カオスの縁と幕末

「カオスの縁」という概念がある。wikipediaのリンクを貼っておく。カオスの縁のリンク。 自然科学の複雑系と関係のある概念である。wikipediaには「カオスの縁」とは「振る舞いが秩序からカオスへ移るようなシステムにおいて、秩序とカオスの境界に位置する領域」とある。セルオートマトンにおける概念だが簡単に説明する。よく分からなくてもこの記事の理解には差し支えない。この「カオスの縁」が次回述べるように天才と関係がある。

セルオートマトンとは、まず初期値が与えられ、そしてその初期値が変化していくルールが与えられる。そしてルールによって値が変化していくのを追っていく。プログラムによってコンピュータ上で動かす現象である。ルールは256通りあってどのルールを与えるかによって値の変化の仕方が違ってくる。値の変化の仕方は4種類に分類され、クラス1、2、3、4となる。

クラス1はwikipediaでは「均一な一定状態に漸近する挙動」とあり「安定不動点」「均一」という。例えば状態が「A→D→F→B→L→L→L→L→L→L」のように変化していき最終的に均一の状態に収束していく。正しい喩えか分からないが例えば自然界でいうと巨大な岩や山などが相当するかもしれない。山は数万年単位では変化せずじっとしている。

クラス2は「周期的な状態に漸近する挙動」とあり「リミットサイクル」「周期的」とある。例えば「A→S→T→B→D→E→B→D→E→B→D→E→B→D→E→B→D→E→B→D→E」最終的に「B→D→E」という周期的な状態変化に収束していく。自然界では植物などがこれにあたる。稲などは毎年「発芽→成長→実がなる→枯れる→発芽・・」と同じサイクルを繰り返す。

クラス3は「ランダムな状態を維持する挙動」とあり「カオス」とある。「A→G→F→J→T→U→I→W→A→J→L→P→Q→B→F→L→E」とランダムな状態を維持する。よく分からないが自然界では動物の腐乱死体などがそれに相当するのだろうか。

クラス4は「他のクラスほど厳密に定義されないが、上記の3クラスに当てはまらない挙動」とあり「複雑」とある。クラス2のように安定しているがもっと自由である。クラス3のように色んな状態をとるがもっと秩序がある。自然界では人間が相当するだろうか。植物や動物より自由でありもっと複雑だ。自由でありながらでたらめにならず、秩序がありながらがんじがらめにならない。 wikipediaの「セルオートマトン」の項目でクラス4は「規則的なパターンとランダムなパターンが共存し、複雑なパターンを形成する。」とある。セルオートマトンのリンク

図を見てみよう。画像の引用元

左上がクラス1。右上がクラス2。左下がクラス3。右下がクラス4。

クラス1をご覧ください。図の上部が初期値で時間がたつほど下の状態になる。全て同じ値に収束している。時間が経った下の方は白で塗りつぶされている。

クラス2が下の図である。周期的な状態に収束する。これも非常に安定的な図だと直感的に分かるだろう。

クラス3はカオスである。完全にランダムな状態。見た目的にもランダムだと直感的に分かる。

クラス4は複雑な振る舞いを見せる。図形が興味深いのは素人目にも分かる。

wikipediaの「セルオートマトン」の項目で「秩序状態とカオス状態の間にあるクラス4の様な状態こそが、生命現象などの現実世界で見られる複雑な現象を引き起こす源だ」とある。

これは自然界にのみ当てはまる現象ではない。歴史でも似たような現象が起きる。例えば幕末。徳川時代はクラス2的な状態である。保守的で安定を好む徳川家康の性格が反映して、江戸時代はがっちりとした秩序があり単調であった。秩序は守られ参勤交代があり外国からの刺激は限られていた。

しかしペリーの来航という外圧を端緒として秩序は崩れ始める。参勤交代は廃止になり、井伊直弼が斬られ、幕府の威信は揺らぎ、水戸や長州、薩摩が動き出す。秩序は崩れ部分的にカオスが生じる。wikipediaで「カオスの縁」とは「振る舞いが秩序からカオスへ移るようなシステムにおいて、秩序とカオスの境界に位置する領域」とあるが、幕末は完全にこれに当てはまっている。幕末はカオスの縁でありクラス4的である。クラス4で興味深い図形があらわれたように、幕末は非常に興味深い歴史を生んだ。我々読者を引き付ける。

wikipediaの「カオスの縁」で「クラスIVでは非常に複雑な挙動が起こる。いくつかの局所的な構造が生み出され、それらはセル空間内を移動し、相互作用を起こし合う。」とある。例えば長州で局所的に起きた出来事で長州にある構造が出現する。高杉晋作の功山寺決起で長州に倒幕勢力が出現したのが例えばそれにあたる。その出来事が日本という空間を移動し様々な相互作用を起こす。

クラス4では「規則的なパターンとランダムなパターンが共存し、複雑なパターンを形成する。」とあった通りだ。幕末は江戸時代であり、もともと強固な秩序を持っていた。規則的なパターンがある。しかし激動の時代で秩序は部分的に崩壊する。ランダムなパターンもある。幕末には規則的なパターンとランダムなパターンが共存しているのが分かる。

幕末は非常に優れた人物をたくさん輩出した。それは幕末がカオスの縁だったからである。坂本龍馬もあと100年早く生まれていたら凄腕の剣豪で終わっていたかもしれない。

日本の歴史で優れた人物を数多く輩出した時代がもうひとつある。戦国時代だ。戦国時代はある意味幕末と逆である。幕末は「秩序からカオスに向かう時代」だったのに対し、戦国時代は「カオスから秩序が生まれる時代」だった。「混沌からの秩序」だ。

応仁の乱の下克上の時代は無秩序な時代だった。クラス3に相当する。しかし北条早雲から始まる戦国大名たちがそれぞれの領国内で徐々に秩序を形成していく。戦国大名と言えば戦ばかりしていて戦乱を引き起こす張本人というイメージがあるが、実際は応仁の乱後の無秩序をあらため自国の領国に秩序をもたらした人々だった。幕末とは逆だが秩序とカオスの境界である点は共通している。

戦後の日本企業もクラス4の一例かもしれない。戦国時代や幕末ほどではないが、たしかに優れた経営者がたくさん現れた。戦前の秩序が戦争によって強制的に崩壊し、程よくカオス的になり、そこから秩序があらわれてくる時期である。戦後もクラス4的なのかもしれない。

幕末や戦国時代以外にも日本には恐らく優れた人たちはいたはずである。生物学的に考えてそう考えるのが自然だ。しかし他の時代では優れた人として歴史に残る人物が少ないのは、幕末と戦国時代の時代自体が優れた時代だったからである。

公田連太郎『易経講話』に次の記載がある。

中にして正しい徳があり、かつ応じる爻もあり比する爻もあるときは、とんとん拍子に易の変化がうまく行くべきはずである。しかるに、必ずしもそうばかりは行かぬものがある。それは卦の性質が悪いのである。人間の社会で言えば、時代が悪いのであり、国の状態が善くないのである。不世出の英雄であってかつこれを補佐する賢明なる人もありながら、うまく事が運んでいかないのは、時勢が善くないのである。歴史上に少なからずその例がある。これに反して中正の徳には多少欠け目があるのに、とんとん拍子にうまく事が運んでいく卦もある。これは卦の性質が善いのである。人間の社会にも大層偉くなくても大事業ができることがある。これは時代が善く国の状態が善いのである。これらの事は六十四卦を読めば理解しえられるのである。

幕末や戦国時代はクラス4的であり時代自体が優れていたのである。

私の好きな三国志も同じだ。三国時代は後漢の時代からはじまる。しっかりとした秩序があった時代だが、悪政が続き徐々に秩序が崩壊する。黄巾の乱でカオスになる。しかし元々あった秩序もかなり残っている。その中から曹操や劉備、孫堅、孫策ら新しい秩序の形成者が現れる。秩序とカオスの間でありクラス4的である。

イタリアのルネサンスも秩序からカオスに至る過程だったようだ。会田雄次『ルネサンス』から引用する。イタリアルネサンスは中世的な堅固な秩序が崩壊し、人々が互いに争い合う時代だった。

ルネサンス人の争いは、中世のあらゆる束縛の精神の牢獄から解放され、われがちに銘々勝手な方向へと駆けだした人間が、囚人同士であれ、救い主と囚人であれ、もう一度捕まえようとする牢役人とであれ、ともかくぶつかり合った同士が殴り合いをしているようなものだ。どこの国の歴史でも合理的な社会を作り出すためには、人間の愚劣さの表現かも知れないが、こういう必要悪とでもいうべき争いの一時期を経過しなければならぬ。日本の戦国時代だってそうだった。もっとも戦国時代はひょんなことから武士の支配、それももっとも愚劣で反動そのものの徳川幕府の樹立という帰結になってしまったため、日本はその後三百年動きのとれぬ袋小路のなかに迷いこんでしまったのだが。それにこのイタリアの混乱は、経済上の飛躍的な発展、それも近代的企業の勃興ということが原動力になって引き起こされたものだ。いわば創造に満ちた流血と憎悪と裏切りと愛と信頼が激突しあう混沌である。現象的には確かに地獄絵図と似通っていよう。それはしかし日の出前の暗さだ。もう明るい太陽の光が山頂を染めている。末世の暗さが支配する世界とはまったく違うものがそこにある。この暗さを堕落とか破滅への路と見る人こそ、この黎明に背を向け、過去の幻影にしがみつく人だといわねばならない。

中世はクラス2的な単調な秩序の時代だった。それが崩れて行く過程でルネサンスというクラス4的な時代が立ち現れる。人類史上でも偉大な時代のひとつであるイタリアルネサンスが出現したのだ。クラス4には秩序とカオスの両方が必要だ。上の引用はクラス4におけるカオスの必要性を強調している。それに対してクラス4における秩序の重要性を強調したのがエリック・ホッファーの次の言葉だ。

やりたいことを自由にできる時、人々は大抵互いに模倣しあう。独創性は意識され強制されて生まれるものであり、いくらか反抗的な性質を帯びる。個人に無限の自由を与える社会は、往々にして薄気味悪いほどの類似性を示す。反対に、共同体の規律が厳格だが、過酷ではない、つまり「イライラさせるほど厄介なものでありながら、押し潰すほど重い軛ではない」とき、独創性はかえって生み出される確率が高い。

エリック・ホッファーは厳格なルールと個々人の自由の両方が必要だと述べている。現代アメリカもクラス4に近いのかもしれない。厳格なルールがありその範囲内で個々人に大幅な自由が与えられる。カオスの縁に近い。

恐らくクラス2的な単調な世界を経験した人はクラス4のカオス的側面を重要と主張する。そしてクラス3的なカオスを経験した人はクラス4の秩序が重要と考える。そっちを強調する。そんなところか。実際は両方が必要。

次回述べるが天才も実はカオスの縁である。

続きは天才とカオスの縁をご覧ください。


■上部の画像はゴッホ

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