現代人と古代人の精神の違い

意識の合理性と無意識の非合理性をまとめる。福島章『天才 創造のパトグラフィー』に合理性と非合理性の項目の対比的な列挙がある。私が考えたものも付け足して列挙する。非合理性はインスピレーションとする。

合理性   ⇔  インスピレーション
言語    ⇔  イメージ
一義的   ⇔  多義的
論理的   ⇔  連想的
デジタル的 ⇔  アナログ的
左脳的   ⇔  右脳的
おとな   ⇔  こども
人間    ⇔  動物
現代    ⇔  古代
先進国   ⇔  途上国
健康    ⇔  精神病
しらふ   ⇔  酔っ払い
現実    ⇔  夢
まじめ   ⇔  ユーモア
数学    ⇔  宗教
科学    ⇔  芸術

現代    ⇔  古代
について考える。

合理性とインスピレーションのどちらに重きが置かれるか、どちらが尊敬されるかは時代によって違う。現代人は合理性を重視し非合理性を排除しようとする。働いている人は皆そうだと思うが、仕事場で自分の気持ちを押し殺して客に対応したり、倫理的な正しさを重視して自分の気持ちを抑圧したりする。合理的な「ねばならない」が多すぎるのだ。現代人は自分の無意識が何を感じているのかがだんだん分からなくなっていく。自分の本当の気持ちを見失う。無意識の声に耳を傾けないのが神経症だと言った。現代人は神経症に近いのである。現代人は合理性を重視し非合理的な無意識を押さえつける。ただ私は別に同時代を批判しているのではない。私自身その傾向は強いからだ。

島崎敏樹『現代人の心』という書物から引用する。

現代に共通に見いだされるのは自由な自己を創造的に生かそうとする人間的欲求が、技術化され機械化された今日の社会環境に圧倒されてしらずしらず挫折していく姿である。とすればこのような病態は現代人のおそらくすべてが多少とも経験しているものではなかろうか。現代人は多少とも神経症的である。

それに対して古代の人は我々に比べ非合理的要素が大きい。インスピレーションを重視する。古代の人は現代よりインスピ重視だ。しかし厳密に言うと「古代」の前の「始代」が最もインスピレーション重視である。日本でいえば「古代」は大化の改新時代。「始代」は卑弥呼の時代である。卑弥呼自身巫女であり、巫女はインスピレーションが最も優れた人だ。そういう人が支配者だった。

古代は実は始代よりだいぶ合理的である。中国の古代は儒教などの合理的思想が発展した。西洋でも古代ギリシャやローマは合理性が誕生した時期である。古代インドでもある程度合理的な思想が現れた。日本も中国から合理的な考えが入ってきた大化の改新以後に古代国家が成立する。インスピレーション重視の時代は本当は古代ではなくて始代なのだ。しかし「始代」という言葉は一般的ではない。分かりづらい。原始時代と言うのも卑弥呼の時代を原始時代と呼んでいいか分からんので、インスピレーション重視の時代は仮に「古代」としておく。そっちが分かりやすい。

少し脱線すると始代がインスピレーション重視で古代は合理性が花開いた時代。中世は合理性より精神性が重んじられた。ヨーロッパはキリスト教の時代だし中国や日本は仏教。中世にイスラム教が勃興。宗教が重んじられた。近代は合理性が非常に発展した。科学の驚異的な発展だ。「始代=インスピ重視」→「古代=合理重視」→「中世=インスピ重視」→「近代=合理性重視」とインスピレーション重視と合理性重視とが交互に現れる。堺屋太一の論だ。現代は合理性がさらに発展しながらも精神性が再び重んじられようとしている。現代は「新しい中世」と言う人もいる。古代は本当は合理重視と言っていい。しかしこの論文では古代は現代と対比してインスピ重視として扱う。

『古事記』から引用する。黄泉の国から帰ってきた伊耶那伎が「穢い国から帰ってきたので禊をしよう」と言って水に入って身を清める場面がある。自分が持っている杖や衣服を投げ捨てて水の中に入り身を清める場面だ。いわゆる「禊=みそぎ」だ。

伊耶那伎は「私は見る目も醜い穢い国にいた。だから体の禊をしよう。」と仰って筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に至って禊をなさった。彼が投げ捨てた御杖から生まれた神の名は衝立船戸の神。次に投げ捨てた御帯から生まれた神の名は道之長乳歯の神。次に投げ捨てた御嚢から生まれた神の名は時量師の神。次に投げ捨てた御衣から生まれた神の名は和豆良比能宇斯の神。次に投げ捨てた御袴から生まれた神の名は道俣の神。・・・

水に入るために杖を投げ捨てるとそれから神が生まれ、帯を投げ捨てるとそれから神が生まれ、はかまを投げ捨てるとそこから神が生まれる。まるで何か連想ゲームのように話が展開していく。これが無意識的な働きに近い。我々現代人も夢ではストーリーが連想ゲーム的に展開していく。それに近い。

『古事記』が重要であるのは我々日本人の精神の古層に古事記的な精神が残っていて、古事記を読むことでそれを自分の内に認識できる点だ。さらに引用する。

スサノオの命は海原を治める仕事を命じられたにもかかわらず、少しもその事に当たろうともせず、その髯が八握もあるほど長くなり、胸元に垂れさがるほどになっても、なお足ずりして大声に泣きわめいていた。その泣く有様の烈しいことは、青々と草木に茂る山々も枯れ木の山になるまでに泣き枯らし、波の立ち騒ぐ海や河も、水の一滴もなくなるほど泣き干してしまう勢いだった。これではどうして国を治めることなどできよう。悪い神はここぞとばかりに騒ぎはじめ、その声は五月の蠅がそこここから湧きたつようにあたりに満ち、あらゆる禍という禍が一時に起こってきた。イザナギの大御神はこのありさまを見て、スサノオの命に次のように尋ねた。「いったいどういうわけがあって、お前は私がせっかく仕事を任せた国を治めようともせずに、そんなに地だんだを踏んで泣いておるのだ?」こう訊かれてスサノオの命は「私は母の国が恋しくてならないのです。亡くなられた母のいるという地の底の根之堅洲国に行きたいと思うので、それゆえこうして泣いてばかりいるのです。

スサノオの泣き方は尋常ではない。泣きたいときに泣く。笑いたいときに笑う。古事記の登場人物は自分に素直である。現代人のように「自分の気持ちを押し殺す」ということがそもそも理解できないかもしれない。

無意識があるので我々は生き生きとした生活ができる。無意識の動きが遮断されると我々は精神的に干からびた生活になる。神経症的になる。しかし逆に精神が無意識に対して開かれ過ぎると逆に生活が生き生きしすぎて無意識の力に翻弄され精神病になる。なんでもほどほどがいいのである。

古事記の時代の人々は恐らく我々よりも精神的に生き生きとしていた可能性が高い。精神病に近い。下の図は現代人の精神の構図だ。

それに対して下の図は古代人の精神の構図。

意識と無意識を隔てる壁が現代人では厚く、古代人では薄い。意識と無意識を隔てる黒いラインの太さが違うだろう。よって古事記の時代の人々は自分の無意識の動きを感じやすい。我々よりも精神的に生き生きしていたはずだ。喜びも悲しみも楽しみも苦しみも我々より何倍もあったはずだ。無意識に心が開かれていたのである。

途上国と先進国

先進国   ⇔  途上国
についても少し考察する。

アフリカの現代文学からの引用だ。長くなるが『やし酒飲み』から引用する。

その男は美しく完全な紳士だった。彼はこの世でもっとも素晴らしく、もっとも高価な服を身にまとい、背丈が高く、すらっとして、しかも屈強で、身体のどこをとってみても完璧だった。もしもこの紳士が市場にやってきた日に、商売用の品物か動物として売りに出されたとすれば、少なくとも二千ポンドはしたことだろう。だからこのような完全な紳士を市場で見かけた時、彼の住所を聞くことがこの娘にできる精一杯のことだった。ところがこの素晴らしい紳士は、それに答えもしないで、また近づこうともしなかったのだ。彼が耳を貸そうともしないのに気づいた時、彼女は自分の品物を放りっぱなしにして、完全な紳士の市場での動きをじっと観察しはじめたので、品物の方はすっかり売れ残ってしまったのだった。
その日の市が終わった時、人々はそれぞれの目的地へ帰り、完全な紳士も自分の住居に帰りかけた。ところでこの紳士を市場でずっと追いまわしていたこの娘は、他の人々と同じように彼が目的地に帰るのを見て、その跡をつけて、未知の土地へついていくのだった。道の途中で、彼は娘に跡をつけないで家へ帰るように言い聞かしたのだが、娘は言うことを聞き入れようとはしなかった。そこで完全な紳士は、ついに言いくたびれてしまい、好きなようにしろ、と彼女のなすにまかせたのだった。
市場から十二マイルばかり離れた時、彼らは今まで来た道をそれて、恐ろしい生物だけが生息する底なしの森に入りはじめた。
この底なしの森を旅行していた時、市場では完全な紳士だった、そして彼女が跡をつけてきたこの男は、借り賃を払いながら、自分の身体の借りた部分を所有主に返しはじめた。左足を借りたところへやってきた時、彼は左足を引っこ抜いて、所有主に渡し、借り賃を払い彼らはまた旅をつづけた。右足を借りたところでも、左足と同じように右足をももぎとって所有主に返した。そして両足を返してしまったので、彼はとうとう地面を這い出した。その時になって娘は、自分の町や父のもとへ帰りたくて仕方なかったのだが、身の毛もよだつようなこの奇妙な生物、完全な紳士は絶対にそれを許そうとはしないで、「この恐ろしい奇妙な生物の所領である底なしの森に入る前に、私はちゃんとあなたについて来ないように申したはずだ。今、半体の不完全な紳士になったわたしを見て、あなたは家へ帰りたいというが、そんなことはもう許せない。あなたは過ちを犯したのだ。まだまだ見せたいものが沢山あるからついてきなさい。」と言うのだった。
彼らはさらに奥に進んで、腹・あばら骨・胸などを借りたところへやってきた時、彼らはそれらを引っこ抜いて所有主に返し、借り賃を払って行った。
そしてとうとう、この身の毛もよだつ生物紳士は、今では頭と首のついた両腕が残っているだけとなってしまった。こうなっては前のように這うこともできず、ただ牛ガエルのように跳びはねて進むだけで、娘は恐怖のあまり気が遠くなってしまった。市場では完全であったこの紳士の身体の各部分は実や予備の借り物であったこと、そしてそれらを所有主に返しているさまを見た娘は、死力をつくして、父の町へ帰る努力をしてみたのだが、この恐ろしい生物はどうしてもそうはさせてくれなかった。
両腕を借りたところへやってきた時、彼は両腕を引っこ抜いて所有主に返し、代金を払い、二人はさらに底なしの森の旅を続け、首を借りた所に来た時、彼は首を引っこ抜いて所有主に返し、代金を払った。
とうとう頭だけになったこの完全な紳士は頭の外皮と肉を借りたところにやってきて、それらを所有主に返し、代金を払ったので、市場では完全であった紳士は、ついに「頭ガイ骨」だけになってしまった。そして自分と一緒にいるのはただの「頭ガイ骨」であるのに気づいた娘は、ある男と結婚するようすすめてくれた父の言うことを聞かず、また信用しなかったことを後悔し始めるのだった。
紳士が「頭ガイ骨」だけになってしまったのを見て娘は失神しかけたが、「頭ガイ骨」は「たとえ死んでも私の家まで絶対ついてくるのだ」ときつい調子で言い渡した。そして最初はモグモグいっていた恐ろしい声が、やがて次第にもの凄い荒々しい声になり、二マイル離れた人の耳にもまっさきに入るほどの大きさになった。

この作品は非常に面白い。合理性よりも自由なイマジネーションがあふれる作品だ。どこか『古事記』の文章に似ていないだろうか。合理性が浸透した先進国に比べ途上国では豊かなイマジネーションが現代でも生きている。先進国ではこのようなイマジネーションは合理性によって排除される。岡田尊司『統合失調症 その新たなる真実』から引用する。

幻聴や独り言といった「症状」が見られる場合、西洋流の精神医学ではそれは精神病を疑わせる重要な「症状」である。しかし開発途上地域の部族社会では幻聴が少しあるくらいは病気だとみなされないことが普通である。むしろそうした人は「霊能」を備えた人として尊敬を受けることも多い。実際先進国では精神病患者と見なされてしまう人が途上国の農村ではむしろ高い社会的地位を占めていたりする。

精神病質であることは途上国の農村ではインスピレーションがあるひと「あっちの世界」が分かる人として尊敬されると言うのだ。『古事記』や『やし酒飲み』を読んでもわかるように近代合理主義が浸透する前は人類はイマジネーションにあふれた生活をしていたと思われる。それが恐らく世界中で普遍的に見られることからも我々が失ったそういう価値観にも合理的価値観と同じくらい意味があると思う。

続きは生命的な自然をご覧ください。


■上部の画像はゴッホ

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