼の発言は当時の日本の状況を正確に表しているはずだ。実際は善悪半々くらいなのだろう。
福太郎:ええ。
佐平:しかし有効な修行を積むと良心がもっと豊かになる。
現代語訳
「四端の心」がある人間はそれを豊かにし充実させることができる。火が最初に燃えだして泉が少しづつ湧きだすように最初は小さくても、最終的には天下を安んじるほどに充実させることができる。

書下し文
我に四端有る者、皆拡めてこれを充にすることを知らば、火の始めて燃えて泉の始めて達するが如くならん。苟も能くこれを充にせば以て四海を安んじるに足らん。
佐平:孟子は誰にでも具わる「四端の心」という良心を大きく育てていく事を勧めている。有効な精神修養ができれば良心が非常に豊かになるというわけだ。それは可能だと述べている。そして善の心が自分の中から湧いてきて人間の本性が本当は善だったと気づくらしい。
福太郎:そうですか。
佐平:さらに引用するぞ。
現代語訳
「憐れみの心」は「仁」の芽生えであり、「悪を恥じる心」は「義」の芽生えであり、「譲り合う心」は「礼」の芽生えであり、「正しさを見分ける心」は「智」の芽生えである。

書下し文
惻隠の心は仁の端なり。羞悪の心は義の端なり。辞譲の心は礼の端なり。是非の心は智の端なり。
佐平:有効な修行を積むとその人の徳が完成する。「憐れみの心」「悪を恥じる心」「譲り合う心」「正しさを見分ける心」はそれぞれ「仁」「義」「礼」「智」へと成長する。徳が完成するんだ。
福太郎:なるほど。こう見てくると孟子は確かにそのような修行を経験したかもしれませんね。その良心を大きくしていった。孟子の言葉からそれは推測できます。では孔子はどうですか?
佐平:それには答えるけど、その前に『大学』に次の言葉がある。確認しておくぞ。
現代語訳
わが身を修めようとした人は、まず自分の心を正しくした。自分の心を正しくしようとした人は、自分の意を誠にした。 その意を誠にしようとする者は、まずその知を明晰にさせた。その知を明晰にさせるのは物事の本質を捉えるにある。

書下し文
その身を修めんと欲する者は、まずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者はまずその意を誠にす。 その意を誠にせんと欲する者は、まずその知を致す。その知を致すは物に格るにあり。
福太郎:どういう意味ですか?
佐平:前半はすでに解説した。道徳を修めるためにはまず自分の良心に嘘をつかないことだと解説したな。
福太郎:ええ。そうでした。
佐平:そしてさらにそのためには「知を明晰にする」のと「物事の本質を捉える」の二つが必要だ。
福太郎:何ですかそれ?
佐平:「知を明晰にする」は原文は「致知」。「物事の本質を捉える」は原文は「格物」だ。あわせて「格物致知」という。
福太郎:よく分かりませんが。
佐平:要は「身の回りの様々な物事や書物などで学んだ様々な事柄の本質を捉えていくこと」だ。それが精神修養につながると言うんだ。
福太郎:本当ですか?
佐平:すると「格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」となる。これが身近な精神修養から天下に太平をもたらすまでの聖人がたどる階梯というわけだ。身近なところから徐々に遠大な仕事に進んでいく。
福太郎:ふ~ん。我々は聖人じゃないから関係ないですね。
佐平:ああそうかもな。でも儒教の基本的な考え方だ。基本を知っとくといろいろ応用できるから勉強しといたほうがいい。
福太郎:ええ。でも「知を明晰にする」とか「物事の本質を捉える」は、やる気のある人は誰だってやってますよ。でもみんな聖人にはなれてないですよね。
佐平:そうだな。しかし聖人になる素質のある人がこれをやると恐らく大きな精神修養になる。これが聖人に至る道だ。
福太郎:孔子ですか?
佐平:ああ。孔子は「知を明晰にする」と「物事の本質を捉える」という「格物致知」を行っていたはずだ。
福太郎:どうしてそう思うんですか?
佐平:孔子は非常に多才な人だった。多才だったということは、「知を明晰にする」と「物事の本質を捉える」を若い頃に行っていたからだと思うんだ。いろんな分野の物事を広く学んだはずだ。
福太郎:そうですか?
佐平:例えば『論語』の子罕篇に次の記述がある。
現代語訳
ある村の人が言った。「偉大だなあ。孔子は。広く学んで名を成すような専門を持っていない。」 孔子はこれを聞いて弟子たちにこう仰った。「私は何を専門にしよう。御者をやろうか。 弓をやろうか。私は御者をやろう。」

書下し文
達巷党の人曰く、大なるかな孔子。広く学びて名を成すところなし。子これを聞き門弟子に謂いて曰く。 吾は何をか執らん。御を執らんか射を執らんか。吾は御を執らん。
福太郎:ちょっとわかりにくいです。
佐平:後半はやや分かりにくい。新釈漢文大系の解説を引用するぞ。
人のほめたことに対して、謙遜の言葉で答えながら、弓道をやろうか、馬術で名を挙げようか、などと、 極めてユーモラスなことを言って門人たちの顔をながめている孔子の風姿がしのばれる。
佐平:後半は孔子が半分冗談を言っているんだ。でも多才さを褒められたのはうれしかったようだ。「多才さ」が孔子の徳をもたらした修行の結果だからだ。
福太郎:そうですか。でも多才な人って器用貧乏のイメージありますが。
佐平:普通はそうだな。でも孔子の場合は違う。
福太郎:でも我々は多才を目指さないほうがいいな。器用貧乏になる。
佐平:そうかもしれない。実際『論語』を読むと、孔子は孔子の多才な点を見習わないように弟子たちを誘導しているように見受けられる箇所もある。『論語』衛霊公篇に次の言葉がある。
現代語訳
孔子が仰った。「子貢よ。おまえは私をたくさん学んで多くを知っている者だと思うか?」子貢が答えて言った。「はい。違いますか?」孔子が仰った。「違うぞ。私はひとつのことを貫いた人間だ。」

書下し文
子曰く。賜や。汝、我を以って多く学びてこれを識る者と為すか。応えて曰く、然り。非なるか。曰く。非なり。我は一を以てこれを貫く。
佐平:孔子は実際多才な人だったから、子貢が「はい。」と答えたのはある意味正しいんだ。
福太郎:ええ。
佐平:恐らく孔子は若い時にたくさん学ぶことで格物致知を行い精神修養をした。だから多才だった。でも弟子たちがその多才を見習うと器用貧乏になる。だからそうならないように「ひとつのことを貫く」ことを勧めて、弟子たちを誘導している気がするんだ。
福太郎:そうも取れますが。
佐平:もちろん「ひとつのことを貫く」というのも孔子の本心だ。しかし「多才であること」も孔子の本質だとオレは思っている。だからこそ孔子はその多才をほめられて喜んだのだと思う。
福太郎:そうですか。
佐平:この辺話し出すと長くなるからやめとこう。話がそれる。機会があったら別の時に話す。
福太郎:はい。
佐平:いずれにしても孔子は物事を広く学んだ。偉大な人物の修業時代は若い頃だ。たぶん孔子は若い頃に格物致知という中国的な修行を積んでいたと思うんだ。
福太郎:孔子も性善説ですか?
佐平:はっきりとは明言していないが、孔子の言葉からは性善説と言ってよいとオレは思っている。
福太郎:そうですか。
佐平:修行を続けると「人間本性は本当は善だったんだ」と悟るのが性善説なんだ。
福太郎:それは聞きました。
佐平:そして修行を達成した人は、さらに進んで、「その善である人間本性は天が与えたものだ」と考えるようになる。
福太郎:そりゃおおげさですね。
佐平:我々であれば大げさだが、孔子ほど偉大になれば、その偉大さは天が与えたと考えても大げさではないだろう。
福太郎:そうですね。
佐平:『中庸』に次の言葉がある。
現代語訳
天が命じたのを人間の本性という。人間の本性に従うのを道という。

書下し文
天の命ずるこれを性という。性に従うこれを道という。
福太郎:解説をお願いします。
佐平:儒教では人間本性は善だ。修行を続けると人間本性は善だったのだと気づくようになる。そしてそれは天が人間に命じたのだと言うんだ。
福太郎:はい。
佐平:そしてその善なる人間本性に従うのを「道」と言うんだ。
福太郎:なるほど。自分の中にある人間本性に従うんですね。
佐平:ああ。『大学』からまた引用するぞ。
現代語訳
自分の意を誠にするというのは、自分に嘘をつかないことである。

書下し文
その意を誠にするとは自ら欺くなきなり。
福太郎:以前出てきましたね。自分の良心に忠実であることでした。
佐平:そうだな。良心はみな多かれ少なかれ持っている。
福太郎:ええ。
佐平:その良心は善なる人間本性の一部なんだ。だから自分の良心に嘘をつかないというのは、善なる人間本性に従っていくというのに最終的には通じているんだ。「人間の本性に従うのを道という。」というのはこれだ。我々は我々の内にある良心を通じて実は天につながっているというのが儒教の考えだ。孟子の「四端の心」も同じだ。
福太郎:だんだん難しくなってきましたね・・。
佐平:分からなくてもいいから聞き流しておいてくれ。
福太郎:はい。
佐平:『易経』説掛伝に次の言葉がある。
現代語訳
道理を窮めて自分の本性を十分発展させて天命を知るに至る。

書下し文
理を窮め性を尽くして命に至る。
佐平:ここで言う「道理を窮めて」というのは「格物致知」を指す。
福太郎:「格物致知」とは「物事の本質を捉える」と「知を明晰にする」でしたね。
佐平:ああ。それが精神修行になり、自分の善なる本性を十分発展させることができる。
福太郎:はい。
佐平:すると天命を知るに至ると言うんだ。
福太郎:「天が命じたのを人間の本性という。」でしたね。
佐平:ああ。人間の本性が善と知れば同時にそれが天が与えたものだと知るようになる。
福太郎:そうですか。
佐平:『論語』為政篇に次の言葉がある。
五十にして天命を知る。
福太郎:これを読むと、恐らく孔子は「自分の本性を十分発展させて天命を知るに至った」んですね。
佐平:ああ。五十歳までに修行が完成したと思われる。
福太郎:なるほど。
佐平:あと『孟子』尽心章句上冒頭に次の記述がある。
現代語訳
孟子が仰った。自分の心を十分に発展させた者は人間の本性を知る。人間の本性を知れば天を知る。

書下し文
孟子曰く、その心を尽くす者はその性を知るべし。その性を知らばすなわち天を知らん。
福太郎:ほとんど同じことを言ってますね。
佐平:そうだ。「自分の心を十分に発展させる」というのが精神修行がうまくいったという意味だ。恐らく孟子はそれを実現している。
福太郎:はい。
佐平:逆に言うとそのような修行を成功させなかった人は人間の本性が善だと気づかないということでもある。
福太郎:なるほど。
佐平:だから孔子や孟子は正しい精神修行を完成させた人で、荀子はそれが出来なかった人だと思われるんだ。
福太郎:そうなりますね。
佐平:偉大な修行を完成させた人、例えばムハンマドやイエスや仏陀や孔子はみな善になる。やはり修行が完成するとみな善になるんだ。修行が完成して悪になった人はいないはずだ。
福太郎:そうかもしれませんね。
佐平:我々は我々一般人を基準にして考えるから人はみな善悪半々と思う。
福太郎:ええ。
佐平:でも儒教は偉大な修行を完成させた孔子こそが人間の本性を十分に発展させた人であり、孔子の善こそが人間本性だと考える。孔子を基準にするんだ。
福太郎:なるほど。
佐平:これで今回の話はだいたい終わりだ。
福太郎:インド思想についても何か言ってませんでしたか?
佐平:インド思想もこの点は一致するんだ。まず人間本性は善だが、人間には欲があると考える。バガヴァッドギーター3章38節に次の言葉がある。
火が煙に覆われ鏡が汚れに覆われ胎児が羊膜に覆われているように、 この世は欲望と怒りに覆われている。
佐平:火は本来明るいものだ。でも煙に覆われ濁ってしまう。
福太郎:はい。
佐平:鏡はもともと澄んでいるものだ。でも汚れに覆われてしまう。
福太郎:ええ。
佐平:同じように人間本性ももともと善なのだが欲望で濁ってしまう。
福太郎:なるほど。確かに人間本性を善と考えて、同時に欲もあると認めてますね。
佐平:そうだ。最近ヨガを始めた。
福太郎:へえ。
佐平:アイアンガーという人の本を読んでいるぞ。『心のヨガ』に次の記述があるぞ。
「人間とは何なのか」この問いこそがまさにヨガが追求しているものである。ヨガの疑問の出発点であり、 あらゆる実践を下支えしている根本的な問いとは「我々とは何なのか」という単純な疑問なのである。・・・ 最終的に到達する正しいアサナとは「私は<それ>であり、<それ>は<神>である。」という状態を真に表現したものになるだろう。
福太郎:「人間とは何なのか」という問いを重視するというのは人間本性を追求するのと同じですね。
佐平:ああ。そして人間本性は神的なものだとするのがヨガの結論だ。
福太郎:そうですか。
佐平:『ヨガ呼吸瞑想百科』に次の言葉があるぞ。
ヨガは自分の内部にある神性の見つけ方を体系的に教えている。 それは徹底的で効果的なものである。求道者は外側にある身体から内なる自己に向けて、 自分自身の謎を解明していく。
福太郎:ヨガという修行を通して自分の内にある神性を見つけるんですね。
佐平:オレはまだ見つけてないぞ。
福太郎:そうでしょうね。それは分かります。
佐平:人間は神的なものだと言っているが、神は善だからヨガも性善説だと言える。
福太郎:なるほど。
佐平:人間は一見、善も欲も両方持つようだが、修行を積むと善が湧き出てきて人間の本性は本当は神的なものだとさとるに到るというわけだ。
福太郎:インド思想と中国思想は共通点があるんですね。
佐平:修行で「天」=「神」を知るようになるという点で中国の儒教とインドのヨガは一致している。
福太郎:ええ。
佐平:しかしその実現の方法が違う。中国は格物致知という知的な方法で、儒教はかなり理知的だ。
福太郎:はい。
佐平:それに対しインドはヨガという肉体的修行で、そこから到達する世界はかなり神秘的だ。
福太郎:なるほど。共通点と違いがあるのが面白いですね。
佐平:そうだな。一般的に言うと中国人は合理的だがインド人は宗教的だ。
福太郎:世界にはいろんな思想や宗教がありますが、共通する部分と全く違う部分がありますよね。先輩はその辺どう考えてますか。
佐平:思想を山登りに例えると、同じ富士山という山を別のルートから昇るようなものだと思っている。
福太郎:仏教は南からのルートで、キリスト教は西からのルート、儒教は東からのルートですか?
佐平:ああそうだ。だから共通点もあれば違いもある。
福太郎:なるほど。
佐平:おまえはどうだ?
福太郎:オレは山登りに例えるとそれぞれの思想は「山登りである」という点は共通してますが、別の山に登ろうとしている気がします。
佐平:仏教は宮之浦岳、キリスト教は大雪山、儒教は石鎚山とかか?
福太郎:そうですね。
佐平:まあその可能性もあるな。オレの考えとおまえの考えどっちが正しいかは分からんな。
福太郎:ええ。あとちょっと思ったんですけど、儒教は性善説が定説と言いますが、それは偉大な修行をした人だから言えることですよね。
佐平:ああ。
福太郎:でも偉大な修行を完成させた人は実際にはほとんどいません。
佐平:そうだな。
福太郎:と言うことはやはり善悪半々と考えたほうが現実的じゃないですか?
佐平:そうとも言えるな。
福太郎:性善説は一理あったとしてもミスリーディングのような気がします。誤解されて広まると悪影響になりますよ。
佐平:そうかもしれないな。確かに善悪半々と考えたほうがいいかもしれない。でも偉大な人からすると人間は本当は善なのだということを認識しておくのも重要な気がするぞ。
福太郎:ええ。そうですね。分かりました。
佐平:これで今回の話は終わりだ。
福太郎:難しかったですね。
佐平:分からないところがあっても今回の話は全体には影響しないから大丈夫だ。
福太郎:よかった。
佐平:今回の話は物事の根本をさかのぼると「天」に至るという点だ。
福太郎:はい?
佐平:儒教は「徳」が根本だと言うけれど、本当は「天」が最も根本なんだ。
福太郎:そうなりますかね。
佐平:もう一度ノートを見ろ。
現代語訳
天が命じたのを人間の本性という。人間の本性に従うのを道という。

書下し文
天の命ずるこれを性という。性に従うこれを道という。
佐平:「天」が最も根本でそして次が「人間本性」。「人間本性」に従うのが「道」。すると「徳」が養われる。
福太郎:なるほど。
佐平:「天→人間本性→道→徳」という順番になるんだ。
福太郎:そうですか。
佐平:じゃあ休憩するぞ。

続きは礼儀と仁をご覧ください。


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