カテゴライズとその崩壊

概念化、カテゴライズは本当は多様な現実をいっしょくたにしてしまうと述べた。「同一化」だ。「春」というカテゴライズは「3月1日」と「5月31日」を同じ「春」という概念で同一化してしまう。両者は非常に離れた日付なのに。おかめ納豆のラベルは本当は多様なおかめ納豆の味をいっしょくたに同一化してしまう。

これはカテゴライズによるものか微妙だが、我々は電信柱はまっすぐ立っていると思いがちだ。しかし大半の電信柱は右か左に傾いている。見ている人から見て前後に傾いているとまっすぐ立っているように見えるが、角度をずらすとやはり傾いている。まっすぐ立っているのは3割くらい。「電信柱はまっすぐ立っている」という思い込みがある。カテゴライズも思い込みの一種である。思い込みによって多様な電信柱の傾きを無視してしまう。

しかし概念には本当は似ている現実を分けてしまう作用もある。「分離」だ。「冬」と「春」というカテゴライズは「2月28日」を「冬」とし「3月1日」を「春」として分離してしまう。両者にほとんど違いは無いのに。

精神病者においてはこの「同一化」と「分離」の作用が崩壊する。同一化が崩壊することでいっしょくたにされていた現実の多様性が姿を現し、分離が崩壊することで分離されていた現実の連続性が立ち現れてくる。

我々は対象を通常は概念を通してみる。冷蔵庫にある鶏肉と卵を例にとる。我々は鶏肉や卵を見る時、「食材としての鶏肉」「食材としての卵」という概念を通して見ている。鶏肉を「動物の身体」として見る人は、いるけれど恐らく少ない。鶏を飼っている人くらいだろう。スーパーで鶏肉が並んでいるのを「これ本当は動物の身体なんだよな」とたまに思うことはあるが、そのときかすかに「動物の身体」としてカテゴライズされた鶏肉が立ち現れるくらいである。

鶏肉や卵自体も「食材」としてカテゴライズされているが、その味もカテゴライズされている。これは「卵焼きの味」、これは「ゆで卵の味」、これは「スクランブルエッグの味」とカテゴライズされそれぞれ別の味として認識する。同じ卵の味だから同じ味のはずだが、なぜか我々はそれらを別の味としてカテゴライズして認識している。これはカテゴライズの分離作用である。

鶏肉の味も同じで、これは「フライドチキンの味」、これは「唐揚げの味」、これは「タンドリーチキンの味」とそれぞれ分けられている。たしかにフライドチキンと唐揚げは調理方法は少し違う。しかし本当は似ているはずだ。実際の違い以上に分離され別の味として認識される。

精神病者においてはこのカテゴライズによる分離が崩壊する。概念による分離が消えて「なまの現実」が立ち現れてくる。スクランブルエッグと卵焼きの違いが消えて、卵の味としてその連続性が認識される。唐揚げとフライドチキンの違いが崩壊して同じ鶏肉の味として認識される。それどころか卵焼きを食べて「ああ、これ鶏が孵化するまえのやつだ・・!!」と感じる。卵と鶏肉の連続性さえ立ち現れてくる。

卵や鶏肉の「食材」としてのカテゴライズが崩壊し「動物の身体」としての「なまの現実」が立ち現れてくるのだ。食材性という本質が消えて、身体性という実存が立ち現れる。

「動物の身体」としての「なまの現実」というのがよく分からんぞという人もいるかもしれない。やや強引にこの身体性を思い出す方法がある。フィリピンにバロットという料理があるのをご存じだろうか。これは庶民の食べ物でゆで卵のようなものである。しかしこのゆで卵は少し特殊で、卵の中でひながすでに出来上がっている。ちょっと衝撃画像なので見たい人だけ見てほしい。右をクリック→バロットの画像。

これを見ると卵の身体性が立ち現れてくるだろう。いつも食材と思っていた卵が本当は動物の身体だったということが直感的に理解できる。精神病者や天才は無意識に心が開かれているため、バロットの写真を見なくてもこの身体性が自然と立ち現れてくる。バロットを見る方法はかなり強引な方法だ。健康な人でも身体性を感じ取るために掲載してみた。

海外の料理が好きな私でもバロットは食べられない。この画像を見た人の中には「フィリピンの人ってこんなの食べるんだ。残酷だな。」と思う人もいるだろう。しかしそれは完全な誤解だ。フィリピンの人たちはバロットを「料理」としてカテゴライズしているからだ。

「それは無理だ」と思う人もいるだろう。しかし日本にも似た例がある。「活け造り」だ。さしみなどで魚がまだ少し動いている状態のものを料理に出す。私を含め日本人はこれを残酷と思わない。新鮮なんだなと思う。しかし外国の人はこれを非常に残酷だと思う。この受け取り方の違いは文化差としか言えない。ただ外国の人たちの誤解を招いてまで残すほどの価値が活け造りにあるとは思えないので、活け造りはやめたほうがいい。

日本人が活け造りを残酷と思わないようにフィリピンの人たちもバロットを残酷と思わないのだ。カテゴライズは文化の影響なのである。

健康者はカテゴリーにとらわれる。精神病者はカテゴリーが崩壊する。天才はカテゴリーを保持するがカテゴリーにとらわれない。 思想もカテゴリーのひとつである。私は西洋思想と東洋思想の合成が重要だと思っているが、カテゴリーにとらわれる人は思想の合成は出来ない。中国思想を学び中国思想の概念体系にとらわれる人は中国思想と西洋思想を合成できないだろう。西洋思想の概念体系を正しく取り入れられないからだ。西洋思想を学び西洋思想の概念体系にとらわれる人は、西洋思想と東洋思想を合成できない。東洋思想の概念体系を取り入れられないからだ。しかしカテゴリーを理解しながらカテゴリーにとらわれない人は思想を合成できる可能性がある。中国思想を理解しながら中国思想にとらわれない。西洋思想を理解しながら西洋思想にとらわれない。実際には難しいが目指すべきところではある。

思想の表現は有形である。思想は言語で表現されるからだ。言語はカテゴリーであり有形だ。しかし思想の本質は無形である。言葉にならない思想だ。『菜根譚』後集八から引用する。

現代語訳
人は文字で著した書物を読むことを知っているが、文字にならない書物を読むことを知らない。有弦の琴を弾くことを知って無弦の琴を弾くことを知らない。有形に捉われて無形を理解しない。どうして書物と琴の趣を会得し得ようか。

書下し文
人は有字の書を読むを解して、無字の書を読むを解せず。有弦の琴を弾ずるを知りて無弦の琴を弾ずるを知らず。迹を以て用いて 、神を以て用いず。何を以てか琴書の趣を得ん。

この無形の思想を理解する人は思想を合成できる可能性がある。健康者は有形で秩序があり、精神病者は無形で混乱し、天才は無形で秩序がある。

続きは天才と凡人の違い 喩え話をご覧ください。


■上部の画像はゴッホ

■このページを良いと思った方、
↓のどちらかを押してください。






■関連記事