精神病初期に人は天才になる?

天才研究者と精神病研究者

天才研究をしている人は天才と精神病の関係を強調したがるが、精神病の研究をしている人は天才と精神病の関係を否定したがる人も多い。要は「天才研究者」と「精神病研究者」は別なのだ。村井俊哉『統合失調症』から長くなるが引用する。村井氏は精神病研究者である。

1994年のノーベル経済学賞は「非協力ゲームにおける均衡分析に関する理論の開拓」に貢献した3名の研究者の同時受賞でした。このうち米国からの受賞者がジョン・ナッシュ氏です。「経済学賞」とはいっても、その内容はゲーム理論として今日知られる数学モデルの根幹にかかわる業績であり、ナッシュ氏の名前は「ナッシュ均衡」というこの研究領域での基本的専門用語として定着しています。
このナッシュ氏は2001年公開のアメリカの映画『ビューティフルマインド』の主人公でもあります。アカデミー賞、ゴールデングローブ賞での数々の受賞があるこの名作では、統合失調症との闘病生活を続けるナッシュ氏の半生が描かれています。
私は大学での精神医学の講義で統合失調症について話すときに、まず、ナッシュ氏について以下のような質問を学生に問いかけています。
「ナッシュさんはノーベル経済学賞につながる偉大な業績を成し遂げました。一方でナッシュさんは統合失調症という病気を患っていました。この二つのことが同じジョン・ナッシュという人物においてどうして両立しえたかと思いますか?」
まだ臨床現場での経験がない学生でも、統合失調症という病気が比較的重症で長期に続く病気であるということは知っています。またノーベル賞をとることがたやすいことではないということも当然承知しているはずです。質問の意図を理解できた学生の答えには例えば次のようなものがあります。
「統合失調症という病時自体がむしろ彼の研究における偉大な閃きにつながったのではないでしょうか。」
さらにはもう一歩踏み込んで次のような答えをする学生もいます。
「統合失調症の症状の幻聴によって、啓示を受けたのではないでしょうか。」
私自身はナッシュ氏を診察したわけでもないので、絶対これが正しいという正解を持っているわけではありません。しかし私は、多くの学生が思いつくこれらの答えについて「残念ながら不正解です」と答えることにしています。統合失調症という病気を持っていたことが推定されている芸術家としてはたとえばエドワルド・ムンクというノルウェーの画家が有名で、「叫び」と題された代表作は、統合失調症という病気の体験が絵画として表現されたものと解されています。ドイツの詩人フリードリヒ・ヘルダーリンも、芸術的創造性と統合失調症の関連が繰り返し紹介されてきました。このように絵画や詩のような芸術分野で、統合失調症という病気がむしろその才能を開花させる可能性はあるものの、ナッシュ氏のような、高度な知的能力が要請される数学などの分野ではそのことは難しいのです。
では正解は何だったのでしょうか。映画をご覧になった読者の方はすでに答えを知っておられるはずですが、コロンブスの卵のような答えです。ナッシュ氏は後にノーベル賞につながる研究論文を書いていた時期にはまだ統合失調症の症状は軽微、あるいは始まっていなかったのです。
冒頭の章から統合失調症が天才を生み出すわけではなく、逆に天才的な才能を持った人が患う病気でもない、ということを強調しました。もしかするとこのメッセージにがっかりされた読者の方もいらっしゃるかもしれません。そうした方は統合失調症という病気に「ロマンの香り」、あるいは鬱屈した現代社会から我々を解き放ってくれる「狂気の力」といったものを期待しておられたのかもしれません。実際医学系の専門家ではなく、人文系の専門家によって統合失調症が紹介される場合にはそうした趣旨で語られることも多いですから。
お伝えしていきたいと思う統合失調症のイメージとは、それが「普通の病気」であるということです。ロマン的なものでもなければ、一方で逆に社会にとって恐ろしいもの怖いものでもありません。糖尿病や気管支喘息と同じような医学的な病気であり、病気であることは本人にとっても家族にとってもつらいことですが、正しい診断のもとに正しい治療をすれば一定程度の回復が期待できるそういう病気なのです。

村井氏の見解に関する私の考えを述べる。村井氏の分析は正しいが結論は間違えている。まず「絵画や詩のような芸術分野で、統合失調症という病気がむしろその才能を開花させる可能性はあるものの、ナッシュ氏のような、高度な知的能力が要請される数学などの分野ではそのことは難しいのです。」という分析は正しい。絵画は山下清の例でも明らかなように、高い知的能力がなくとも、他人に自分のインスピレーションを伝えるだけの合理的能力を持ちえる。ゴッホなどは明らかに精神的な病気だったにもかかわらず、偉大なインスピレーションが他人に伝わる絵画を残している。

それに対して数学では容易に想像ができるように非常に高い合理的能力が必要である。天才は合理的能力とインスピレーションの両方が必要と述べた。それは正しい。しかし実際は「どの分野の天才であるか」によって理想的な合理的能力とインスピレーションの割合は大きく違う。数学は絵画に比べてもしかしたらインスピレーションはやや控えめでいいかもしれない。その代わり絵画より高度な合理的能力が必要だ。

「ナッシュ氏は後にノーベル賞につながる研究論文を書いていた時期にはまだ統合失調症の症状は軽微、あるいは始まっていなかったのです。」という分析も恐らく正しいと思う。精神病が進行するとインスピレーションは増大するかもしれないが、合理的能力が著しく阻害される。とても数学などできなくなる。しかし精神病が軽微であれば合理的能力は十分に残っており、精神病から適度なインスピレーションを得ることもできる。精神病初期であれば合理的能力とインスピレーションのバランスが数学的業績のためにちょうど良くなってノーベル賞級の仕事をしたと推測できる。

精神病初期もしくは発症前であれば「精神病」というより「精神病質」である。すでに述べたように天才によくあるパターンである「正常と異常の間」だ。やはり「精神病」は天才阻害的だが「精神病『質』」は時に天才促進的である可能性がある。やはりクレッチマーたちの言う通り精神病質は天才と関係がある。

要は村井氏の分析はことごとく当たっているが、精神病は天才と関係がないという最終的な結論は間違っているのである。

では村井氏が嘘でも言っているのか、読者をだまそうとしているのかと言うとそんなことは決してない。以下説明する。

すでに述べたように天才には精神病質、軽度の精神病の人が非常に多い。だから天才研究者は天才と精神病質の関係を強調する。しかし逆は真ではない。精神病質だからと言ってその中に天才が多いかと言うと決してそんなことはない。例えば完全に健康な人のうち天才がいる確率は1000万人に1人とする。それに対して精神病質の人のうち天才がいる確率は健康人の100倍とする。すると10万人に1人となる。精神病の人を治療する精神科医は生涯に何人の精神病者を診察するか知らないが、一生かかっても恐らく1人の天才とも出会わない。精神病の99.999%は平凡人なのだ。10万人に1人をパーセント表示すると0.001%だからだ。それなのに門外漢からは「精神病って天才なんですか?」と単純化しすぎたトンチンカンなことを言われる。恐らく村井氏うんざりしているに違いない。だから「精神病研究者」には「天才研究者」と違って天才と精神病質の関係を否定する人もいる。

天才と精神病は関係がないという村井氏の結論は間違えているが、精神病の99.999%は平凡人である以上「精神病は普通の病気です」という村井氏の結論は決して間違えているとは言えない。村井氏の気持ちはよく分かるし村井氏がそういう結論を出すのもそれなりの理由がある。

精神病初期について補足する。 クレッチマー『天才の心理学』から引用する。

疾病の初期、例えば急性の精神分裂病などの初期の病相を、深い理解を以って観察することのできる人は、たちまちにして来たりたちまちにして去る、あらゆる概念を超越した威力と、充実感と、宇宙的緊張の体験とを、取るに足らない病人の中に発見して瞠目するにちがいない。かかる体験は、全くの凡人を、ごく稀に、また一時的ながら、はるかに彼以上のものにまで高めることがある。この種の軽度で崩壊にまで立ちいたらない精神病者の法悦は、健康人の理路整然たる思考過程よりも、むしろある種の天才的な霊感的体験、ことに宗教方面におけるそれに、心理学的にはるかに著しく類似している。

クレッチマーもまた精神病の初期においては平々凡々な精神病者が一時的に天才と区別がつかなくなる場合があると述べている。

福島章『天才の精神分析』から引用する。

【ケース1】二十歳の青年K君
中卒後三ヶ月間ほど「二流漫画家」の家に住み込んだ。助手というより家事その他のお手伝いさん代わりに働いたのであるが、以後は気ままにバーテンやボーイなどのアルバイトをするくらいで「遊んで」いた。二流漫画家の家に住み込んだのは、もちろんそういう仕事に多少の興味があったからではあるが、まじめに勉強したり修行したりすることはついぞなく、もちろん作品をものしたこともなかった。知能・学業成績は中の下。
ところが最近数週間、そのK君が人が変わったように描き始めたのである。「描ける!描ける!おれがこんなに描けるなんて、思ってもみなかった!」と自分でもびっくりするくらい「描ける」のでK君は夢中になって漫画を描きまくった。家人が食事に読んでも筆を止めず、夜も眠らず、昼間は雨戸を閉め、ふすまを目張りした部屋で、ただただひたすら描きまくった。部屋はたちまち「作品」とその書き損じでいっぱいになった。
「作品」の意味は家人にはよく分からなかったが、これはあまりにも独創的なためかもしれないと解釈された。K君は気難しく怒りっぽくなったが、これは彼が芸術家になった証拠かもしれないと善意に解釈された。両親は突然我が家に「にわか芸術家」が誕生したことに戸惑いながらも、これまで無為徒食に近い生活を送っていた息子の変貌をむしろ希望的に解釈していたのである。
しかし、ほどなくK君のイライラはますます高じ、「近くの公園の子供らの声がいやに甲高くてけしからん」と文句を言ったり「隣の家の若い主婦が自分の才能を妬んで悪口をいいふらしている」と言って「抗議」にいってトラブルを起こしたりした。髪は乱れ、ひげは伸び放題。ほほはこけ、落ちくぼんだ目だけが異様な輝きを放っていた。ゴルゴダの丘のイエス・キリストのようになってしまった息子は天才になったのではなく、幻聴や被害妄想をもつ精神病者になったのではなかろうか、と家人はようやく心配になった。
ほどなくK君は家を出て街を放浪し、「邪悪なまなざしで」彼をにらんだ見知らぬ中年の女性の首を絞め、無邪気な女子小学生の視線を奇妙な媚びだと妄想知覚して彼女の身体に触り、それから自分で110番して警察に逮捕されたのである。
こうしてK君は精神病院に送られ、幻覚・妄想・不眠・不安・高揚した気分・自閉的な生活態度など急性期の症状が治療されることになった。半年後、退院してきたK君に、家族が尋ねると、K君はつまらなそうに「漫画なんて、もう描いても面白くないや」と答えたのである。
K君のような例は決して稀ではない。造形芸術に限らないのであって、分裂病にかかった青年の多くは急に多産となり、夜を徹して哲学的手記や小説などを書き始め、治療が始まると医師などのもとに彼らの膨大な創造物を持ち込んで、鑑賞や批評を乞うことが稀ではない。また彼の語る世界や自己の内面の光景も、きわめて新鮮な発見と驚きに満ちていることが多い。青年期の精神病の精神療法にあたる医師はしばしば新鮮な感動を覚えるものである。

福島氏もやはり精神病初期の状態に普通の人が天才的になる場合があると述べている。そしてそれは「稀ではない」と言っている。それなりの頻度であるようだ。さらに「医師はしばしば新鮮な感動を覚える」と述べているのは恐らく福島氏自身の体験も含むだろう。福島氏は芸術愛好家でもあり、精神病者の創造物を正しく評価できる眼を持っていると思う。その彼が言うのであるからたしかに精神病初期の患者が持つインスピレーションは単なる主観的な妄想とは限らず客観的な価値を持つ場合は確かにあると言っていいのだろう。

ナッシュ氏がノーベル賞を取ったのも精神病初期であった。やはり精神病質と天才は決して同じではないが関係はあると結論していいはずだ。

続きはカテゴライズの弊害をご覧ください。


■上部の画像はゴッホ

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