凡人による天才論

天才は「天才とは何か」について語らない。彼等はそもそも「天才とは何か」に興味がない。天才にとって天才であることは日常だからだ。空気のようなものであり、ほとんど意識しない。

ある事柄のど真ん中にいる人はその事柄について語らないと言う。平安貴族のど真ん中にいた藤原道長や藤原頼通は「平安貴族とは何か」について語らない。「平安貴族とは何か」について語ったのは紫式部であり清少納言である。彼女たちは平安貴族に仕え、平安貴族とともに人生を歩んだが、本人は平安貴族ではない。平安貴族の端っこにいる人たち、平安貴族の周縁にいる彼女たちが平安貴族とは何かについて語ったのだ。

我々日本人は日本で生活している。日頃「日本人とは何か」について語らない。考えない。「日本人であること」は我々にとって空気のようなものであり、当り前であり、意識すらしない。我々が「日本人であること」を意識するのは海外旅行に行ったとき、海外旅行から帰ってきた時だ。そのとき我々は日本人のど真ん中ではなく日本人の端っこに一時的に身を置く。一時的に日本人の周縁に身を置くのだ。その時に「日本人とは何か」について考える。「日本人とは何か」を考えるのは我々生粋の日本人ではなく、日本と外国人のハーフで、かつ日本で生まれ育った人かもしれない。youtubeでハーフの人が色々日頃考えていることをオープンにしてくれているが、非常に興味深い。日本人のある意味周縁にいる人が「日本人とは何か」について考えている。

昔『青春時代』という歌があったが、青春時代を生きている人々は青春時代について考えない。青春時代について思いを馳せるのは青春時代を終えようとしている人や終えた人である。

天才に関しても同様である。天才は天才について語らない。一流の天才は天才について語らない。一流の人にとって天才であることは日常だからだ。三流の人も天才について語らない。三流の人はそもそも天才を理解しないからである。天才について語るのは二流の人である。二流の人は生涯を天才の作品と接することで過ごす。そして天才にあこがれる。しかし自身は天才ではない。「天才とは何か」を完全には知らない。だから「天才とは何か」について興味を持ち考え続ける。

実際現在まで存在する天才論はほとんど非天才によって書かれたものばかりである。最も有名な天才論を書いたクレッチマーという人がいるが、この人も恐らく天才ではない。1.5流の人だ。天才もたまに天才について語る。しかし一言二言述べるだけである。明らかな天才であるカントの『判断力批判』はある程度まとまった記述があるがそれとて本格的な天才論ではない。一冊の本になるくらいの天才論はほとんど非天才によって書かれている。

私自身二流の人間だと思っている。天才の書物に日々触れていて「天才とは何か」に非常に興味がある。「天才でもないのに天才について語るな」と言われそうだしそれは一理以上のものがある。しかし述べたように天才でないからこそ天才について語るのだと私は思っている。それは非天才である私が天才を語る「言い訳」なのかもしれない。しかし長年天才について考えてきたためそろそろいったん考えをまとめる意味でこの論文を書くことにした。

「いつでも書けるからいいや」と思って書かないでいるとそのうち本当に書けなくなる。経験がある。哲学論文でも小説でも漫画でもストックがあるなら誰でも見れるところに置いておくのも重要だと思う。私が書けるのは論文だけだが。いずれにしてももったいない。それで今回のシリーズで考えをまとめてサイトに載せることにした。

続きはこれまでの天才研究1をご覧ください。


■上部の画像はゴッホ

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