精神病による合理性の崩壊

福島章『天才の精神分析』から引用する。

精神の危機は人間のもつさまざまの既存の精神構造を、とくに論理や社会的慣習や教養や精神の衣装を解体する。
人は生まれてからその時までの間、営々と築いてきた日常性、社会的常識、構造化された論理などをすべて失い、いわば裸でその世界と対決しなければならないのである。

社会的慣習も広い意味では合理的なもののひとつであり、概念化の産物である。精神病になると「社会的慣習」や「社会的常識」「日常性」が崩壊するという。例えば焼き鳥屋でみんなで飲み会する場面を取りあげる。

「集合」→「着席」→「とりあえずビール」→「乾杯」→「歓談」→「会計」→「二次会」→「解散」

これはすべて社会的慣習である。そして広い意味では概念化である。カテゴライズだ。そもそも「焼き鳥屋」という存在自体カテゴライズの産物だ。「鶏を調理し料理をだしてお金を取る店」というものが日本に存在し広く認知されている。焼き鳥屋は店によって見た目も雰囲気も味も違う。行きつけの焼き鳥屋であればその店の美味しさや個性を我々は知っている。しかし知らない店だと「あ、焼き鳥屋か。」といっしょくたにして理解した気になる。やはりカテゴライズされている。

そして「砂肝」や「鳥皮」という定番メニューもカテゴライズの産物であり、そういうメニューがあると広く認知されている。社会的慣習のひとつだ。

しかし精神病者においてはこの概念化、社会的慣習が崩壊する。するとどのように見えるか。一例をあげる。

この時精神病者は焼き鳥屋を「焼き鳥屋」としては認識せず、初めて見た人のように感じる。焼き鳥屋で行われていることを、鶏の身体を切り刻み、串刺しにし、火であぶり、人間たちがそれを喰らう、という非常に残酷な過程として見えてくる。少なくともそういう患者もいる。砂肝は鶏の内臓だけを串刺しにしている。鳥皮は鶏の皮膚だけを剥ぎ取って串刺しにする。鶏の身体が火にかけられる。最初は「やけど」から始まり、徐々に焼けただれていく。そして人間たちがそれを喰らう。精神病者によってはそれを非常に残酷と感じる。

私は以前ある大学の授業にもぐっていた。大学では毎週会合があり、いろんな分野で活躍している人が講演にやってくる。それを学生たちが聴いて見聞を広める。私は完全に部外者だが、紛れ込んで話を聞いていた。

ある日、精神病の人たちの施設を運営している方が講演に来た。その方が言うにはある若い女性の患者が焼き鳥屋を動物虐待として襲撃したという。その女性の写真も見せてくれた。非常に純粋そうで真面目そうな女性だった。その患者は病気によっておかしくなって焼き鳥屋を襲撃したと言えばその通りである。しかし病気のせいで何か邪悪なものが生まれてそのような行動をとったかというとそれは違う。彼女は非常に真面目そうであり、恐らく純粋に鶏がかわいそうと思って正義感から焼き鳥屋を襲撃したはずだ。もっとも我々はそれでは困惑せざるを得ないけれど。最近noteを見たらその患者の方の紹介が載っていた。非常に誠実そうな方である。リンクはこちら。この写真はおそらく2020年撮影だが、焼き鳥屋襲撃は2012年とのこと。今思い出 すとこの記事の「べてるの家」を運営されている向谷地生良さんの講演を聴いたのかもしれない。おそらく8年くらい前なので時期的にも一致する。

空海『秘蔵宝鑰』から引用する。環境依存文字が多いので仕方なく若干書き換えている。書き換えてない原文のほうがもっと作品の迫力が伝わるが仕方がない。

【原文】
遂乃
豺狼豺虎咀嚼於毛物
鯨鯢摩羯呑啜於鱗族

金翅食龍
羅刹喫人

人畜相呑
強弱相喫

況復
弓箭亘野猪鹿之戸絶種
網罨籠沢魚鼈之郷滅族

鷹隼飛而雀鵠流涙
敖犬走而狐兎断腸

禽獣尽心未飽
厨屋満舌不厭


【書下し文】
遂に乃ち
豺狼豺虎は毛物を咀[か]み嚼[くら]い
鯨鯢摩羯は鱗族を呑[の]み啜[すす]る

金翅は龍を食[は]み
羅刹は人を喫[くら]う

人畜相呑み
強弱相喫[くら]う

況んや復た
弓箭野を亘[わた]れば猪鹿の戸[とぼそ]種を断ち
網罨沢を籠[こ]むれば魚鼈の郷[さと]族を滅す

鷹隼飛べば雀鵠涙を流し
敖犬走れば狐兎腸を断つ

禽獣尽れども心は未だ飽かず
厨屋満つれども舌は厭わず


【現代語訳】

乃ち
狼や虎は獣類を噛み喰い
鯨や鮫は魚類を呑み啜る

金翅は龍を食い
羅刹は人を喰う

人間と獣類は互いに食べ合い
強者と弱者は互いに喰らい合う

更に
弓矢が野原を渡れば猪や鹿の種が断たれ
漁網が川沢を蔽えば魚や亀の族は滅す

鷹や隼が飛べば雀や雉は涙を流し
猛犬が走れば狐や兎は腸を断つ

鳥や獣を狩り尽くしても人は未だに満足せず
台所に肉が満ち溢れても人は飽き足らない

漢詩を多少とも鑑賞する人ならわかるが、この詩文はその対句が格調高く非常に深遠にして偉大である。二行づつ対句になっているので改行して分けてみた。対句を意識して原文の方を鑑賞いただければこの漢詩の偉大さがお分かりいただけると思う。今回の論文ですべての引用文を含め一番優れた文章はこの空海の文章だと思っている。異様な迫力。空海はいったいどんな人だったのだろう。こんな偉大な人が日本人の中にいたというのは驚きである。何度読んでも感動する。一文字づつノートに鉛筆で筆写して原文で鑑賞する。漢和辞典も引く。そうしないと理解できないと思う。私の下手な現代語訳では分からない。空海は難解ではある。

この詩は動物や人が互いに争い食べ合うことを詩にしている。現世の残酷さを表現する。空海のインスピレーションは何だったのかをたどると人や動物同士が食べあう残酷な現世である。実は空海は焼き鳥屋を襲撃した女性患者と同じ風景を見ているのだ。

しかし天才空海と女性患者との決定的な違いは「見ているもの」ではなく「見ている主体」である。主体の偉大さが違う。同じものを見ていても一方で空海は偉大な詩文を創作するが、しかし女性患者は何の役にも立たない焼き鳥屋の襲撃という行動になる。生み出すものが違うのである。

なぜ私が空海と女性患者の共通点に関して分析ができるかと言うと、それは私自身普通の人に比べると自分の無意識が何を感じているかを多少把握できるからかもしれない。少なくともそういう時がある。だから空海の偉大な作品に強く共感するし女性患者にそれなりに共感もする。しかしだからと言って空海のような偉大な作品が私に書けるわけではもちろんない。そして逆に女性患者のように焼き鳥屋を襲撃したりも当然しない。女性患者に「共感」するとは言っても「賛成」するのでは決してないのだ。焼き鳥屋襲撃は当然間違っている。決して行ってはいけない。その点は強調しておきたい。

合理的要素は現実を構成する非常に重要な要素である。「おかめ納豆」のラベルで概念化することで我々はこの納豆がおかめ納豆の工場でつくられたと知る。「衛生面でも信頼できるだろう」とか「けっこううまいだろう」とか色んなことをこの概念化から知れる。

目の前にいる「小さくて黒い動くもの」を「蟻」として概念化して認識できることで、これまで生物学者たちが積み上げてきた蟻についての研究を、目の前の「黒いもの」に当てはめることができる。合理性は現実を構成する重要な要素である。

精神病者においてはこの合理性が崩壊する。すると精神病者は現実が全く見えなくなるかというとそういうわけではない。合理性は現実の重要な要素であるが、合理性だけが現実なわけではないからだ。合理性によって抑圧されていた「なまの現実」が精神病者にあっては立ち現れて来る。それも現実のひとつである。福島章『天才の精神分析』から引用する。先ほどの引用と同じ箇所だが長めに引用する。

精神の危機は人間のもつさまざまの既存の精神構造を、とくに論理や社会的慣習や教養や精神の衣装を解体する。人は裸になって「自己」と「世界」の前に立たなければならない。従来は雑草におおわれ埃にまみれていた真に実存的な相が、病気の時には否応なしにあらわれることになる。
一般に急性精神病は、自我と社会との関係を根源的に変貌させてしまう。病者にとってそれまで見慣れてきた世界や他者はいつの間にか不気味にあるいは奇妙に変容してしまう。物は日常的な意味を失い、ロカンタンが嘔気を催す不気味なものとなり、また超日常的な意味を持つ。これを知覚における本質属性の前景支配という。人々の眼差しや動きは病者にとってすべて意味ありげで、世界は異様な雰囲気を帯びる。人は生まれてからその時までの間、営々と築いてきた日常性、社会的常識、構造化された論理などをすべて失い、いわば裸でその世界と対決しなければならないのである。

合理性が失われ、福島氏の言葉でいえば「裸」で世界を認識することで立ち現れるのが「なまの現実」である。これは純粋経験とか実存などとも呼ばれる。「営々と築いてきた日常性、社会的常識、構造化された論理などをすべて失う」とある通りだ。

サルトルの『嘔吐』から有名なくだりを引用する。

マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地につきささっていた。それが根というものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる言葉は消え失せていた。そしてそれと同時に事物の意義もその使い方もまたそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒の線も。背を丸め気味に頭を垂れたった独りで私は、まったく生の黒々と節くれだった、恐ろしい塊に面と向かって座っていた。

「あらゆる言葉は消え失せていた。」とあるように概念が消え失せ「なまの現実」が立ち現れている。正直に言うと実存主義にそんなに興味ないのでちゃんと読んでいないが、「実存」とは恐らく「なまの現実」を指す。wikipediaから実存主義の定義を引用する。

実存主義とは本質存在に対する現実存在の優位を説く思想である。「実存は本質に先立つ。」

「実存」とは「なまの現実」であり「本質」とは「概念」である。「実存は本質に先立つ。」とは「なまの現実」が「概念」に先立つということを表している。我々は「概念=本質」を介して現実を見ているが、本当はそれよりも「なまの現実=実存」が先立つのだ。

実存主義については私は知らないのでその思想を正しく評価はできない。しかし引用した部分のみに関して言えば恐らくあまり高く評価できない。それらは精神病と同じとも言えるからだ。河合隼雄『心理療法序説』から引用する。

筆者がお会いした精神分裂病の方が寛解状態になった時に自分の発病時の様子について、その時に自分の眼の前の「机そのもの」が見えてきて、その体験に圧倒されそれを他人に伝えようにも言葉が見つからなかった、と言われた。すでに述べたように我々が「そこに机がある」と言う時は「机というもの」を見ているのだ。これに対してその方には「机そのもの」が見えたのだろう。「言葉が見つからない」のも当然である。

「机というもの」は概念である。「机そのもの」が実存だ。概念が崩壊し実存が立ち現れている。

確かに天才はそこから優れた作品を創る。しかし精神病者は優れた作品を創るどころか、なぜ自分がこのような考えを持つに至ったのか合理的に説明すらできない。天才には合理性とインスピレーションの両方が必要だ。精神病者はインスピレーションはあるかもしれない。しかし合理性がない。

焼き鳥屋を襲撃した女性がなぜ自分がそのような考えを持つに至ったかを合理的に表現できれば、その女性はある程度合理性を持っていると言える。サルトルのようにそのインスピレーションから優れた論文か芸術作品かを創れれば天才と言っていいかもしれない。空海のような偉大な詩文をつくれば大天才と言える。しかし彼女にできたのは焼き鳥屋の襲撃である。

天才と精神病者は同じものを見ている。しかし見ている主体の偉大さが違う。だからそこから生み出すものも違う。それが天才と精神病は関係があるが全く別物であると私が言う理由である。

続きはカテゴライズとその崩壊をご覧ください。


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