生命的な自然

我々は自分の心の内にあるものを投影して他者の気持ちを理解する。例えば自分の腕を強くつねると我々は「痛い!」と思う。その感覚があるから他人が痛そうな顔をしていると「痛いんだな」と思う。同様に自分の内に「楽しい」とか「悲しい」と言う感情があるから他人の顔を見て「楽しいんだな」「悲しいんだな」と思う。

同様に自分の無意識の動きを生き生きと理解できる人は他人の無意識も生き生きと理解できる。我々の無意識はこどもの心や動物の心だと言われる。しかし恐らく無意識の深奥には植物の心もある。それらをなんとなくでも感じ取れる人は恐らく自然を生き生きと感じ取れる。森や山や岩や川や海。すべての自然を生命的に感じ取れる。自然のもつ無意識を感じ取るからだ。これは古事記の世界の古代人の心である。古代人は精神的に豊かな世界を生きていた。古代人は無意識に対して心が開かれている。自分の内なる無意識に心が開かれているため、自分の外の自然の持つ無意識も生き生きと感じ取れる。彼等は自然を神格化していた。「八百万の神」と言いすべての存在に生命を見出したのだ。彼等がアミニズム的な世界観を持っていたのは無意識に心が開かれていた証拠になる。

近現代人でも古事記の人々と同じ体験をする人は確かに存在する。宮沢賢治はその一人だ。福島章『天才 創造のパトグラフィー』から引用する。

賢治の初期童話には不思議な感覚が満ちている。人間の子供が、子狐や山猫やどんぐりや滝と、ごく当たり前に話を交わしたり、森や山や人間たちがたがいに語りかけあったりするのは賢治童話ではごくあたりまえのことである。このアニミズム的世界を童話に独特の技法ということはできない。むしろ自然そのものが、彼に生き生きと迫ってくるのである。例えば、朝、風景は

おもてにでてみると、まはりの山は、みんなたったいまできたばかりのようにうるうるもりあがって、まっ青なそらのしたにならんでゐました。
『どんぐりと山猫』

というように新鮮に迫ってくる。
「小さい頃から宮沢賢治の童話や詩を読んだことは、とても幸せだったと思う。賢治に教えられると自然が今までとは全く別の姿であらわれてくるからです。」と、何年か前に科学史の村上陽一郎氏が話してくださったのを覚えているが、これは全くその通りで、我々が普段見ていると思っている自然の風景から、半透明な薄膜を一枚はがしたところに本当の自然がある。賢治の見た自然の色鮮やかに生き生きと光り輝いている姿を追体験したことのない人は、一生を貧しく色あせた感覚を体験しただけで終わることになりそうである。

わたしたちは氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとほった風を食べ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはってゐるのをたびたび見ました。
わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
『注文の多い料理店』

宮沢賢治の初期の童話や自由詩のなかには、自然や人間がいかに変幻自在な姿を現し、多様で豊かな相貌を持つかを教えてくれるものが多い。詩人は「わたくしは森やのはらのこひびと」となり、自然と一体になって溶け合ってそこに調和したかと思うと、逆に眩惑され、翻弄され、恐怖の中に投げ込まれたりもする。時に自然は石も草も星も月も、すべて生あるもの、情あるものとしてわれわれにその「ほんとうの姿」を開示してくれる。これが有情化体験である。

福島章氏は宮沢賢治によって生命的に見られた自然が、自然の「本当の姿」だと述べている。近現代にも宮沢賢治のように自然を生き生きと感じる人は確かにいる。ただ一般的に言えば現代の人は合理的であり、古代人は非合理的だと言っていい。「自然と一体になって溶け合ってそこに調和したかと思うと、逆に眩惑され、翻弄され、恐怖の中に投げ込まれたりもする。」とあるが『やし酒飲み』でも娘は「眩惑され、翻弄され、恐怖の中に投げ込まれ」ているのが分かる。

ユングの『個性化とマンダラ』から再度引用する。

精神病者の考えはさしあたっては全く訳の分からない性質を持った産物である。それは神経症の作り出すものとはまるで異なっている。後者については全く訳が分からないとは言えない。神経症が作り出すものは人間的に理解できるが精神病の作り出すものはそういうわけにはいかない。

ユングは神経症は我々にも理解できるという。それは我々現代人は合理的で神経症的だからである。神経症の人を見て我々は「おれたちの悩みがもっと極端になったやつだな。」と思う。それに対して古代人は精神病のほうが理解しやすいかもしれない。古代人は精神病者を見て「おれたちの悩みがもっと極端になったやつだ。」と思うだろう。古代人は非合理的だからである。

福島章『天才 創造のパトグラフィー』から引用する。

哲学者フーコーの指摘をまつまでもなく、西欧の近代化は「理性の原理的選択」にもとづいており、現代人の平均的な生き方は知性・理性・実利などといったものにのみ心を奪われて自然や肉体に背を向け、内なる狂気・不条理・情熱・欲動など、もろもろの非理性を排除抑圧しているといえよう。人間のイメージを樹にたとえていえば、大地にしっかりと根を張り、仲間の樹々と伍して逞しく天に向かってゆく原始林のような人間から、しだいにこぎれいにまとめあげられた盆栽か、切り花として花器に活けられた植物のような人間になってきつつあるのではないか。

我々現代人は自分の本当の気持ちを押し殺して暮らしている。私は現代のほうが古代より優れていると思っている。しかし確かにフーコーの言う通り進歩してきたことで忘れてしまった大切なものがあると思う。実際精神病の患者は薬物療法で精神病が治ってしまうと、生活が生き生きしなくなったと言う。なかには病気が治って生活があまりに平板になったので自殺する人もいると言う。

古事記の人も現代に住むと同じように感じるのかもしれない。

私は何も合理主義が悪いと言っているのでも、非合理主義がいいと言っているのでもない。合理主義も大切だ。しかし非合理的なインスピレーションも同じくらい大切にしないといけないと言いたいだけだ。

もう一点付け足しておく。岡田尊司の『統合失調症 その新たなる真実』から引用する。

近年、統合失調症の有病率の低下が、いくつかの国や地域で報告されている。イギリスやデンマークやニュージーランドで行われた研究で現象が報告され、平均的な減少率は、この十~二十年で三十五パーセントにも上る。また統合失調症の症状も軽症化の傾向にあるとされる。そうした事実に基づいて、統合失調症は消滅していく過程にあるという「統合失調症消滅仮説」を唱える人もいる。

著者は最終的にはこの報告を完全には信用できないと言っているが、私個人的にはありそうな話だと思う。現代は合理主義が浸透している過程なので非合理的な統合失調症はなくなっていくのはよく分かる。特に欧米のような先進国で合理主義の浸透が著しいので先進国で特に減少しているというのは私の意見と符合する。ただ現代では途上国でも合理性が浸透しているのであれば途上国でも減る傾向にあるのかもしれない。その辺は確認していない。

続きはクレッチマーによる天才の本質をご覧ください。


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