天才と凡人の違い 喩え話

たとえ話をする。天才と精神病と健康人の関係を火山とその近くの街に譬える。火山の噴火でマグマが地中から噴き出る。これは無意識が意識に噴き出るのと同じとする。火山の近くに街がある。これを意識とする。

精神病者は火山の噴火により街が大混乱している状態である。無意識の噴出で意識が混乱している。健康者は火山の噴火がないため街は平和である。無意識というマグマが意識という地上に噴火しないので街は安全である。それに対して天才は火山の噴火を発電のために利用して街に電力を供給し、街は豊かな暮らしをしている。天才が無意識のインスピレーションを生かして優れた作品を創っているのを喩える。

別の喩えも挙げる。海を無意識として船を意識とする。精神病者は強風が吹いて海が荒れている。海の上の船は海に翻弄される。無意識の上に浮かぶ意識が無意識が荒れることで翻弄される。場合によっては船は転覆する。精神病者の精神は重度の場合は崩壊する。健康者は海は静かで手漕ぎでゆっくり海の上を進む。無意識は荒れず意識は平穏を保ち、健全な努力でゆっくりと進んでいく。天才においては海は非常にあれ強風が吹く。しかし船のサイズも大きく安定し、さらにその強風をマストで大きな推進力にかえて進んでいく。

クレッチマー『天才の心理学』から引用する。

ゲーテやビスマルクなどの場合には、精神病理的傾向はほとんど常に天才促進的にのみ作用する。つまり、その人格を極度に敏感にし、刺激し、際だたせ、さらにそれをいっそう複雑に豊富に意識的なものにするために作用する。精神病理的傾向に付随する烈しい内的矛盾や不安定な神経質的繊細性は、この場合には健全な全人格によって制御され、あまつさえその天才的全能力をますます豊富にし促進させるために役立つのである。

難しいことを言っているようだが、要は精神病質的な傾向は天才においてはその才能を豊かにするように働くと言っている。火山の噴火で発電できるという意味だ。精神病者においては「烈しい内的矛盾や不安定な神経質的繊細性」は病的である。しかしその全く同じものが天才においてはその才能を豊かにし天才をつくる。さらに引用する。

精神病質者の多くは社会的能力の上から見てもマイナスの人である。しかし高い才能と特別な遺伝的条件を持つ者においては、精神病質は精神的生産力に対して抑制的に作用しない。それのみか、我々が天才性と呼ぶ心理学的複合体にとって、直接の欠くべからざる部分的な一要因となる。もし天才の素質からこの精神病理学的な遺伝因子、すなわちデーモニッシュな不安と精神的緊張との酵素となるべきものを除外してしまったら、後にはただ才能ある平凡人が残るのみとなるであろう。天才の伝記を深く研究すればするほど、天才に常に反復して現れる精神病理的な部分的要素が、生物学上悲しむべきしかも避けがたいものではあるが、それと同時に、もっとも狭義の意味における天才性のすべてに欠くべからざる内的な本質成分であり酵素であるということを痛感せずにはいられないのである。

精神病質者はその多くは火山の噴火で混乱する街のようである。「精神病質者の多くは社会的能力の上から見てもマイナスの人である」とある通り。しかし天才においては火山の噴火がその天才性の本質だという。「デーモニッシュな不安と精神的緊張」、これがあるから天才は天才でいられるというのだ。それは「天才性のすべてに欠くべからざる内的な本質成分」であり、それを「除外してしまったら、後にはただ才能ある平凡人が残るのみ」だとクレッチマーは述べる。

福島章『天才の精神分析』から引用する。

天才と言われるような人々はいずれもその種のデーモンを抱えているものだろうが、そのスケールや相貌はその人その人で違うようである。メンデルスゾーンやヴィヴァルディのように、そのデーモンをうまく手なずけて閉じ込めたうえで均整の取れた仕事をした人もいれば、フーゴー・ウォルフやロバート・シューマンのように、結局そのデーモンに食い殺されてしまった天才もいる。

メンデルスゾーンやヴィヴァルディは福島氏によると火山をうまく制御し優れた作品を残した。フーゴー・ウォルフやロバート・シューマンは福島氏によると、確かに彼らも天才であるから火山で発電はできていたのだろうが、途中から火山があまりにも活発になって最終的には街は大混乱に陥って壊滅してしまったということになる。

一般人は天才の作品を誉める。火山の例でいえば発電して街を豊かにしているのを誉める。それは正しい。間違っていない。ただ天才は「発電のためには本当は火山が必要なんだよ。」と言う。そこで一般人はそれを笑う。「噴火したら街は混乱するだけだよ。」と言って笑う。

天才はここでイライラする。イライラしたニーチェは「狂気はどこにあるか。それを汝らに植え付けねばならぬのだが。」と言う。天才によっては他人に説明するのを最初から諦める。

天才と精神病者は同じものを見ていると言った。例えば仮に空海が現代日本に生きていて人や獣が互いに食べ合う現世の残酷さを人々に説いてもなかなか理解されないとする。そんな時に焼き鳥屋を襲撃した女性患者の話を空海が聞くと「あれ?こんなところに理解者がいるぞ。」と思うかもしれない。シェイクスピア『ハムレット』から引用する。気の狂ったハムレットの言葉に対するある登場人物の科白。

ときどき、えらく気の利いた返事をするわい!正気の者の口からは出てきそうにない文句を、かえって気違いが巧く言い当てるというのは、よくあることだが。

天才自身は自分を若干狂気に近いと感じている。夏目漱石もその創作の原動力として精神の病があると述べている。ショーペンハウエルは「天才は平均的な知性よりは、むしろ狂気に近い」と言う。

しかし何度も言うが精神病と天才は違う。精神病では常識が崩壊する。天才は常識にとらわれない発想をする。それに対して健康人は常識にとらわれる。同様に精神病においては概念は崩壊する。天才は概念にとらわれない精神になるが、概念は残り続ける。健康人は概念にとらわれる。

精神病者も天才も常識や概念と距離を置くのは常識や概念にとらわれない無意識との接触があるからである。しかし天才は健康人の側面と病気の側面をあわせもつ。天才の一部には焼き鳥屋を残酷と感じる人もいるかもしれない。しかし彼は概念の世界、常識の世界も同じように重要だと知っている。焼き鳥屋で飲み会をする時のいつものパターンも大切なのである。だから彼は少しかわいそうと思ってもおいしく焼き鳥をいただくに違いない。実際焼き鳥は断然うまいのであって、私も大好きである。

天才には二種類ある。「常識にとらわれず常識を嫌う天才」と「常識にとらわれず常識を大切にする天才」の二種類だ。常識を嫌う天才としてニーチェや老子が挙げられる。常識を大切にする天才としてアリストテレスや孔子がいる。天才は「インスピレーション」と「合理性」を兼ね備える。合理性≒常識。私の勝手な考えで十分な根拠はないが、おそらくインスピレーションと常識を兼ね備えた「常識にとらわれず常識を大切にする天才」のほうが、「常識を嫌う天才」より才能的に優れていると思っている。そして常識にとらわれる健康人がその次に能力がある。常識が崩壊した精神病者がその次となる。

能力のある順番
常識にとらわれず常識を大切にする天才 > 常識にとらわれず常識を嫌う天才 > 常識にとらわれる健康人 > 常識が崩壊した精神病者。

合理的な健康人が合理性のみを評価し精神病質的側面を評価せずそれを天才に必要な要素と考えないように、インスピレーションが豊富な精神病質者の中には逆に合理的能力や健全な常識を評価せずそれを天才に必要な要素と考えない人もいる。クレッチマーはそのような精神病質者を「類天才」と呼んでいる。『天才の心理学』から引用する。

大多数の大天才は精神の確乎とした健康な構造という力強い部分をあわせもっている。ゲーテの『ヘルマンとドロテア』や、シラーの『鐘』などにも表現されているとおり、飲食や地位などに対する欲望や、確乎とした義務遂行などに対する愉悦感や、妻子に対する愛情など、健全な正常人が有する基本的本能の一面は大天才にもまた見出されるのである。ところで、凡庸人が天才における精神病理的なものを洞察できぬと同じように、類天才的な単純な精神病質者は大天才に見られるこのような健全な面を正しく評価することができない。伊達者、頽廃的都会文士、似非天才的な革命家というような人たちは、シラーの『鐘』を憐憫の情をもって嘲笑する。そのむかし頽廃的作家や活動的精神病質者や、ティーク、シュレーゲルなどの浪漫派文士らも同じ嘲笑をこの作品に浴びせかけた。しかもこの際、こうした手合いは天才にみられるこの凡俗的な方面こそ、天才の作品にその勤勉と忍耐となごやかな緊張と新鮮な迫真性などが相まって、類天才らの騒々しくもはかない駄作をはるかに超越する作品効果を与えたものであることを知らなかったのである。

インスピレーションをもつ「類天才」は健全な常識を馬鹿にする。しかし健全な常識も確かに天才に必要な要素である。ニーチェや老子は間違いなく天才であるが常識を軽視する。若干だが「類天才」に近いのかもしれない。アリストテレスや孔子はその点常識を大切にする天才である。

まとめる
精神病 = 健康人 - 合理性 + インスピレーション
神経症 = 健康人 + 合理性 - インスピレーション
天才  = 健康人 + 合理性 + インスピレーション

続きは東大理IIIは天才かをご覧ください。


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