東大理IIIは天才か

茂木健一郎氏の講演をご覧ください。

茂木氏は天才とは「賢さ」と「愚かさ」を兼ね合わせている人だと言う。

茂木氏 賢さ 愚かさ
クレッチマー 単なる才能 ダイモニオン
合理的能力 インスピレーション

茂木氏とクレッチマーと私では表現の言葉は違えど恐らく同じ内容を述べている。茂木氏は灘中学、灘高校から東大理IIIに入った人が天才かどうかについて否定的である。ちなみに灘高校というのは関西にある高校。関東の筑波大学付属駒場高校と並んで日本で一番頭の良いとされている高校である。東大理IIIとは東大医学部で日本でもっとも入学が難しいとされる学部である。

茂木氏は東大理IIIの人々が天才ではない理由について彼らが"think out of box"ができないからだという。要は東大理IIIの人たちは決められた方法で決められた正解に達する能力はあるが、他の人が思いつかない常識にとらわれない発想ができないという。それは当たっているかもしれない。フロイトの『夢判断』から引用する。ドイツの天才詩人シラーについて。ちなみに「悟性」=「論理」である。

友人ケルナーとのあいだに交わされた書簡の一箇所にシラーはケルナーが自己の創作の才の乏しいのを嘆くのに対してこう答えている。「君の嘆きの原因はどうやら、君の悟性が君の想像力に対して加えている強制にあるようだ。僕はここでひとつの考えを述べよう。それをひとつの比喩で説明してみよう。悟性が流れ込んでくる諸観念を入り口のところですでにあまり厳格に吟味することはいいことではないし、魂の創造行為にとって不利益であるらしいのだ。それだけ切り離して考えれば、ひどくつまらぬ考えもあるしひどく大胆な考えもある。しかしおそらくそういうひとつひとつの考えはその考えに続いて起こってくる別の考えによって重要なものになり、恐らくは全然同じとるに足らないように見える別の考えとどうにか結びつくことによって非常に有益な考えになってくるのだ。悟性はそういうつまらぬ考えが、別のものと結合した有様を眺めうるに至るまで、その考えをしっかりと握っているのでなければ、そういうこといっさいを悟性は判断できないはずである。これに反して創造的な頭脳の人間においては悟性は自分の番兵を入口のところに立たせてはおかない。だからいろいろな考えがわれがちに乱入してくる。そうさせておいてから初めて悟性はそういう想念の大群を眺めまわして検査するのだ。批評家諸君、まあ批評家でも何でも名前は問わないことにするが、諸君は一時的な想念を恥じるか恐れるかしておられる。ところがそういう想念が長く続くか短く終わるかが、思考する芸術家を夢見る人間から区別する当のものなのだ。だから諸君が詩人としての非才を嘆くのは、それは諸君があまりにも早々と非難を加えたり、あまりにも厳格に区分けするからのことなのである。」

「それだけ切り離して考えれば、ひどくつまらぬ考えもあるしひどく大胆な考えもある」がそれら同士が繋がると有益な考えになる場合があるという。茂木氏のいう「愚かさ」はこの「ひどくつまらぬ考え」と関係があるかもしれない。「愚かさ」の許容。多くの場合この「愚かさ」=「ひどくつまらぬ考え」を「悟性」=「論理」が抑えつけてしまう。「悟性が流れ込んでくる諸観念を入り口のところですでにあまり厳格に吟味する」とある通りだ。そしてその抑えつけは「魂の創造行為にとって不利益であるらしい」とシラーは述べる。東大理IIIに入学する人はこの「悟性」=「論理」が非常に発達した人なのでシラーの友人ケルナーと同じように「愚かさ」を抑えつけてしまう傾向にある。茂木氏の指摘通り東大理IIIの人が天才ではない可能性は高い。

しかし茂木氏自身指摘しているように「天才=賢さ×愚かさ」である。天才にとって「愚かさ」と同じくらい「賢さ」も必要なのだ。東大理IIIに入る人はたしかに「賢さ」を備えている。だから天才の条件たる「賢さ」と「愚かさ」のうちひとつはすでに備えていることになる。そう考えると理IIIの人は普通の人より天才に近いと言える。

東大理IIIの人は天才に近い可能性もあるが逆に遠い可能性もある。どっちとも言える。ケースバイケース。一概には言えない。理IIIに合格した時点で合理的能力を備えているのは確かだ。天才は常識を大切にするが常識にとらわれないと以前述べた。同様に理IIIの人で合理性を大切にするがさらに合理性にとらわれない人がいればもしかしたら天才に近いのかもしれない。合理性を大切にし合理性にとらわれないというのが両立するのは実際には至難の業である。

この天才シラーの創作における自己の精神内部の観察は非常に興味深い。「創造的な頭脳の人間においては悟性は自分の番兵を入口のところに立たせてはおかない。だからいろいろな考えがわれがちに乱入してくる。」と言う。「いろいろな考えがわれがちに乱入してくる」と言うのは一見精神病に似ている。精神病ではこれを「自生思考」というらしい。「とりとめもない考えが次々と浮かんできて、まとまらなくなる。考えが自然に出てくる。」という意味だと、あるサイトには記載がある。やはり精神病質の要素が天才にあると考えてよい。しかし「そうさせておいてから初めて悟性はそういう想念の大群を眺めまわして検査するのだ。」とある通り、天才は「悟性=論理」も備えている。最終的には「悟性の検査」が行われる。ここが悟性が崩壊した精神病と違う。

「それだけ切り離して考えれば、ひどくつまらぬ考えもあるしひどく大胆な考えもある。しかしおそらくそういうひとつひとつの考えはその考えに続いて起こってくる別の考えによって重要なものになり、恐らくは全然同じとるに足らないように見える別の考えとどうにか結びつくことによって非常に有益な考えになってくるのだ。」とも言う。私のこの論文もひとつひとつの論述は必ずしも面白いか分からないが、それぞれの論述が結びつくことによって意味のある論文になるのを私は目指している。

天才シラーによるこの精神内部の説明は天才自身の創作の方法の告白として非常に貴重である。

茂木健一郎氏の別の動画をご覧ください。

茂木氏はアインシュタインはポンコツだったという。妻のミレヴァが支えることで偉業を成した。茂木氏の言葉でいえば「天才=賢さ×愚かさ」だがアインシュタインが「愚かさ」を担当し、ミレヴァが「賢さ」を担当したのかもしれない。「愚かさ」とは"Think out of the box"ということである。常識から外れて考えることだ。アインシュタインの「愚かさ」は常識にとらわれない精神である。

私が思うにミレヴァの「賢さ」は模倣できても、アインシュタインの「愚かさ」は模倣できない。そのように思うのは我々が現代人だからである。現代は「賢い」人が多い。「愚かな」人が少ない。「愚かな」人が少数である。だから「愚かさ」を模倣できないと思う。

公田連太郎『易経講話』から引用する。

易の理は多数決ではなく、多くの場合に少数決なのであって、数の少ない者が勢力があり、数の少ない方が主になるのである。易は多くの場合に少数決であって、少数なる者が中心勢力となっていることが易のひとつの特色である。卑俗なる喩えを以って説明すれば、女護島へ一人の男性が入っていけば、たとえそれが醜い男であっても非常に歓迎されて、その中心人物となるであろう。男ばかりいる離れ島へ女が一人くればそれが醜い人であっても、非常に歓迎されてその中心人物となるであろう。それと相似たるわけで、数の少ない者が多くの場合に主になるのである。人間の社会も実は同じことでその時代に他に類のない者が、結局中心勢力となるのである。例えば一口に言えば、勇者ばかりいる時代には智者が中心勢力となり、智者ばかりがいる時代には勇者が中心勢力となるのである。剛なる人ばかりいる時には、柔なる人が中心勢力になり、柔なる人ばかりいる時には、剛なる人が中心勢力となるのである。いわゆる多数決という者も、実はごく少数の人が中心になり、それがだんだんに勢力を得て、ついに多数の追従者を得るのであって、やはり少数決と見るべきである。易の理ではこう見るのである。少数決であることは易の重要なる原理のひとつである。

同様に現代では「賢い」人が多い。だからアインシュタインのような「愚かな」人が天才として名誉を得る。アインシュタインの「愚かさ」は現代人には模倣できないからである。ミレヴァのような「賢さ」は現代人には少し能力があれば誰でも模倣できる。しかし古事記の時代であれば逆にミレヴァのような「賢さ」こそ模倣できないと言われたかもしれない。古事記の時代はインスピレーションに満ち溢れた時代だからである。合理性が欠如していたからだ。その後、中国からの合理的思想が伝来すると日本で重宝されたのはその一例だ。

続きは天才と精神病を分けるものをご覧ください。


■上部の画像はゴッホ

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