天才と凡人 程度の違いか質の違いか

天才には合理的能力が必要である。しかし合理的能力だけでは天才たりえない。もう一度クレッチマー『天才の心理学』から引用する。

天才には単なる才能のほかになおダイモニオンが加わらなければならない。そしてこのダイモニオンこそ、まさしく精神病質的要素と内的に密接な関連をもつもののように思われる。このデーモニッシュなものが、外見上説明しがたいものや、精神的特殊能力や、非凡な思想や情熱など天才の本質と見なされるべきものすべてを包括しているのである。

クレッチマーは天才たるには「単なる才能」=「合理的能力」のほかに「ダイモニオン」=「インスピレーション」が必要だと言う。そしてこの「ダイモニオン」は精神病質的要素と関連があると言う。

天才研究をしたことのない人はここが理解できない。天才研究をしたことない人は試験で50点とるのが凡人で80点とるのが秀才、そして100点とるのが天才だと思う。クレッチマー『天才の心理学』から引用する。

人間が神性を人間の姿が拡大されたものとしか想像しえないのと同じく、俗人は天才を俗人の記念碑的形象としか想像することができないからである。

多くの人は神様を人間があらゆる意味で完成したものとしてイメージする。それと同じように多くの人は天才を普通の人の才能である合理的才能をきわめた人が天才だと思う。50点→100点のように普通の人の能力を量的に拡大すると天才になると思うのだ。

しかし天才は量的に違うだけではなく質的にも違うとされている。クレッチマーが述べたように「ダイモニオン」が必要であり、私の言葉では「インスピレーション」が必要なのだ。そしてそれが精神病質と関係がある。クレッチマー『天才の心理学』から引用する。

天才自身は何と言っているか。天才中の何人かが自己の感情生活を興奮した特殊状態のものと感じ、あまつさえ自己を精神病者とさえしているのは注意すべきことである。「おお狂えるこの不幸者、どこまで狂いまわらねばならぬのか」と若きゲーテは自分に呼びかけている。またニーチェは霊感にみたされながら、怠惰な大衆を罵倒する。「狂気はどこにあるか。それを汝らに植え付けねばならぬのだが。」と。ところがショーペンハウエルは簡単にそっけなく言う。「天才は平均的知性よりはむしろ狂気に近い」と。

天才は精神病質的要素を持つ場合がある、よって天才は社会的落伍者になる可能性も高い。さらに引用する。

若い頃においては一方は天才になり、一方は社会的失敗者になる二つの異常素質が、未だ共通の軌道を走っていることがしばしばだ。この事実を最もよく知るのも天才自身である。学生時代のビスマルクは言った。「私はとんでもないルンペンになるか、さなくばプロイセンの第一人者になるであろう。」

天才は若い頃から天才の人もいるが一定の年齢に達してから天才になる人もいる。その場合若い頃の天才を見てもただの精神病者との区別がつかない場合がある。その天才は社会的失敗者と「共通の軌道を走っている」からだ。天才は精神病質的資質を持つことがしばしばであるため、天才は社会的には落伍者になる可能性がある。さらに引用する。

天才が棘のような苦痛の中で苦闘し、教師には誤解され、両親からは捨てられ、同輩からは嘲られ、さげすまれた理由がどこにあるか考えてみたことがあるだろうか。また彼等が自分のパトロンとも再三不和をきたし、その極めて美しい希望はひそかな奸計によっていつも阻まれ、心痛と憤怒と苦渋と憂鬱とのうちにその生涯を終わったのは何によるかを考えてみたことがあるだろうか。

天才は落伍者になりやすいとクレッチマーは述べている。 いずれにしても天才であるためには合理的能力のほかにインスピレーションが必要である。

福島章『天才 創造のパトグラフィー』から引用する。

本当は普通の人間といえども、正気に対する狂気、意識に対する無意識、理性に対する情熱、精神性に対する肉体性といったような矛盾する両極をもともと持っている。そしてその一方の極は日常生活の中では自分から排除・抑圧・分離している部分である。しかもこれらは普段はっきりと意識されておらず、それらの「影」を生きてもいない。しかしそれでもそれは本来的に彼等の生の一部であり、そのことを彼等の無意識は知っている。
天才はその彼らの「影」をも敢然と生きる人々である。しかも単なる狂人や犯罪者ではなく、積極的な価値をもたらす者たちである。

下の図は健康者の精神を表す。健康者であっても当然無意識は持っている。「正気に対する狂気、意識に対する無意識、理性に対する情熱、精神性に対する肉体性」という「影」は健康者であっても持っている。しかし健康者は無意識に心が開かれていない。「影」である無意識と意識の間には壁がある。意識と無意識の間に黒い太い境界線があるだろう。その壁が「影」を「自分から排除・抑圧・分離している」のである。健康人は「影」を持っているがそれを生きていない。

下の図は精神病質的な天才の精神である。

黒い太い壁が部分的に壊れて「影」が意識に侵入している。彼は「影」を生きている。しかしそれだけでは単なる精神病質との区別がつかない。精神病者は「影」をプラスに活かせないが、天才は「影」をプラスに活かせるのである。

クレッチマー『天才の心理学』から引用する。

この精神病理的なものが才能に富んだ人格内でダイモニオンとして作用し得るためには、いかなる程度に達して、いかなる地位を占めねばならぬであろうか。まず重篤な精神病から見ていくと、この場合にはあらゆる価値のある精神能力、ひいてはあらゆる天才的能力が全然問題にならぬほど阻害される。

天才には「ダイモニオン」が必要であり、天才とは「影」を生きるものである。しかし完全な精神病は天才たりえないとクレッチマーは述べている。この場合、合理的能力が著しく阻害され崩壊してしまうため天才たりえないのである。さらに引用する。

確信をもって言い得ることは天才、少なくとも特定の型の天才の間には、普通人の間におけるよりも、精神病なかんずく精神病質的中間状態の者が圧倒的に多く見られるということである。

中間とは基本的には正常なのだが、やはりどこか変わっていると言う人々である。さらに引用する。

天才の間にみられる精神病質のなかには一方に完全な精神病質者があり、他方にはある種の精神病質的成分が大体において健康な全人格の構造の内に織り込まれていると言うようなものがある。後者のほうが前者より恐らく重要である。

完全な精神病者であればインスピレーションはあるが、合理的能力が著しく阻害される。完全に健康であれば、合理的能力はあるが、インスピレーションは不足しがちである。大体において健康だが部分的に精神病質的傾向があるひとが天才の間でよくみられるという。

さらに引用する。

もし天才の素質からこの精神病理学的な遺伝因子、すなわちデーモニッシュな不安と精神的緊張との酵素となるべきものを除外してしまったら、後にはただ才能のある平凡人が残るのみとなるだろう。

天才からインスピレーションを奪うとそこには合理的能力に優れるだけの「才能ある平凡人」が残ると言うわけだ。

天才研究をしたことがない人は天才と精神病の関係を否定したがる。天才研究をしている人は逆に天才と精神病の関係を強調したがる。私は天才と精神病は関係があるが全く別物だと考える。その点は後ほど説明する。

続きは精神病初期に人は天才になる?をご覧ください。


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