本質をとらえると知識がつながる。イノベーションが起きる。

物理学、芸術、ビジネス、思想。各分野の知識は分野ごとに全く違う。しかし各分野の本質は、それが本質的であればあるほど近づいてくる。

このシリーズでは「本質」と「真理」を同じ意味で使う。ニュアンスが違うので使い分けてはいるが、基本的に同じ意味である。

『論語』為政篇に次の言葉がある。

書下し文
子曰く、君子器ならず。

現代語訳
孔子が仰った。すぐれた人は器ものではない。

器とはコップや皿である。コップは飲み物を入れるためのもの。皿は料理を盛るためのもの。用途が決まっている。我々普通の人は用途が決まっている。私のように思想しかできない人間は用途が決まっている。剣術しかできない人は用途が決まっている。しかしすぐれた人は用途が決まっていないという。

『論語集注』の該当箇所に次の説明がある。

書下し文
器は各々其の用に適えども、相い通ずること能わず。成徳の士は体、具わらざる無し。故に用、周からざる無し。ただ一才一芸を為すのみに非ざるなり。

現代語訳
器はそれぞれ個別の用途にかなうけれど、色んな用途に相い通じて役に立つというわけではない。徳が完成している人は本質的なものが全うされている。だから具体的な働きもあまねく広く行きわたる。一つの才能、一つの能力だけしか働かせられないというわけではないのである。

ある分野を学ぶ際、枝葉末節だけを頭に詰め込んでもほかの分野に応用できない。枝葉末節は分野ごとの大きく違うからである。しかしひとつの分野の本質をとらえれば別の分野にある程度応用できる。

『Invent & Wander』の序文に次の記述がある。

あらゆる領域の知識を貪るように学ぶ人は、自然の中にある一定のパターンを見つけるのが得意になる。フランクリンとダ・ヴィンチはどちらも、つむじ風と渦潮に魅せられた。そのおかげでフランクリンは嵐が海岸沿いをどうやって上っていくかを探り当て、メキシコ湾流を図解した。またダ・ヴィンチはここから心臓弁の動きを理解し、「キリストの洗礼」でイエス・キリストの足元に流れる浅瀬の水を表現し、「モナリザ」では丸みを帯びた人物とうねりのある背景を描いたと言われる。

「自然の中にある一定のパターン」、これが本質である。フランクリンもダ・ヴィンチもつむじ風と渦潮という現象から本質を見抜き、それを別の現象に応用している。

アインシュタインに次の言葉がある。

すべての宗教、芸術、科学は同じひとつの木の枝である。

アインシュタインは物事の本質をとらえる人だった。本質をとらえると、宗教、芸術、科学はつながってくると言うのである。次の言葉もある。

ある高い水準に達すると、科学と芸術は、美的にも形式的にも融合する傾向があります。 したがって超一流の科学者はつねに芸術家でもあります。

「高い水準に達する」とは本質をとらえるということである。本質をとらえ真理を見ると科学と芸術の区別は消えていく。

孔子やフランクリン、ダ・ヴィンチ、アインシュタインたちの本質をとらえ真理を見る眼がイノベーションの本質である。なぜならイノベーションはまったく別と思われているふたつのものが「つながる」ことだからである。シュムペーターはイノベーションを「新しい結合」と呼んだ。

ビル・ゲイツは「頭の良さ」について次のように述べている。

一見関係がなさそうな分野でも関連付けができること。

ディアラブという作家はビル・ゲイツについて次のように述べている。

彼には一歩先を見る技術面でのセンスと、それを売るため商売のセンスがあった。この両者の組み合わせこそ、ビル・ゲイツが類まれな起業家となれた所以だ。

技術と商売というふたつのものを結びつける能力が彼のすぐれた点なのである。

イーロン・マスクは大学時代、物理学と経営学を専攻した。この異質なふたつの分野が融合することでイノベーションが起きる。『イーロン・マスク 未来を創る男』に彼の大学時代の記述がある。

本当に抜きん出ていたのは、難解な物理学の概念を現実のビジネスプランに落とし込むマスクの才能だろう。科学進歩とビジネスというふたつの点を線で結ぶ才能は、すでに当時から並外れていたのである。

河出文庫『フランス革命』にナポレオンの学生時代の次の記述がある。

15歳でパリの士官学校に進学。翌年卒業の時は58人中の42番。この悪い成績のなかで、数学のずば抜けた才能だけは、教師も学友も認めるところであった。いっぽう歴史に対しては情熱を燃やす。
自意識が強い孤独な魂の中で、数学と歴史というふつう結びつかぬものが化合する。大局を見る眼、そして緻密な計算。これがかれの行動を一貫し、かれを権力に押し上げることとなろう。

ナポレオンも数学と歴史という、一見結びつかないものが結びつくことで大きな力を得たのが分かる。歴史から大局的な眼を得て、数学から緻密な計算を得る。大局的にして緻密。ハーモニー型中庸の典型である。

物事の真理をとらえることで一見結びつかないものが結びつく。『Invent & Wander』からウォルター・アイザックソンの言葉を引用する。

iPodであれ、iPhoneであれ、スティーブ・ジョブズは新製品をお披露目するとき、プレゼンテーションの終わりにテクノロジーとリベラルアーツの交差点を示す標識をスクリーンに映し出した。
「テクノロジーだけでは十分でない、という哲学がアップルのDNAにはあります」とジョブズは言った。「テクノロジーが人間性と結びついたとき、心を震わすようなものが生まれるのです。」
アインシュタインもまた、芸術と科学を混ぜ合わせることが大切だと気付いていた。相対性理論の証明で壁にぶつかったときには、音楽が自分を地球のハーモニーとつなげてくれると言い、バイオリンを取り出してモーツァルトを演奏した。
レオナルド・ダ・ヴィンチもまた、芸術と科学が結びついた象徴とも言える偉大な作品を生み出している。たとえば円と正方形の中に立つ裸体の男性を描いたウィトルウィウス的人体図は、解剖学、数学、美学、そして精神性の混じりあう究極の作品である。

本質をとらえ真理を見る人にとっては分野の垣根は壊そうとしなくても自然と壊れていくのがよくわかる。

松下幸之助に次の言葉がある。『日々のことば』から引用する。

事物の背後にある流れ、つながりを見通す目と心を培え。

イノベーターとして真っ先に名前が挙がるのはスティーブ・ジョブズかもしれない。彼はアートと技術のつながりを常に意識していた。『スティーブ・ジョブズII』に次の言葉が引用されている。

文系と理系の交差点、人文科学と自然科学の交差点という話をポラロイド社のエドウィン・ランドがしてるんだけど、この「交差点」が僕は好きだ。魔法のようなところがあるんだよね。
アップルが世間の人たちと心を通わせられるのは、僕らのイノベーションはその底に人文科学が脈打っているからだ。すごいアーティストとすごいエンジニアはよく似ていると僕は思う。どちらも自分を表現したいという強い想いがある。たとえば初代マックを作った連中にも、詩人やミュージシャンとしても活動している人がいた。1970年代、そんな彼らが自分たちの創造性を表現する手段として選んだのが、コンピュータだったんだ。レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロなどはすごいアーティストであると同時に科学にも優れていた。ミケランジェロは彫刻のやり方だけでなく、石を切り出すほうほうにもとても詳しかったからね。

彼は一時期アップルを追われ、ピクサーにいた。『スティーブ・ジョブズI』にピクサーに関しジョブズの次の言葉がある。

シリコンバレーの連中はクリエイティブなハリウッドの人間を尊敬しないし、ハリウッドの連中は連中で技術系の人間は雇うもので会う必要もないと考える。ピクサーは両方の文化が尊重される珍しい場所だった。

ピクサー自体がクリエイティブと技術の交差点、文系と理系の交差点であり、イノベーションそのものだったようだ。ジョブズはピクサーのその交差点であることを高く評価した。次の言葉もある。

技術を示すだけでなく芸術性まで表現できていたのは僕らの映画だけだった。マッキントッシュがそうだったように、ピクサーもそういう組み合わせを作るところなんだ。

ウォルター・アイザックソンはこの本でジョブズの先見性を次のように評価する。

優れた芸術とデジタル技術を組み合わせれば、従来のアニメーション映画を一変させられるという直観はまさに先見の明と言えるものだった。

ちなみに私も中国思想とビジネス思想などの西洋思想という一見結びつかないものをつなげようと努力している。うまくいくかはまだ分からない。

スティーブ・ジョブズは物事をつなげるのにたけていた。スタンフォード大学の卒業式の有名なスピーチから引用する。

リード大学では当時、恐らく国内最高水準のカリグラフィー教育を提供していた。私はカリグラフィーの授業に参加し、文字の美しい描き方を学ぼうと決めたんだ。美しく歴史があり、科学では捉えられない芸術的繊細さがあって、私は魅了された。これがいずれ自分の人生で何かの役に立つなんて考えもしなかった。ところがその10年後初代マッキントッシュコンピュータをデザインしていた時、脳裏にはっきりとよみがえってきたんだ。
将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできない。できるのは、後からつなぎ合わせることだけだ。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。

マッキントッシュで文字を表現するときにフォントを選ぶ。そのフォントを作るのにこのカリグラフィーが役に立ったのだという。点と点がつながったのだ。現在われわれがパソコンでいろんなフォントを選べるのはジョブズがカリグラフィーを学んだおかげなのである。

私自身の例も挙げる。私は一時期食うに困って英文和訳の翻訳の勉強をしていた。英文和訳は英語の力を必要とするが実はそれほどでもない。それより必要なのは日本語力である。最終的な成果物は日本語なのだから当然だ。分かりやすい日本語で書かなくてはならない。

AIの発達も当時から予想はできたし何よりその地味すぎる仕事内容に嫌気がさして数か月勉強して途中でやめた。当時この翻訳の勉強が将来役に立つとは思ってもいなかった。しかし現在ブログの記事を書くときに役立っている。中国の古典を現代語訳するときだ。中国の古典は現代日本語訳が載っている。しかし原文や書下し文を読むことを前提にしてあるので、日本語単体で読むと必ずしも上質な日本語になっていないことが多い。それに自分のブログの文脈と本の現代語訳が合わないことも多い。若干分かりづらい。私は分かりやすい記事を目標にしている。本に書いてある現代語訳は参照しているが、最終的にブログに書くときは自分で訳す。中国の古典も漢字で書かれているとはいえ外国語である。外国語を分かりやすい日本語に訳すという点では英文和訳と共通している。けっこう役立っている。こんなことなら、当時もっと真面目に勉強しておくんだったと後悔している。いずれにしてもジョブズの言う通り後から点と点がつながったのだ。

一見関係のない分野がつながることがイノベーションである。スティーブ・ジョブズに次の言葉がある。

リーダーと追従者の違いはイノベーションの有無にある。

日本にイノベーションが起きないのは、真理を観る力、本質をとらえる力が不足しているからである。個々の分野で成果を出す人はいるが複数の分野にまたがりイノベーションを起こす人はほとんどいない。恐らくそれは背景として生きた思想がないからである。

■作成日:2023年10月2日

続きは無謀に見える大胆な目標も真理にもとづけば不可能ではないをご覧ください。

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