カテゴライズの弊害

ダウンタウンのフリートークから。

松本さんが言っているのは次の点だ。1年は12ヶ月であり日本には四季がある。だからみな3ヶ月ごとに季節が分かれると思ってしまう。3,4,5月が「春」というわけだ。だから3月なら「春」なのでもう暖かいはずだという思い込みがある。概念化の弊害である。もっと現実は多様で豊かなのに、概念によってその違いがすべて切り捨てられ捨象されてしまう。いっしょくたにされるのだ。感性豊かな人はこの概念化、カテゴライズを嫌う。

例えば私は納豆が好きだ。一番有名なのは「おかめ納豆」なのでその例で述べる。納豆をそれほど好きではない人は、おかめ納豆はどれもおかめのラベルが貼ってあるので、どのパックも同じ味がすると思いがちだ。しかし納豆はどういうわけか同じメーカーの納豆でも出来不出来の差がけっこうある。同じラベルが貼ってあっても美味いものもあれば、そこそこのものもある。

しかし納豆に対する感受性が少ない人はその多様性を押し潰してどれも同じ味だと思う。「概念化しないで納豆を食べたらもっと豊かな食事ができるのに」と思って、感受性豊かな人はカテゴライズを嫌うのだ。私も強く同感である。

では概念かは一切必要ないかと言うとそれは違う。概念化がないと大変なことになる。例えば目の前に蟻がいたとする。概念化がないと蟻をみてもそもそもそれを「蟻」と認識できない。初めて蟻を見た人のように「何だ?この黒いものは?動いてるぞ。」と思う。

街で信号機を見ても何なのか分からない。「何だ?あの光は?赤く光っているぞ。」となる。信号機をそもそも「信号機」と認識ができない。信号機は信号機によってその材質や形、古さなど多様である。しかし概念化によってその多様性は切り捨てられ、どれも同じ意味を持つものと解される。抽象的に概念として「信号機」と認識される。「赤」だと「止まれ」、「青」だと「行け」という意味だと概念的にわれわれは把握している。それでいいしそうあるべきだ。概念化がなかったら車の運転もできない。

概念は同じ概念の含まれる対象をいっしょくたにする。「同一化」と呼んでもいい。たとえば先の例でいうと3月4月5月は同じ「春」という概念に含まれるので3月1日と5月31日は同じ「春」としてくくられる。「おかめ納豆」のラベルは本当は多様な納豆の味を同一化する。しかし概念には「分離」作用もある。3月1日と2月28日は1日しか違わないのに3月1日は「春」、2月28日は「冬」として認識される。別とされる。「分離」作用である。九州には「お城納豆」という有名な納豆が売ってあるが、「おかめ納豆」のラベルは「おかめ納豆」から「お城納豆」を分離する。別のラベルが貼ってあるから別の種類の納豆だと我々は考える。確かに味も違うので現実においても別の納豆ではあるのだが、しかし概念化により現実以上に分離される。

英語の諺に次の諺がある。

“Prejudice is a great time saver. You can form opinions without having to get the facts.”

偏見は時間の節約になる。いちいち事実を確認しなくても自分の意見を形成できるからだ。

例えば庭で蟻の大群を見たとする。私は「蟻か。どうせ働いているんだろう。」と思う。これは偏見の一種である。蟻が本当に働いているか事実を確認しないで「どうせ働いているんだろう。」という意見を形成しているからだ。実際は蟻の2割は働いていないらしい。偏見でも十分根拠のある偏見であれば8割がたあたる。「蟻か。どうせ働いているんだろう。」は確かに8割がた当たっている。2割外しているが。ただもちろん根拠のない悪しき偏見も世の中にはある。そういう偏見には従わないほうがいい。いずれにしても偏見なしですべて事実にあたって確認していたら事実確認だけで一日終わる。偏見も有効な場合は多い。

もちろん松本さんもなにも概念化をすべてなくせと言っているわけではない。概念にとらわれるなと言っているだけだ。河合隼雄氏がある人と対談していて、相手が「概念化はすべてなくさないといけない」と主張したのに対し「概念は必要やと思いますよ。ただそれに囚われなければいいんです。」という趣旨のことを述べていた。正しいバランスだと思う。

概念化は広い意味で論理のひとつであり思考の産物である。「おかめ納豆」という「概念」によりおかめ納豆の味という「感覚」的な多様性は切り捨てられた。「概念」が「感覚」を抑圧しているのが分かる。我々はカブトムシを見ると「あ、カブトムシか。」と思って丁寧に観察せず、理解したつもりになる。概念化して分かったつもりになる。ユングはこれを「思考による方向づけ」と呼ぶ。『タイプ論』から引用する。

私は構えの一般的な原理を方向づけと呼ぶ。いかなる構えも一定の観点に立って ―この観点がそのときに意識されているか否かにかかわらず― 自らを方向づけている。いわゆる権力的な構えは、圧迫してくる諸勢力や諸条件を抑え込んで自我を権力の座に据えようとする観点から自らを方向づける。思考的構えは、例えば論理的な原理を自らの最高法則として、それを基準にして自らを方向づける。感覚的構えは所与の事実の五感による知覚を基準にして自らを方向づける。

ユングによると「思考」「感情」「直観」「感覚」など人間のタイプがある。思考型の人は「論理的な原理を自らの最高法則として、それを基準にして自らを方向づける」とあるように思考を優先し感情など他の要素を抑えつける。「おかめ納豆という概念化」が「多様な味という感覚」を抑えつけるように。思考が基準となって自分や物事を方向づける。

逆に感情が理性を抑えつける場合もある。AさんがBさんを好きだったとする。理性的に考えてBさんには明らかな欠点があったとする。しかしAさんはBさんを好きという感情を優先してBさんの欠点を欠点として認識しないとする。「あばたもえくぼ」である。それでBさんの欠点を認識しないことが後に問題を引き起こすかもしれない。感情が優先され理性が抑圧される。

『タイプ論』からさらに引用する。

思考が肥大して他のものをすべて圧迫することもあるし、感情や思考が感覚を呑み込んでしまうこともある。

これも同じことを述べている。例えば思考と感情が対立した時に思考型の人は多くの場合思考を優先させ感情を抑える。感情型の人は感情を優先させ思考を無視する。

現代という時代は合理性が行き過ぎている時代かもしれない。「思考」が先行し他の要素を抑えつけている。合理性は重要だしこれからもさらなる発展が必要だ。しかしユングの言うそれ以外の「感情」「直感」「感覚」などもそれに劣らず重要である。

現代は合理性が行き過ぎている。そのため「思考」の行き過ぎを抑えるためか、今度は逆の極端に走って合理性をすべて排除しようという思想すらある。「純粋経験」という思想だ。「反省を含まず主観・客観が区別される以前の直接経験」を指す。「反省」つまり「合理性」を排除する思想だ。理性の行き過ぎを是正しようという試みかもしれない。理解できなくもないがこれはあまり高く評価できない。なぜならそれは合理性を失った単なる精神病と必ずしも区別がつかないからだ。

ユング『タイプ論』から引用する。

ひとつの心理的適応法だけでは例えば客体が単なる思考の対象として、あるいは単なる感情の対象としてというように部分的にしかとらえられていないために、明らかに不十分なのである。つまり構えが一面的になっていることによって心理的適応上の欠陥が生きていく間に積み重なっていき、この欠陥のために遅かれ早かれ適応障害が生じ、この適応障害が主体を補償へと駆り立てることになる。しかし補償はそれまでの一面的な構えを切り捨てることによってしか達成されない。

思考型のある人が友人とコミュニケーションをとる時に思考を優先していたとする。友人との間の問題解決も思考によって行い、感情的なことは抑圧し合理的に解決していく。これは明らかに一面的である。友人は「たしかに論理的には正しいんだけど感情的にはしっくりこないんだよな。」という気持ちが残る。

感情型の人は友人とコミュニケーションをとる時に逆に感情を優先し理性を抑圧するかもしれない。問題解決も感情がきちんと治まるように解決する。合理性は無視。これも一面的だ。友人は「気持ちはすっきりしたけど、道義的には間違ってないか?」と疑問が残る。

一面的な解決は一度や二度ならそこまで問題ないかもしれないが、思考型の人はつねに思考を優先し感情を抑圧し、感情型の人はつねに感情を優先して理性を無視するため、その一面性の欠陥は時間がたつにつれ積み重なっていく。そしてその結果、人生のある時点で最終的に適応障害が生じるとユングは言う。「一面的になっていることによって心理的適応上の欠陥が生きていく間に積み重なっていき、この欠陥のために遅かれ早かれ適応障害が生じる」と述べている。

現代西洋文明は行き詰っていると言われる。西洋思想はたしかに感情や感覚や直感なども豊かに含んでいるが、基本的には思考という合理性がもっとも突出している。どの思想も多かれ少なかれ一面性から逃れられないが、西洋思想もその例外ではない。西洋思想は思考によって物事を解決していくが、それは一面的であり、最初は問題がないが、一面性の欠陥が時間とともに積み重なっていくことで徐々に行き詰っていく。近代文明が発祥してからもう数百年になる。たしかにそろそろ行き詰っていい頃だろう。

西洋人が西洋思想の行き詰まりを感じて東洋思想にその打開を求めようとするのは理解できる。東西の思想が正しく合成されることが重要だといわれる。日本も合理性が行き詰っている感はある。もう一度東洋思想を思い出し西洋思想と合成する必要はある。

ユングは「補償」という言葉を使う。一面性による適応障害を打開することだ。「適応障害が主体を補償へと駆り立てることになる。しかし補償はそれまでの一面的な構えを切り捨てることによってしか達成されない。」と述べている。「切り捨て」による補償が生じる場合があるという。要は「思考」が優先され過ぎて行き詰り、その状況を打開するために今度は一転して「思考」自体をすべて捨ててしまうという解決策である。もちろんユングも承知なのだがこれは悲劇である。

西洋思想が合理性偏重のため行き詰り、その打開のために合理性自体を完全に捨ててしまうという解決策をとったとしたら悲劇でしかない。「純粋経験」という思想はこの「切り捨て」による補償ではないかと勘ぐりたくなる。

合理性も当然重要な要素であるため決して切り捨ててはいけない。西洋思想が行き詰っているとしてもその打開は例えば合理性とインスピレーションがバランスよく共存する中国思想を取り入れるか、インスピレーションが圧倒的なインド思想を取り入れるなどの方法が正しい。合理性は捨てずにインスピレーションを補う方法がいい。西洋人がヨガや太極拳をするのは合理性偏重を打開する方法として有効な方法だと思う。

西洋人が東洋思想を取り入れようとしている、と言うと「東洋思想の時代が来た」と無邪気に喜ぶ東洋思想研究家もいるが、賛成できない。西洋人は西洋思想という優れた伝統を持っている。その上でさらに東洋思想を取り入れようとしているのだ。一方、日本人は西洋思想は表面的にしか取り入れられず、東洋思想の伝統は忘れている。日本人はただでさえ置いてけぼりをくらっているのに、西洋人が東洋思想を取り入れようとしていることで、さらに差をつけられようとしているのだ。危機感を持つべきだと思う。

続きは精神病による合理性の崩壊をご覧ください。


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