生きた思想が現代日本の万能薬?

真理は生きている。真理があれば知識も生きた知識になる。しかし現代日本においては知識が生きていない。

真理は人を夢中にさせる。真理は人の内側に情熱を生む。しかし日本には夢中になれるものがない。情熱がない。

真理は内発性を生む。しかし現代日本人は内発ではなく他人に認められるために努力する。自分の所属している分野や共同体、仲間内、会社ですごいと思われるために努力する。

真理があれば人は楽しんで学ぶ。しかし日本人は学ぶことを止めている。電車で50代くらいのおじさんと30歳くらいの青年が話していた。青年が「来月からビジネススクールで勉強するんですよ」と言う。おじさんが「でもおれくらいの年になると諦めるよ」と言っていた。それも見た目は立派なおじさんである。能力がない人には見えない。これは現代の日本の縮図だ。

真理を持つと本当の生きがいを持てる。しかし現代日本では生きがいが持てない。

真理があるとコスパ主義ではなくなる。しかし現代日本ではコスパ主義が行き過ぎている。

真理があると自然と自信と信念が生じる。良い意味での誇りが生まれる。しかし現代日本の若者は自信が持てなくなっている人もいる。

真理があると言葉と行いが一貫する。現代日本では一貫しない人もいる。

真理を持つと正しい意味で主体的になる。しかし日本人は空気を読む。

真理があると真理を体現した人やものを心から尊敬する気持ちが生まれる。しかし日本には本当の意味での尊敬が少ない。代わりに真理の代替物である地位や金や学歴や名声や「○○賞」を尊敬する。表面的な尊敬。海外のすぐれた人たちは、すぐれたものを見るとそこにある真理を尊敬する。日本人は真理を尊敬しない。それが高い評価を得ていると知ってから尊敬する。それは本当の尊敬ではない。

真理があると深くなる。現代日本は良質な文化もあるが、大雑把に言って深さが足りない。

真理があると自然と独創性が生まれる。現代日本には独創性が足りない。

真理があると知識がつながる。違う分野が本質においてつながる。知識がつながるとイノベーションが起きる。しかし現代日本では知識がつながらない。個々の分野で頑張っている人はいる。しかし分野を横断するような業績は生まれない。イノベーションが生じない。

真理を得ると自然と大局的に物事を見ることができる。しかし現代日本では大局的な眼がない。

真理はすぐれた人たちを引きつける。現代日本はすぐれた人たちを引きつけない。

真理があることが「根本」である。情熱があることは、真理に対しては「末節」である。情熱も確かにビジネスにおいては根本的な要素であるが、真理に対しては「末節」となる。真理があるから情熱が生まれるのであって、その逆ではない。

『大学』に次の言葉がある。

書下し文
物に本末あり、
事に終始あり、
先後する所を知れば則ち道に近し。

現代語訳
物事には根本と末節があり、
事柄には最初に生じることと最後に生じることがある。
何が先であり何が後であるかを知れば、道を知ったのに近い。

『論語』学而篇から引用する。

書下し文
君子は本を務む。
本立ちて道生ず。

現代語訳
すぐれた人は根本を大切にする。
根本が充実すれば物事は自然にうまくいく。

下の図をご覧ください。

真理が根本であり、その結果自然と末節たる情熱が生まれる。そこには「自然な力」が働く。これは根本から末節への流れである。

「情熱を持て!!」と人々に助言することは意味がある。しかし限られた意味しかない。情熱をあおるのは、情熱という末節から、真理という根本にたどりつこうとする方法である。強引な方法。

ドリフで笑うべきところで笑い声が収録されている。本来であれば「面白い」→「笑う」というのが根本から末節への流れである。自然な流れ。

それに対してドリフの笑いは、笑いという末節から、面白いという根本を引き出そうとすることである。意味はあると思うが強引な方法である。

「情熱を持て!!」とあおるのはドリフの笑いのようなものだ。一時的な効果はある。しかし恐らく長続きしない。恐らくしばらくすると「思ったより効果ないね」と言われ反動が起きるだろう。

情熱をあおれば「浅く表面的で激しい情熱」が強引なかたちで人々の中に生まれる。しかしそこに真理がなければ期待した結果は得られない。だから一時的な情熱で終わってしまう。

しかし情熱をあおらなくても、人々が真理を得さえすれば、「深く本質的で静かな情熱」が自然と生まれる。それは真理に裏打ちされているため、効果を表す。そのためいつまでも続く情熱になる。下の図でまとめる。

キリスト教の神父さんが信徒の人と次のような会話をしたという。

神父:信仰は深まっていますか?
信徒:なかなか深まらなくて悩んでいます。
神父:深めるために何かしてますか?
信徒:はい。いつも気合を入れています。
神父:具体的には何をしているのですか?
信徒:「信仰よ深まれ!!信仰よ深まれ!!」と毎日気合を入れています。
神父:それではだめです。聖書を読みなさい。聖書の偉大さを理解すれば、信仰は自然に深まります。

「信仰よ深まれ!!」と気合を入れるのは「情熱を持て!!」とあおるのに似ている。末節的な対応である。聖書を読みその偉大さに触れるのは、真理を得るのに似ている。根本的な対応である。

現代日本と中国思想と西洋思想が正しく合成され、「①分かりやすく②地に足の着いた③普遍的で④合理性とインスピレーションのバランスが取れていて⑤知性と道徳のバランスが取れた⑥生きた思想」が生まれ、それが弾み車の法則で大規模に蓄積が生じると日本人は真理を得る可能性がある。

何かに夢中になろうとするのは末節的な対応である。真理があると自然と夢中になる。真理のあることが根本である。真理があれば日本人は夢中になれるものを得るだろう。

内発的であろうとするのは末節的な対応である。真理があると自然と内発的になる。真理があれば日本人は本当の意味で内発的になるだろう。

努力して学ぶのは大切だが、末節的でもある。真理があると自然に学びが生じる。真理があれば現代日本にも学びが復活する。

生きがいを見つけようとするのは非常に大切である。しかし真理があると自然に生きがいが見つかる。現代日本にもいきがいが復活する。

コスパ主義の行き過ぎを止めるのは大切かもしれない。しかし真理があると自然にコスパ主義の行き過ぎは解決する。

信念や自信を持とうとするのは良いことだ。しかし真理があると自然に信念と自信が生まれる。

一貫しようとするのは気持ちはよくわかる。しかしそれは末節的対応だ。真理があると自然に一貫する。

空気にとらわれないようにしようとするのは良いことだ。しかし真理があると自然に主体的になる。真理があれば日本人ももっと主体的になれる。

すぐれた他人を尊敬しようとするのは良いことだ。しかし他人の持つ真理を理解すれば自然と尊敬が生じる。

深くなろうとするのはよくわかる。しかし真理があると自然に深くなる。

独創性を持とうとするのは素晴らしい。しかし真理があると自然に本当の独創性が生まれる。

知識を強引につなげようとするのは末節的な対応だ。しかし真理があると自然に知識がつながる。

イノベーションを起こそうとするのは大切だ。しかし真理があると自然にイノベーションが生じる。真理があれば日本にもイノベーションは生まれるだろう。

大きな仕事をしようとするのは良いことだ。しかし真理がないのに大きなことを目指してもうまくいかない。根本は真理を得ることだ。真理を得ると自然と仕事は大きくなる。

大局を見ようとするのは大切だ。しかし真理を得ると自然と大局的になる。

■2023年11月24日追記。

将来に希望を持とうとするのは良いことだ。しかし真理があると自然と将来の見通しは良くなる。

公共事業で金を強制的に循環させることは景気対策になる。しかしそれは末節的な方法だ。「景気」の「気」は「気分」の「気」だ。真理を得ると自然と将来の見通しがよくなり、気分は上向き、自然と景気も良くなる。税収も増えて国の借金も返せる。

■追記終り。

すぐれた人を引きつけようとするのは気持ちはわかる。人材を呼び寄せようとするのもわかる。しかしそれは末節だ。真理があると自然に真理を愛する人たちが集まってくる。真理があれば現代日本にも優れた人が集まるかもしれない。

現代日本では前に進みもっと西洋の考え方を取り入れようと考える人がいる。それと対立するように、後ろに戻り過去の良き日本を取り戻そうとする人がいる。どちらも正しいに違いない。しかし正しい思想がよみがえれば前にも後ろにも同時にそして自然に広がることができる。過去の伝統の喪失も新しいものを取り入れる際の消化不良も同時に解決する。

現代日本に生きた普遍的思想がよみがえれば、おそらく現代日本の多くの問題は根本から解決する。それは対症療法ではない。根本的解決である。風邪が治れば、咳も、鼻水も、高熱も、頭痛も、だるさも、自然と治る。中国のことわざに「一了百了」という言葉がある。根本的なひとつの問題が解決すると百の末節的な問題が解決するという意味である。現代日本に正しい思想がよみがえらないといけない。

『中庸』第十九章に次の言葉がある。

書下し文
君子の道は闇然として而も日々章かに、
小人の道は的然として而も日々に亡ぶ。

現代語訳
すぐれた人の道は一見ぼんやりとしているのに、 日に日にその効果が表れてくるが、
普通の人間の道ははっきりと人目をひきながら、 日に日に消え失せてしまう。

恐らく現代日本に生きた思想がよみがえると、一見その効果はぼんやりとしているようだが、ボディーブローのように後から後から効果を表してくるはずだ。中庸も同じ。一見ぼんやりとしていて、当たり前すぎて眠たくなる。しかしその効果は後から後から現れてくる。刺激的な香辛料の効果を否定する気はない。悪いとは思わない。それが必要な時は確かにある。短期的な効果が必要な時など。しかし長期的に本当に世の中を良くするのは根本に作用する一見ぼんやりとしている道なのである。ただそのような道は眠たすぎて人目をひかないという欠点はある。だから儒教自体なかなか理解されない。大概素通りされる。刺激的な言葉のほうが人目をひくのは確かではある。

『老子』第三十五章に次の言葉がある。

書下し文
道の言を出だすは淡乎として其れ味無し。
是を視れども見るに足らず、
是を聴けども聞くに足らず。
是を用うれども尽くすべからず。

現代語訳
道が言葉に表されると淡々としていて味がない。
これを視ようとしても見えず、
これを聴こうとしても聞こえない。
しかし道の働きはいくら用いても尽き果てない。

思想による解決も一見淡々としているようだが、その効果は大きい。それは物事の根本に作用するからである。

■作成日:2023年10月19日

続きはロスジェネの逆襲?をご覧ください。

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