精神病

続いて精神病について述べる。精神病は神経症の反対である。神経症は無意識の訴えを聴かないことで病気になる。精神病は逆に無意識のいうことを聴きすぎて病気になる。精神病の本を読むとよく「精神病者は無意識に対して心が開かれている」とか「無意識が意識に侵入する」とかいう表現が出てくる。そんないい方されてもよく分からないと言う人も多いだろう。説明する。

健康人は日頃理性的に考え合理的に行動する。意識は合理的である。しかし我々でも非合理的な無意識の動きが優勢になるケースがふたつある。夢を見ているときと酒に酔っ払った時である。

夢を見ているとき我々は夢の中では真剣に合理的に行動しているつもりだが、夢から覚めて自分の夢のなかでの行動を振り返ると「俺は頭がおかしいんじゃないか?」と思う時がある。非合理的な無意識が優勢になっているからである。

フロイトの『夢判断』から引用する。

カントはある著作中に「気違いは目を覚ましたままで夢を見ている人間である」と言い、クラウスは「狂気は感覚が目覚めたままの状態での夢である」と言い、ショーペンハウエルは夢を短期間の狂気、狂気を長い夢と呼び、ハーゲンは妄想を睡眠によってではなく病気によって引き起こされた夢の営みと言い、ヴントは「実際われわれは夢の中で、われわれが精神病院で出会うほとんどすべての現象を自ら親しく体験することができる。」と書いている。

精神病と夢は全く同一ではないと私は思っているが、健康人が経験できる体験のうち、精神病に最も近いのは夢だろうと思う。無意識の働きが意識より優勢になるからだ。我々が酔っぱらった時も無意識の働きが優勢になり精神病に若干近くなる。先ほど述べた神経症は夢とは全く違う。

『恋愛小説家』という映画がある。英語の原題は"As good as it gets"と言う。奇人変人である中年男性の恋愛小説家の主人公の物語だ。彼は彼の小説の熱烈なファンである女性からの質問に対して答える。

女性:"How do you write women so well?"「どうしてあなたは小説で女性を上手に描けるの?」

恋愛小説家:"I think of a man, and I take away reason and accountability.”「おれは最初に男を思い浮かべる。そしてそこから合理性と責任感をさっぴくんだ。」

男性から合理性と責任感をさっぴくと女性になると言っている。私はもちろんその考えには反対である。女性には合理性があり責任感がある。

しかしこの言葉はある意味興味深い。この言葉は精神病者に当てはまるからだ。健康人から合理性と責任能力をさっぴくと精神病者になる。精神病はひどい場合には合理性はほとんどなくなり、軽い場合には合理性が一部なくなる。夢の中で我々が合理性をなくすのと同じだ。そして合理性がない以上責任能力もなくなる。刑法で重い精神障害の人は責任を問われないというのは合理性がなくなっているからである。

酔っぱらった人も合理性を失う。酔っぱらった人が他人に絡んでいると酔っぱらった人の友人が「ごめんなさい。こいつ酔っているんで。」と言い訳するのは酔っぱらっているからという理由で責任を回避しようとしているのだ。ただ刑法上は酔っぱらってもほとんどの場合責任は問われるそうだ。

岡田尊司の『統合失調症 その新たなる真実』から引用する。

統合失調症の症状として幻覚妄想や自我症状とともにもうひとつ重要なのは行動や言葉の纏まりが悪くなることである。その根底には思考の統合が緩くなるという基本症状がある。この症状をブロイラーは「連合弛緩」と呼んだが、現在では解体症状と呼ばれることが多い。 「解体」というとショッキングな響きがあるが英語で言うとディスオーガニゼーション、つまり纏まりがないということである。行動や言葉の纏まりが悪くなるのである。その根底にあるのは思考の混乱である。考えを纏める力が落ちている状態を思考障害と呼ぶ。思考障害があると考えがうまく進んでいかず、とぎれとぎれにしか話せなかったり、論理的な筋道に沿って話すということが難しい。聞いている者はとても理解しにくく感じる。

要は統合失調症という精神病になると合理性が失われる。我々は合理性があるから論理的に一貫した行動や論述ができる。しかし精神病ではその論理性が失われるから行動や言葉のまとまりがなくなってしまうと言う。文章は次のように続く。

次はそうした一例で、女子学生が語った言葉である。
「もっと本が読みたい。学校にはしばらく行かないで家で10回だけピアノを弾いて。周りがすごくうるさい。だからおじさんがオーソドックスな本を読みなさい。黒人でアンドレワッツというピアニストがいてその曲を一回弾いて外に出たり、母親がアメリカ人でカンパネラというピアノを弾いていたわけです。でもピアノにかぎを閉めてしまいました。私が閉めました。いま本を置いてきたのです。椅子のところ。」
このケースでは話の言語的な纏まりがゆるくなり連合弛緩を呈している。ただ、ひとつひとつの言葉は理解可能であるが、論理的なつながりが緩くなったり、個人的な連想で言葉が連なっていくため第三者には話が飛んでしまったように感じられる。

要は統合失調症になると言葉と行動が支離滅裂になる。これは我々が夢を見るときと若干似ている。夢を見ているときの体験はひとつひとつの体験は理解できる。おかしな出来事が生じるかもしれないが理解はできる。しかし話はあっちこっちにとんで合理的な体験にはならない。女子学生の話のようにあっちこっちに話が飛ぶ。

続きは精神病は理解できるかをご覧ください。


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