健康な天才という稀な存在

しかし論を覆すようだが、実は精神病質であることは天才であることの必要条件ではない。天才であることの典型的状況ではあるが、決して必要条件ではないのだ。すでに何度も述べているが天才には精神病と正常の中間状態の人が多い。しかし同じくすでに述べたように天才の中には少数であるが完全に健康な人もいる。

ランゲ=アイヒバウム『天才 創造性の秘密』から引用する。

本当に健康な天才はいないものだろうか。否、健康者は天才になれぬといった理由は到底さがしだせまいし、事実の上からもそれを立証できるのである。健康な天才として幾人かの名前をあげれば、ティチアノ、ラファエロ、アンドレア・デル・サルト、ルーベンス、ヴェルディがあり、デューラーやライプニッツもその中に入る。現代ではハンス・トーマがいる。こういう次第で天才と狂気との間に法則関係があるとは言えない。

ランゲ=アイヒバウムは健康な天才はいると断言している。ただ次のように言う。

研究の結果、動かし得ぬ確実さをもって健康者はごく少数だということに一致している。

ランゲ=アイヒバウムは特に有名な天才では健康な者の割合は約6.5%だとも述べている。健康な天才は「動かし得ぬ確実さをもって」少数だと述べている。

福島章『天才 創造のパトグラフィー』から引用する。

父の呪縛も父との無意識的な葛藤もモーツァルトの明るく美しい音楽にはほとんど影を落としていない。死の直前の一時期を除けば ―その頃モーツァルトは水銀中毒による腎臓病のために尿毒症の状態にあり、抑うつ感と被害妄想を抱いていたらしい― 神経症的症状や精神病的な異常を示したことはなかった。天才はうまいものと美しい女性に正常ではあるがいささか貪欲なほど欲望を抱き続けていた。つまり申し分なく健康で生き生きとしていたのである。天才の中ではむしろ例外的なこの健康さは、生まれながらの資質もさることながら、両親と姉の愛情に恵まれたこと、とくに父の立派な配慮のもとに育ったことのおかげだろう。
モーツァルトのような健康な天才は稀である。

健康な天才は少数ではあるが間違いなく存在しているという点で天才研究者たちは一致している。その時点で天才であるためには精神病質である必要はないと断言できる。ではこれまでの論とどう整合が取れるかを述べる。

ここで精神の大きさが50の人をSさんとする。Sさんは健康であり天才ではないがとても優秀な人である。下図である。

このSさんが少し精神病質になると天才になる。Sさんは健康だった時には体験していなかった「影」を生きている。すでに述べたように合理的能力とインスピレーションの両方を持っている。下図である。

ここで精神の大きさが200の人をTさんとする。下図である。

Tさんは完全に健康でありながら天才である。Tさんは天才の条件である「影」を生きているか? SさんとTさんを重ねた図を載せる。

内側の円がSさんで外側がTさん。図で緑色になっているところはSさんにとっては無意識の領域だ。しかしTさんにとっては意識の領域。要はSさんにとっての「影」である緑の領域をTさんは病気にならずに健康な状態で生きることができている。要はTさんは精神が大きいため一般の健康人にとっての「影」を病気にならずに生きることができる。

天才にとっては合理的能力とインスピレーションの両方が必要だ。Tさんは健康であるため優れた合理的能力を持ちうる。さらに精神が非常に大きいため、多くの人にとっての「影」の部分を健康な状態でも生きることができ、インスピレーションも豊富にある。インスピレーションは精神病質と関わりが深いのは事実であるが、精神病質であることはインスピレーションを得るための方法のひとつであるにすぎない。Tさんのように他の方法でインスピレーションを得ることができれば別に精神病質になる必要はないのである。

IQは合理的能力の代表的な例だが、合理的能力のひとつの例にすぎなかった。だから山下清のようにIQが低くても合理的能力を持てば天才たりえた。同じように精神病質であることはインスピレーションを得ることの代表的な例だが、ひとつの例にすぎない。だからモーツァルトのように完全に健康でも別の方法でインスピレーションを持てば天才たりえるのである。

精神病質の天才は精神病が過度に進行すると合理的能力が崩壊し天才でなくなる。逆に精神病の治療で精神病質を失うと才能のある平凡人に戻る。精神病質が「ちょうどいい」時に優れた作品を残す。クレッチマーの『天才の心理学』から引用する。

精神的創造力はいかなる種類のものであっても、一生涯を通じて不断に休みなくかつ少しの変化もなく続きうるものでは決してない。天才の場合は特にしかりである。のみならず傑出人の精神生活の流れにはしばしば独特の波動起伏が見られ、熱情の高揚と疲労の沈滞がするどい対照をなすものが多い。ひとたびその霊的活動に口火が点ぜられると、それがもし芸術的天才であるならば、彼の全霊はたちまち浮かび出るもろもろの形象と、響き渡るもろもろの音調とで充たされ、もし科学的天才であるならば、湧き出でる知恵と直感とで圧倒される。彼は今その胸中に萌でた想念を有形のものにしようと、夜を日に継いでただひたむきに熱狂的に己を一事に没入する。そしてそれが成熟するとともに、今までの火と燃えた興奮はばったりと消えてしまって、それからしばらくの間は完全な倦怠、無思考、無為の日が続く。このような精神の周期性こそ天才的創造力の特徴であり、それが同じことを繰り返す常人の職業的活動と全く区別される主要な点である。常人の精神生活は伝達と習慣とによってはぐくまれるもの、十年一日のような単調な繰り返しにすぎない。

これは躁鬱型の天才を描写しているのかもしれない。いずれにしてもこれは精神病質的な天才に当てはまる記述である。精神病の状況によって天才は多産になったり作品を一切創らなくなったりする。

ここからはあまりきちんと勉強していない私の推測になるが、恐らく健康な天才にはこのクレッチマーの記述は当てはまらない。健康な天才はそもそも精神病質ではないから精神病の進行度合いによって生産性が変化することはないからだ。例えばモーツァルトは生涯を通じてスランプがなく一貫して毎年優れた作品を創り続けた。引用文にある「今までの火と燃えた興奮はばったりと消えてしまって、それからしばらくの間は完全な倦怠、無思考、無為の日が続く」というのは健康な天才モーツァルトには当てはまらない。恐らく健康な天才はスランプがないので多産になる傾向があると推測する。

さらに引用する。

完全な精神病質の天才に内在する精神病質的素質は平均的な才能の軌道を高く超越して飛躍させる酵素的鼓舞的衝動を彼に与えるが、同時にそれと反対の作用をもおよぼす。かかる病的天才が、ある時期以後は、もはや優れた業績を残し得なくなることがしばしばあるのはそのためである。なぜならば彼らの素質の不調和のためにその作品の構造が引き裂かれその諧調が乱されるからである。あるいは彼らの感情や意志が不安定なために作品が駄作に終わるか、または完成されるに至らず、こうしてついには彼らの才能までが頓挫し埋没することがあるからである。

この記述は精神病質的天才において精神病質的要素がその人に才能を与える場合があり、同時に逆に精神病が進行しすぎて合理的能力が失われ本人も作品も崩壊してしまう場合があることを述べている。当然ながらこの記述は健康な天才には当てはまらない。そもそも病気ではないため精神病が進行したりしない。健康な天才の精神は安定しており常に安定して作品を創ると思う。別の理由でネタ切れにならない限り健康な天才は多産であると思われる。

また精神病質の天才であれば軽度の精神病発症後に天才になるかもしれないが、健康な天才はそもそも発症自体しないのであるから、かなり若い頃から天才的な作品を創る傾向があると推測する。もっとも統合失調症は20代という若い頃に発症する病気なので精神病質の天才でも若い頃から天才的な作品を残すかもしれない。が、モーツァルトは5才の頃から優れた作品を創っている。精神病質的天才が後天的天才であるのに対し、健康な天才は生まれながらの天才が含まれると推測している。ただ現段階では私の仮説にすぎない。まだ資料を検討していない。

ランゲ=アイヒバウムがラファエロやルーベンスを健康な天才の例として挙げているが彼等も若い頃から多産のようである。ただこの辺は私はきちんと勉強していない。判断は専門家の手にゆだねたい。

もう一点補足しておくと健康な天才が非常に少ないのは、健康でも天才たりうるほどに十分な精神の大きさを持つ人間の出現が稀であるためかもしれない。

続きは天才とは何か 結論をご覧ください。


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