時間感覚

新約聖書ペテロの手紙2に次の言葉がある。

主のもとでは一日は千年のようで千年は一日のようです。

人間にとっての千年を神は一日のように感じ、人間にとっての一日を千年のように感じるという。

例えばアリが2階建てのアパートの壁をうろうろしている。 アリにとってはアパートは非常に大きい。歩いても歩いても全体を歩き通せない。 しかし我々人間から見るとアパートはそんなに大きくない。

人間にとっては千年は非常に長い。アリにとってアパートが大きかったように。 しかし神にとっては千年は短い。一日のように感じるのだ。「千年は一日のようです。」と言える。

ただ神は人間よりはるかに密度の高い時間を送る。 だから逆に神は人間の一日を千年のように感じる。

人間は大した経験をしないで一日ボーっとしていれば、すぐに一日が過ぎる。 しかし神は一日でも人間の何百万倍の密度の高い時間を送るため「一日は千年のようです。」と言える。

もちろん適当な憶測で書いている。神が存在するかもわからないし、存在したとして神の時間感覚は私にはわからない。 神とは交信できない。

我々凡人より神に近いとされる天才の時間感覚はどうだろうか。 天才は神より想像しやすい。同じ人間だからだ。 CDプレーヤーでモーツァルトのCDをかければ、直接的にというべきか、間接的にというべきかは知らないが、 ともかく天才に触れることができる。 こんな音楽をつくる人の世界観はこんな風ではないかと少しはイメージができるかもしれない。

もっとも神からすると天才も凡人も同じである。ゲーテの『ヴィルヘルムマイスター』に次の言葉があるらしい。

神から見れば人間など皆ちっぽけな存在で、どんな賢者でもしょせんは神の足元にも及ばない、と宗教家は語る。 だがもし本当にそうなら、人が七十年も懸命に生きることなど、全く無駄ではないか。 神を信じるものよ。人間をあまり馬鹿にするな。

すこしユーモラスな言葉である。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教では神の絶対性が説かれる。 特にイスラム教では神の前では人間は全て平等という。 ゲーテのような大天才もコンビニの前にたむろする不良の若者(最近あまり見ない気がするが・・)も同じだというのだ。 ゲーテの言葉どおり、それでは人間の人生は無駄なのか、と文句を言いたくもなる。 宇宙から見たら1階建ての建物も100階建ての建物も同じなのだろうか。

そんなことはないイエスやムハンマドは同じ人間といえど尊敬されているではないか、という人もいるだろう。 確かにそうである。しかし彼らが他の人間より偉いのは彼らが神に選ばれたからである。 彼らの偉大さは本人に由来するというより、神に由来するのだ。 彼らには霊力があったがそれは神に与えられたのだ。

しかし神にとっては天才も凡人も同じでも、我々凡人にとっては天才は神のようである。 1階建ての建物に住む私は100階建ての建物に住む天才をはるか彼方に見上げるのだ。

天才の時間感覚だが、結論から言うと、神と似たような感じだと思う。 我々にとっての10年を1年のように短く感じる。天才は我々より巨大な精神だからだ。 そして我々の1年を10年のように感じる。天才は我々より密度の濃い人生を送るからだ。 「天才においては10年が1年。1年が10年。」だと推測する。

これは実証が難しい。 我々凡人に聞いてもわからない。我々は天才の時間感覚が分からないからである。 天才に聞いてもわからない。天才は凡人の時間感覚が分からないからである。 どうしたら実証できるか・・・。

いったん話が飛ぶようだが、精神の拡大という現象がある。 精神の拡大について知るには、精神の大きさについて確認しておく必要がある。

他人に精神の大きさを感じたことはあるだろう。 芸術に触れた時、偉大な人間を実際にもしくは映像で見た時、自分の専門分野で優れた人の仕事に触れた時。 人間の精神には大きさがある。

その大きさが拡大するのが精神の拡大である。 仏道修行が一番有名だろうか。

例えば空海。 もともと非常に優秀だったが恐らく凡人であった空海が、 仏道修行によって偉大な仏教徒になった。 空海は仏道修行を通じて精神の大きさが1から1000になった。

この場合、空海には天才と凡人の時間感覚が比較できる。 空海は天才の時間感覚が分かるし、凡人であったころの時間感覚も覚えている。 空海という精神の中で比較ができるのだ。

空海の精神の拡大は偉大な拡大である。 1から1000への拡大だ。そんな人はめったにいない。

しかし1から2への拡大であればどうだろう。 これは現代日本にもたくさんいるのではないか。 たまにテレビやインターネットでそのような一見おかしなことを言いだす人がいる。 たぶん精神の拡大が少しだけあったのだなと推測できる。 1から2への変化もそれなりに急激な変化と言えるかもしれない。

以前は芸術を理解しなかった人が、そのような変化で急にセンスが良くなり、 芸術をある程度理解できるようになるという事例が考えられる。

「精神の拡大」と聞くと何か偉大な現象だと思うかもしれないが、 実際はそうとは限らない。 ユングの『個性化とマンダラ』という本があるが、次の言葉がある。

拡大という意味での人格の変容は、もちろん意義深い体験の形でのみイメージされてはならない。 神経質な患者の病歴と治癒の過程をただならべただけの平凡な症例報告もありうる。
『個性化とマンダラ』「生まれ変わりについて」

精神の拡大は平凡な拡大もあるとユングは述べている。 何千もの症例に立ち会ってきたユングが言うのだから、そのようなケースは非常に多いのだろう。 精神の拡大と言っても平凡なケースがほとんどであり、 空海のような偉大なケースは日本では何百年に一回しか起こらずむしろ例外だろう。

空海のような人物が精神の拡大について語れば皆信じるだろう。 人を見る眼が少しでもあれば空海は偉大な人物だとひと目でわかるからだ。 恐らく偉大な精神の拡大があったというのは空海が言うのであれば非常に説得力がある。 よっぽど人を見る眼がないか、疑い深い人でない限り信じると思う。

しかし1から2に変化した平凡な人が精神の拡大について語ってもみな信じない。 1から2への変化だと当人にとっては劇的な変化と思うかもしれないが、 客観的にみると、他人から見ると、大した変化ではない。 1から2に変化しても平凡な人は平凡な人のままで大きな変化はない。 誰も変化したと気づかない。偉大な人物には見えないし、実際偉大な人物ではない。

それにも関わらず、本人はすごい体験と思って仰々しく話すのでますますうさん臭い。 さらに尾ひれをつけて話したりもする。 そんなのでは多少当たっていることを言っていても誰にも信じてもらえないという哀しい事態になる。 うさん臭いからといって全部が嘘とは限らないのだから、うまく使えば研究材料のひとつにはなる場合もあるかもしれないが、 たいてい相手にされない。

この記事で天才を持ち出したのは、精神の拡大について話したかったからである。 精神の拡大というのは、当然精神が大きくなることである。 精神が大きいというのは当然天才のことである。 精神の拡大を考えるうえで天才論は避けて通れない。

時間感覚の話に戻ると、1から2へ拡大したケースでも、1の時と2の時の時間感覚を比較するのは可能だ。 「天才においては10年が1年。1年が10年」というのをそういう人は多少は実感できる。 たとえその人自身が天才でなくても。

子供のころは時間が過ぎるのが遅くて、大人になると速くなる、と言うが、 それは精神の大きさの違いによるのではなく、それまで何年生きてきたかの違いによる可能性もある。 それでは正しい比較ができない。

例えば23歳の人が仏道修行で3ヶ月で1から2に精神が拡大したとする。 そして拡大前と拡大後の時間感覚を比較したら確実な比較になる。 その場合は純粋に精神の大きさだけに基づいて時間感覚の比較ができるからだ。 それまで何年生きてきたかは3ヶ月では変わりがないと言えるからだ。

このようなケースは時間感覚以外でも生じる。 例えば私が新約聖書の『ヨハネの黙示録』を読む。 文章の異常な迫力に魅力を感じ、聖書に関するつたない知識をもとに読んでいく。

例えば何とか10ページ分を読んだとしよう。 個々の記述はある程度理解したとしても、全体として何が書かれているかが途中分からなくなる。 すこしページを戻って、「ここは第六のラッパがなったところだったのか・・」と全体の構造を再確認したりする。 読んでいるうちに全体構造が分からなくなったりするのだ。

聖書学者であれば当然そのようなことはない。 要は聖書学者にとっては「素人にとっての10ページが1ページ」なのである。 10ページを読んでも1ページを読むときのように全体の内容をたやすく把握できる。

そして逆に、聖書学者は黙示録の1ページから10ページ分の内容を引き出すかもしれない。 素人より10倍の密度で黙示録を読むのだ。

「聖書学者にとって10ページは1ページであり、1ページが10ページだ」と言える。 もっともそれは聖書学者の精神が私より偉大であるからというより、 聖書に関する関心の深さや知識の深さが原因だろうと思う。

モーツァルトは1時間の交響曲の全体をを一瞬のうちに把握できたという。 他人に伝えるために1時間もかけて演奏するのだという。

画家は対象を丁寧に観察するそうだ。 一本の樹を見るにしても細かく丁寧にみる。 偉大な画家であれば、対象を丁寧に微視的に見れるし、同時に大局的にも見れるはずだ。

いろんな分野において恐らく偉大な精神であるほど、凡人より大局的に物事を把握するのと同時に細かく把握するのだろう。

続きは精神の下への拡大をご覧ください。


■椎名林檎さんの 『迷彩』

■椎名林檎さんの 『宗教』

■上部の画像は葛飾北斎
「女三ノ宮」。

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