停滞する現代日本に最も欠けているもの

最近日本の元気がない。電車に乗っていてもみな覇気がなく下を向いている。その原因は何だろうか。日本人のほとんどはビジネスに携わっている。そのビジネスが元気がない。だから日本人が元気がないのはある意味当然だ。

1980年代日本は輝いていたという。確かに経済規模は大きかった。しかし当時のエコノミックアニマル的な活気のことを良いとは私には思えない。だからと言って現在の覇気がない状況も良いとは思えない。

現代日本のビジネスが停滞しているのはなぜだろうか。日本は以前ものづくりで興隆した。しかし製造業は新興国にもっていかれている。日本はどうすればいいか。ひとつは戦略性が必要とされる分野にシフトすることだ。しかし日本は戦略性に弱いとされている。 その原因は日本に思想がないからである。

その問題は別にビジネスだけではない。現代世界は西洋の思想や技術を中心にして進んでいる。であるから当然我々日本人も西洋の思想を取り入れて発展させなければならない。しかし日本人は表面は西洋化されているが、深いところでは東洋人であり、伝統的日本人である。表面は西洋化されているから、我々はまず最初に西洋思想に興味を持つ。科学技術や法律経済政治ビジネスなど広い意味での西洋思想だ。しかし表面しか西洋化されていないから、西洋思想を表面的にしか理解できない。だから思想が浅くなる。

日本人には知識が足りないのではない。思考力が足りないのでもない。足りないのは思想の深さである。確かに西洋の模倣は出来る。しかしその理解は浅く自分のものになっていない。せいぜいできるのはそれを洗練したり日本に合うかたちで若干改変して取り入れるくらいだ。思想が浅いためとても独創性は期待できない。これがビジネスだけではなく、現代日本のほぼすべての分野で問題になっている。心当たりのある人も多いだろう。

一部例外的に西洋の思想や文化を深く理解できる人が日本人にもいる。しかしそれは例外であってほとんどの人はそうではない。例外を挙げて私の論に反証してもあまり意味がない。

ではどうすればいいか。私は中国思想を勉強している。そして中国思想がその打開策のひとつになりえる気がしている。日本人は深いところでは東洋人なので中国思想であればうまく説明されればそれなりに深く理解できる。そしてそれを土台にして西洋思想を学べば西洋思想を深く理解できる。私が考えていたのは下の図である。まず西洋思想と中国思想がある。

西洋思想と中国思想がある。両者は別の分野なので離れている。それを合成する。

青色の部分を誰かが作ってやれば西洋思想と中国思想が正しく合成される。もっとも思想の合成とはいっても下手にやると本当にひどいことになる。竹に棒をついだようなわけのわからないものができる。「オペラクゴ」なるものがある。オペラと落語を合成したものだ。正直訳が分からない。私はオペラも落語も尊敬している。しかし尊敬しているからこそそれらを単純に足し合わせたものは見たくない。そんなことになるならそれぞれの伝統をしっかり守っていったほうがいい。単に西洋と東洋を混ぜればいいのではない。しかし武満徹や岡本太郎、山本寛斎のような成功例もあるのは事実だ。

私は西洋思想と中国思想が正しく合成されれば現代日本はうまく行くと思っていた。しかしどうもそれだけでは足りないと思い始めた。noteなどでビジネス系の投稿を読んでいて、どのような文章が人々の心に届いているのかを勉強していると、西洋思想と中国思想の合成だけでは足りないと気づいた。西洋思想と中国思想と現代日本の三者をつなぐ必要があると思い始めた。下図である。

西洋思想と中国思想と現代日本はバラバラに存在している。それを接続する。下図である。

三者を正しく合成し青いところを補ってやる。すると日本人は西洋思想を深く理解できてそれを模倣するだけではなく自ら発展させていける可能性がある。もちろん無から有は生じない。下図を参照ください。

三者を合成するためには西洋思想と中国思想と現代日本それぞれについてある程度深く知る必要がある。青色の部分をつくるのが合成だが、そのためには緑色の部分を学ばなくてはいけない。図を見てわかるように別に西洋思想と中国思想と現代日本を窮める必要はない。ある程度深く理解する必要はあるが窮めなくていい。むしろ窮める時間はない。

緑の部分を学ぶには手本がある。西洋思想と中国思想に関しては、その古典。現代日本に関しては、noteなどのビジネス系の投稿で読者数が多い人の文章。それらを参考にしながら自分の思想や表現をつくる。しかし青の部分は手本がない。自分の嗅覚だけが頼りだ。この三者の合成ができれば恐らく日本は自然に良くなっていく。西洋思想と中国思想と現代日本が正しく連動しながら日本の中で動いていくはずだ。

ブルワー=リットンというイギリス人の言葉に次の言葉がある。

Talent does what it can.
Genius does what it must.

才人は自分ができることをやる。
天才は自分がすべきことをやる。

才能ある才人は「自分にはこれができるからこれをやる」というスタンスになる。天才は「世の中にこれが必要だからこれをやる」というスタンス。西洋思想と中国思想と現代日本の合成は現代日本に最も必要なものである。この合成が実現できる人ば「世の中にこれが必要だからこれをやる」ができたことになる。

『論語』為政篇に次の言葉がある。

現代語訳
孔子が仰った。君子は器ものではない。

書下し文
子曰く、君子器ならず。

器は用途が決まっている。コップは飲み物をいれるため。皿は料理をのせるため。才人は自分の得意なことをする。「自分ができることをやる」のだ。だから用途が決まっている。剣道が得意な人が剣道をするのは用途が決まっている。しかし君子は用途が決まっていない。だから世の中を見渡して最も重要なことをする。世の中に必要なことにその力を集中する。「自分がすべきことをやる」のである。

「君子器ならず」は「君子は一定の形を持たない」の意味にもとれる。器は一定の形を持つ。コップも皿も一定の形を持つ。君子ではない人は「自分にできることをやる」から一定の形を持つ。しかし君子は一定の形を持たない。柔軟に動く。だから「自分がすべきことをやる」のである。

西洋思想と中国思想と現代日本の三者の合成は一定の形を持たない人にしかできない。

青色の部分をつくるのは一定の形を持つ人には不可能である。青色の部分はまるで岩と岩の間に水が入っていき、すきまを埋めるかのようであるのが分かるだろうか。水は一定の形を持たない。三者の合成は一定の形を持たない人にしかできない。

『老子』第八章に次の言葉がある。

現代語訳
最上の善は水のようである。水は道に近い。

書下し文
上善は水の如し。道に近し。

才人は形が決まっている。器である。しかし天才は形が決まっていない水のようである。だから時代の形に合わせて変化し時代に必要なことを行える。時代の形に合わせて自分の仕事を変化させる。水が岩の形にあわせて自分自身を変化させながらすきまを埋めていくのに似ている。もっとも、完全な水のようになるのは不可能である。せいぜいはちみつとか水あめくらいの感じになる。天才の真似はしないほうがいい場合が多い。自分の得意なことをしたほうが成功しやすい。

念のために断っておくと芸術系の人には以上の考察は当てはまらない。芸術は時代に迎合すべきではない。それでは芸術にならない。自分の個性を中心にし自分の形を大切にしてていいはずである。

話は戻る。歴史上にも時々そういう形が決まっていない人物が現れる。日本では坂本龍馬がその典型だ。坂本龍馬は当時の日本全体をフリーな立場から見渡した。当時の日本には明らかに偉大な勢力が二つあった。薩摩と長州である。この両者は非常に仲が悪かった。しかし坂本龍馬はフリーな立場から純粋に日本のためにこの両者を結び付けた。薩長同盟だ。これで歴史が動いた。坂本龍馬は「自分がすべきことをした」のである。

竜馬の偉大さはそのポジショニングである。竜馬は土佐藩出身だが、脱藩浪士である。藩の立場にとらわれず純粋に日本のために行動できた。

サッカーのことは詳しく知らないが、論じる。サッカーには個人の技術が必要だ。ドリブル力、トラップの技術、ボール保持力、ヘディング、パスの精度、パスコースが見える力、シュート力。しかし必要なのはボールを持った時の技術力だけではない。ボールを持っていないときのポジショニングも必要なはずだ。技術力だけではなく「どこにいるか」が重要なのだ。

同様に坂本龍馬はポジショニングに優れていた。完全にフリーな立場に立つことで藩の立場にとらわれない自由な視点と自由な行動を手にした。純粋に日本のために行動できたのである。

100の能力を持つ人は100の仕事しかできないと思われがちだ。しかしそうではない。100の能力の人が100の仕事をする時はある。しかしマイナス100の仕事をする時もあるし、10000の仕事をする時もある。100の能力のある人がプログラマになり普通に勤務すれば100の仕事をするはずだ。しかし同じ人がたばこ産業に就職すれば世の中にとってマイナス100の仕事になるかもしれない。同じ人が10000の仕事をする時もある。時代のボトルネックを直撃した時だ。坂本龍馬のようにその時代で一番重要なことに全力を注げば100の能力で10000の仕事ができる。

人格の偉大さでは竜馬より西郷隆盛の方が優れていたかもしれない。政治家としての能力では大久保利通の方が優れていたかもしれない。情熱の濃度では吉田松陰のほうが上かもしれない。絶望的な状況でも強大な敵を恐れないと言う勇敢さでは高杉晋作の方が上かもしれない。日本を正しく導く思想を持つという点では勝海舟のほうが偉大かもしれない。しかし坂本龍馬はそのポジショニングによって西郷たちに劣らぬ仕事をした。時代のボトルネックを直撃したのである。

現代日本で一番必要なものは恐らく西洋思想と中国思想と現代日本の合成である。もしこれができれば何千万人もの人々の力が借りれる。ひとりの人間はひとり分の仕事しかできないとは限らない。時代のボトルネックを直撃すればひとりで何千万人分の仕事ができる可能性はある。

大学の研究室の思想家にそれを期待することもできる。しかし大学の研究室にいることは逆に不利な可能性がある。研究室にいれば学派などの対立にほとんどの場合まきこまれる。現代独仏思想、現代英米思想、中国思想、近代思想、古代ギリシャ思想、インド思想など分野ごとに分かれていて実は対立している。自由がきかない。坂本龍馬のような自由なポジショニングは難しい。

じゃあお前にそれができるのかと問われればおそらくできないとしか言えない。部分的に何かできないかを現在模索しているところではある。現在まで私のサイトに書いた思想ではとても無理である。今後部分的にでもつくれればいいなあと思って試行錯誤している。他にやることもない暇人なのでちょっと試行錯誤してみるかと思っている。

いろいろ述べてきたが私がここで述べた内容も一応合成になっている点に気づかれただろうか。ブルワー=リットンの言葉と論語と老子の言葉をプチ合成して、現代日本の問題に引き付けて考えて、坂本龍馬の例で日本人に分かるように説明している。ほんのささやかだが、西洋思想と中国思想と現代日本の合成になっている。これだけでは火事を消すのに一滴の水を投じるようなもので役には立たないが、これを1000倍以上のの規模でできれば、少しは役に立つのかもしれない。

■2022/11/5追記。

私が述べたような「これで世の中うまく行きますよ」的な理論は時々世の中に現れる。話を聞いてみると一見うまく行きそうだが、当然うまく行くとは限らない。

経済学でも似たようなことが起きる。経済学は例えば日本経済をクールに分析できる。だから経済学者の話を聞くと一見うまく行きそうである。しかし経済学者のアイデアを実行に移してもあまりうまく行かないということが生じる。20年ほど前、ある気鋭の経済学者が不良債権に関する分析を行い日本経済の低迷の解決策を提示した。国会議員を含む多くの人たちが賛同した。しかしそのアイデアをやってみるとうまく行かない。

経済学者に言わせるとその原因は実験ができないからだという。物理や化学、生物学では実験ができるが、経済学では実験ができない。だから経済学の理論がいかにクールでかっこよくてもそれは現実を動かすとは限らない。

私が試みようとしていることも同じかもしれない。実験ができない。だから部分的にでもうまく行くかどうかは不明だ。ただコストもかからないしリスクもない。失敗したとしても何か得るものはあるだろう。それに私には他にやることもない暇人だ。だから試行錯誤してみようかと思っている。

■2022/11/6追記。

結局うまく行くかどうかは出来上がった思想の内容に依存する。他の人が賛同するかは必ずしも関係ない。いくら金をかけたかもいくら人手をかけたかも関係ない。アニメやゲームもかけた金や人手は必ずしも関係なく、純粋に面白いかどうかで価値や売れ行きは決まる。それと同じだ。ただ時間をかけたかどうかは関係あると思う。

うまく行くかどうかわからないのに「うまく行きますよ」というのは無責任だが、うまく行かないかもしれないからといって何もしないのもなんか違うと思う。とりあえず模索してみる。

■2023/10/13追記。

この文章は2022年に書いたものだが今回の「ビジネスリーダーの哲学」のシリーズと関係があるため、このシリーズの一部にしている。

続きは現代日本における「弾み車の法則」をご覧ください。

■関連記事 ビジネスリーダーの哲学と現代日本 2023年9月~10月




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