精神の病

これから精神の病について私の考えを書いていく。この記述は天才の本質を考えるうえで前提になる考え方だ。天才は精神病と同一ではない。しかしたしかに関連がある。一見天才の話題から離れるようだが今後の論述の重要な前提になるのでお付き合い願いたい。

私が精神医学について知っている知識はある意味偏っている。現代主流の脳科学に基づく精神医学は全く知らない。若干知っているのはふたむかしほど前にはやっていたフロイトやユングの精神分析である。それに精神の病について詳しく正確に論じることを目的にしているわけでもない。天才の分析に必要な範囲で大雑把な論述をするのが目的だ。非常に単純化した論述になる。正確ではないのでご了承いただければと思う。

物事を単純化する利点は対象の全体像をつかみやすくする点である。街の地図も街を単純化して表現している。道をぱっと見て分かりやすく表示し通りの名前を記載し、重要な建物だけを建物名をつけて載せて重要でないものを省く。正確なほうが分かりやすいのであれば街の衛星写真のほうがいいはずだ。しかし衛星写真を見せられても我々はよく分からない。正確で複雑な情報も大切だ。しかし単純化したほうが全体像はつかめる。もちろん単純化した論が出た後で、たいがい専門家たちからは「現実はもっと複雑で単純ではない」と言う指摘がなされる。その指摘自体は正しいし必要な指摘だ。確かに街の地図より現実の街は複雑だ。しかしだからと言って単純化した論が不要だったというわけではない。私が述べる天才論もかなり単純化している。街の地図と同じだと思っていただきたい。

キリスト教の聖書も私は詳しくないが記述内容は大雑把に正しいのかもしれない。「細かく見ると実際は違いますよ」と自然科学は言うかもしれないが、それで聖書が間違えていると断言はできない。ダーウィンの進化論で神による人間創造説は覆ったと言われるが、進化を通じて神が人間をつくったと言えなくもない。私が部屋の蛍光灯をつけたとする。「どうして蛍光灯がついたか」という問いに対し「私が蛍光灯をつけようと思ったから」と説明してもいいが「スイッチが動いたことにより電気が通ったから」とも説明できる。どっちも正しいに違いない。

たしかに現実にはひとりの人間は小さい。しかし宗教的修行による人間の大いなる可能性を考えると人間は本当に神の似姿に創られたのではないかと思ったりもする。人間の偉大な可能性は神が人間をつくったと考えたほうがすんなり納得できる。私は神を簡単に信じる者ではないが別に疑ってもいない。コーランを聞いてからは神は存在するかもしれないとも思ったりさえする。確かに現代自然科学により神なしでも多くの現象の説明はできる。しかし現代でも宗教的体験に縁がある人は科学を理解したうえでもそれでも神を信じるという人はいるだろうと思う。

ちなみに私はユダヤ教徒でもキリスト教徒でもない。イスラム教徒でもない。豚肉も好きだ。とくに名古屋の味噌カツがとても好き。あと長崎の豚の角煮も絶品だ。インドとかアジアの一部を旅行すると「宗教は何を信じている?」と聞かれることがあるが「仏教だ」と答えている。儒教も信じているが、儒教は宗教というより思想なので必ず仏教と答える。

また私は精神医学についても専門家ではないので本論文で間違えた発言をするかもしれない。読む人は正確な情報を期待するより、自分で天才について考えるうえでのきっかけとして読んでいただければと思う。私に大した精神医学についての知識もないのに精神の病について書く資格があるかはこの論文が意味がある論文になるかで決まると考えている。その判断は最後まで読んだ人がくだすべきことである。

神経症

心の病を単純化して二つに分ける。神経症と精神病である。私の定義は次のようになる。神経症とは「無意識が何か苦しみや恐怖などを訴えているのに、意識がそれに耳を傾けないことで生じる病気」である。それに対して精神病はその逆だ。「無意識の声を聴きすぎることで幻覚や幻聴が生じる病気」である。

この定義は非常に問題を単純化している。正確な定義ではない。この定義は、「神経症」と「精神病」という言葉をこの論文ではこのような意味で使うという宣言にすぎない。この定義を採用するのはこの定義によって天才の本質が見えてくるからである。単純化していて精神医学的には正確な定義ではないとお断りしておく。

神経症について述べていく。架空の例だが、例えばある人がダンプカーにひかれそうになったとする。普通であれば恐怖を感じるが恐怖をあまり感じなかったとする。しかしその後その人はダンプカーを見るたびにパニックを起こすようになる。あまりにつらいので精神分析医にかかり治療を受ける。たとえば催眠状態でダンプカーにひかれそうになった時のことを思い出したとする。すると本当はその時無意識では感じていた強烈な恐怖がよみがえってくる。そして治療でその恐怖を十分に消化発散されたとする。そしてそれ以降ダンプカーを見てもパニックが起こらなくなったのである。

無意識がこの例のように強烈な恐怖を感じているにもかかわらずそれに耳を傾けないことによって神経症が生じる。

もうひとつ架空の例を挙げる。ある女性が精神科医にかかった。その女性は美しい女性だったが自分が醜いという観念にとらわれていて他人と接することができないでいた。話を聞いてみると目の上の眉の近くに非常に小さな目立たない傷があった。それがあるから自分は醜いというのである。精神科医はその女性が美しいので「この人は何か嫌味でも言っているのか?」と疑った。しかし治療を進めていくうちにその傷に関する幼少期のある出来事が浮かび上がってくる。その女性が小さい頃彼女のことを巡って両親がかなりひどい夫婦喧嘩をした。父親が灰皿を母親に投げつけようとして手が滑って母親にあたらずに彼女の眼の上をかすめた。そしてその傷ができた。彼女は無意識では両親が喧嘩したのは自分のせいだと思い、自分をひどく責めていた。目の上の傷がその象徴だったのだ。その自責の念を催眠状態で十分に吐き出した後、彼女はその自責の念から解放され、心の傷は治癒して日常生活を問題なくおくれるようになった。

これも無意識の訴えを意識が聴かないことにより神経症になった例である。そしてその訴えを聴いてやることで病気は治癒した。意識が無意識を抑圧すると神経症になる。ユングの『個性化とマンダラ』から引用する。

ヨーロッパ人の自我意識は無意識を抑圧しようとする。しかし無意識を少しでも理解すれば簡単に抑圧することはできないと分かる。なぜなら我々は無意識は生きており、神経症の場合のように抑圧しようとすれば我々に刃向かってくるということを知っているからである。

意識が無意識を抑圧し無意識の訴えを聴かない場合は無意識は神経症というかたちで刃向かってくるのである。抑圧しすぎると神経症になり、無意識の訴えを聴くことで治癒していく。図の経過を通って神経症は治癒される。

この構造は健康人においても日常的に生じる現象である。例えばAさんがBさんを非常に尊敬していたとする。そしてある時AさんはふとしたきっかけでBさんを馬鹿にするような考えが心に生じたとする。Aさんはそんなことを考えてはいけないと思い、その考えを抑圧したとする。このようなことは健康人においても日常的に生じる。ある程度の無意識の抑圧は日常的に生じる。あまり良くない場合も多いが特に大きな問題もない場合もある。場合によっては必要な時もある。健康人においてもこの構造は日常的に生じる。あまりにも多く生じてしまうと自分が本当は何を感じているか分からなくなる。さらに、それがあまりに極端になり日常生活を送れないほどになると問題が生じ病名がつけられて病気とされる。

心の病は健康人の心のメカニズムが極端化された場合である。健康人の心を拡大鏡で拡大したようなものであると言われるのは十分に理由がある。

続きは精神病をご覧ください。


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