天才とは何か 結論

まだ論述は続くが区切りがいいのでここでまとめをしておく。

この論文の最初に天才論の研究結果は非常に歯切れが悪いと述べた。その理由はこれまでの論述で明らかになったと思う。一つ目の理由は天才の成立条件は合理性とインスピレーションを兼ね備えることであるから。二つの要因があるためどっちともとれる結論になり非常に歯切れが悪い。すでに述べたように歯切れの悪さは他にも原因がある。

天才研究をしたことない人は天才をIQと同一視する。「天才とはIQの高い人ですか?」という問いを立てる。たしかに天才であるためにはインスピレーションと並んで合理性も必要なので全く的外れな問いではない。しかしIQは合理性のひとつの例にすぎない。だから山下清のようにIQが低くても他の方法で合理的能力があれば天才たりえる。そして「天才とはIQの高い人ですか?」という問いに対する答えは「天才は多くの場合IQが高い。でもIQが高くても天才にならない人が圧倒的に多いし、IQが低い天才も少数いる。」という何が何だか分からない答えになる。これは問いに対する回答が悪いのではなく、問い自体がピント外れな問いであるため答えも複雑な答えになっているのである。

天才研究をかじった人は天才を精神病質と同一視する。「天才は精神病質の人ですか?」という問いを立てる。たしかに天才であるためには合理性と並んでインスピレーションも必要なので全く的外れな問いではない。しかし精神病質はインスピレーションを得るひとつの例にすぎない。だからモーツァルトのように精神病質でなくても他の方法でインスピレーションを得られれば天才たりえる。この問いに対する答えは「天才は多くの場合精神病質です。しかし精神病質でも天才にならない場合が圧倒的に多いし、健康な天才も少数いる。」という歯切れの悪い答えになる。これも問いに対する回答が悪いのではなく、問い自体がピント外れな問いであるため答えも複雑な答えになっているのである。

結局天才とは「合理性とインスピレーションの両方を備えた人」というのが結論となる。これはクレッチマーにより「普通の才能とダイモニオンが必要」と指摘されていた通りであって、1958年というクレッチマーの『天才の心理学』が発刊された時点で答えが出ていたと言える。しかし現在の天才研究者たちも「天才はIQが高いか?」「天才とは精神病質者か?」という的外れな問いを真剣に問う。天才研究をしたことない人に問題意識を喚起するためにそのような問いをするのはいいのだが、そうではなく真剣に問う。

それは「天才とは何か」について一応の答えは出ているものの全体像が見えていないからである。ディズニーのミッキーマウスの絵のジグゾーパズルに喩えると、ミッキーマウスの顔の部分は出来上がっているが、ミッキーマウスの全体像は出来ていない状況だ。この論文で「天才とは何か」の全体像は提示できたのではないかと思っている。素人なので細かい点は間違っているだろうし、不足している点も多いと思うが、大雑把な全体像は示せたと考える。先にこの論文は天才に関する全体像を提示すると言った。全体像を表す地図を示すと述べた。地図と言ってもGoogleMapのような詳細な地図ではない。手書きの大雑把な地図だと断っておく。

ただ実はクレッチマーの回答や私の回答も実は十分ではない。なぜなら少しだけ精神病質な人は世の中に沢山いる。「少し病気でインスピレーションを持つが、基本的には健康で合理的能力を保っている人」は現代日本にも何万人もいる。そういう人は天才かと言うとほとんどの場合天才ではない。「合理的能力×インスピレーション」が天才に必要だが、ほとんどの精神病質者は「合理的能力+インスピレーション」の場合がほとんどである。「×」と「+」、掛け算か足し算かの違いだ。この違いは私は直感的にはある程度分かっているが言葉での説明が難しい。仕方ないので後ほど図を用いて解説する。図を用いると言葉だけの場合に比べてある程度直感的に伝えられる。それから後ほど疑似的に天才になる方法も紹介する。あくまで疑似的だが。私が考えた方法ではない。昔から知られた方法。それを実行すると少しだけ実感できる。

天才には合理性とインスピレーションが必要なので複合的な要因によって成立する。しかしこの両方を保持するために必要なのは「精神の大きさ」である。さらに健康でも天才であるために必要なのもやはり「精神の大きさ」である。結局天才の本質とは「精神の大きさ」なのである。天才は「合理性×インスピレーション」と言ったが、「精神の大きさ」があれば合理性とインスピレーションを兼ね備えた天才になる。だから言葉を換えると「天才とは精神の大きい人」とも言える。しかし「精神の大きさ」は言い換えると「偉大さ」である。だから「天才とは精神が大きい人である」が結論とすると「天才とは偉大な人である」と言っていることになってしまい。それは当り前と言うか何も説明したことにならない。結局同語反復のような結論になってしまう。

それでは当たり前の結論で何も述べていないに等しいという批判もあるかもしれない。しかし複雑な現実を正しく考慮したうえで、最終的に当たり前のシンプルな結論になるのは、正しい考察を行えた証拠だと私は思っている。

私は儒教を勉強しているが儒教は読んでいて眠たくなる。当り前のことしか言わないからだ。しかしそれは儒教が正しいことを述べているからだと思う。私は儒教を学んでいるので、「本当に正しい結論は常にではないが多くの場合、当たり前の結論になる」という印象を持っている。モンテスキュー『法の精神』序文に次の言葉がある。

この本には今日の諸著作の特徴である警抜な表現は見いだされないであろう。いやしくも事物を一定の広がりにおいて見さえするならば、 警抜さは消え失せてしまうものである。警抜さというのは通常、精神が全く一方にだけ傾倒し、他方はすべて顧みないからこそ生まれるものなのである。

モンテスキューの言う通り、奇抜で面白い表現は真理の全体をつかまず、部分だけを捉えることで生じる。部分的に当たっているためその表現には説得力が生じ、部分的に間違えているため刺激が生じる。例えば私の作った次の文章がある。

本当の経済は金で量るものではない。

経済は人間が価値を生み出す活動をお金に還元して計量する。しかし人間にとってお金にかえられない価値というものがある。本当に大切なものほどお金で量れないと言ってもいい。だから「本当の経済は金で量るものではない」と言う。この言葉は説得力を持つ。この言葉は一理ある。

しかしこの言葉は部分的には間違えている。ビジネスは最終的にはお金に還元されて初めて現実化する。お金に還元されないビジネスは夢想にすぎない。現実主義者はこの言葉を現実を知らない言葉として否定するだろう。価値を金で量るのは、あてにはならないが一番容易で確実な方法なのである。

「本当の経済は金で量るものではない」という言葉は部分的にあっているが部分的に間違えている。あっている点が説得力を生むが間違えている点が刺激を生む。この言葉を完全に正しい言葉に言い換えてみる。

経済はお金で量る。しかしお金で量れない価値もある。

となる。正しい表現になると当り前の言葉になり奇抜さは消えてしまう。モンテスキューの言葉通りである。そして儒教の文章が眠たい理由もここにある。そして「天才とは偉大な人物である」という私の当り前の結論が正しい理由もここにある。

と、ここで終わるつもりだったが、最近茂木健一郎先生のyoutubeの動画を見た。次の動画だ。

茂木先生はモンテスキューとは逆に「ゆがんでいるから個性なんだ。それが強いんだ。」と言う。モンテスキューからしたらコペルニクス的転回だ。モンテスキューが言っていることは正しいに違いない。しかし同時に多くの個性を殺してしまうというマイナスの効果もある。儒教が長い間、多くの個性を殺してきたのも同じだ。儒教の「正しさ」は儒教の長所であり短所である。長所が短所になり短所が長所になる。プラスのうちにマイナスが含まれ、マイナスのうちにプラスが含まれる。これも物事の二面性だ。

中国の思想に「陽の中にある陰が物事を動かし、陰の中にある陽が物事を動かす」とある。「儒教の正しさ」という「陽」の中に「ゆがんだ個性を押し潰す」という「陰」がある。それが物事を動かしてしまう。「正しい」からこそ、その正しさは強制され、ゆがんだ個性は押し潰される。逆に「ゆがんだ個性」という「陰」が尊重されることで「多くの個性が花開く」という「陽」が生まれる。それが物事を動かしていく。どっちも行き過ぎは良くないのだろう。バランスの問題だと思う。

続きは健全な心と病める魂をご覧ください。


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