精神病の妄想を理解できる場合2

ほとんど同じ例だが私の経験した例を挙げておく。数年前の四月の上旬に私は用事があって電車で街に出かけた。早い時間からの用事だったので午前六時に家を出た。四月とはいえ早朝でありけっこう寒かったので少し厚めのコートを着て出かけた。すると昼頃には朝の寒さは嘘のようになりけっこう暑くなった。コートを脱ぐのが面倒で着た状態でバスを待っていた。すると性格の悪そうな女子高生二人が私にわざと聞こえるように「マジ暑苦しいんだけど。」と文句を言う。しかし合理的に考えれば私は文句を言われる筋合いはない。コートを着ているのは私であって彼女たちではないからだ。私は彼女たちにコートを着せようとしたなら文句を言われてもいい。しかし当然そういうわけでもない。私は一切悪くないのだ。

しかし彼女たちの気持ちも分からんではない。彼女たちも合理的には彼女たちが暑くなるわけではないと分かっている。しかし無意識的には彼女たちは「暑い」と思っているのだ。もし彼女たちが「暑苦しいんだけど。」ではなく「暑い!暑い!」と言い出したら「あ、この女子高生おかしい」とみな思うだろう。しかし実際は彼女たちは理性では自分は暑くないと分かっている。

似たような例はいくらでもある。例えば『ラストオブアス』というゲームでロバートという登場人物がジョエルという登場人物から地べたに抑えつけられる。ジョエルはロバートから情報を得ようとするがロバートは口を割らない。口を割らせるためジョエルがロバートの肘関節を折る。露骨に「ボキッ」と音がする。かなり衝撃的な場面だが、その瞬間ゲームを見ているプレーヤー側も「痛い!」と思う。これは無意識では自分が肘を折られたかのような感覚を持つからである。自分の腕がおられたのでないことは理性では分かっている。しかし無意識では自分の腕が折れたのと区別がつかない。

このように精神病の妄想の中でもすべての人に共通する無意識の動きに関するものであれば実は少し考えれば理解可能である。しかしそれとは違って完全に個人的な体験が混ざっていれば理解できない。たとえばある精神病者が昔ポテトチップスを食べていた時に大きな地震に襲われたとしよう。それ以来ポテトチップスを見ると「揺れる!揺れる!」と言いながらパニックになったとする。これは事情を知らない第三者は一切理解できないはずだ。個人的な体験が入るととたんに他人には分からなくなる。

岡田尊司の『統合失調症 その新たなる真実』から引用する。

ある若い女性のケースを例に引こう。彼女は自分が人気ミュージシャンから愛されているという妄想を抱いていた。彼女にとってテレビや雑誌を見ることはスリリングで心騒ぐ楽しみであった。というのも彼女を愛しているミュージシャンが、番組の最中にあるいは雑誌の記事のなかで、あるいは歌う歌詞に託して、彼女に向けた特別のメッセージを送ってくるからだった。番組の最中にも彼は大胆不敵にも、彼女に合図を送ってくるのだ。彼女だけを強く見つめてきたり、意味深長な言葉を口にする。彼女は恥ずかしくてドキドキしてしまう。「私のことを全部知っているんです。そういうことってあり得るんですかね。」とか「番組中なのにそんなことまで言っていいのかなって、私の方が心配になって。」と気を揉むのだ。
テレビカメラを通して彼が何をしようと、あなたに彼を見ることはできても彼にはあなたの姿は見えないよ、と指摘したところで効果はない。彼女はただ自分の言っていることを信じてくれていないと思うだけだ。
薬物療法によって、睡眠障害や神経過敏の興奮は改善したが、妄想自体は取り去られることなく持続した。彼女は自ら薬を飲み、ひとり暮らしするようになってからも、自分で通院して薬をきちんと飲み続けた。薬を飲むことで神経過敏にならずに安定した生活が送れることを、彼女は分かっているのだ。しかしことが妄想の部分になると話が違った。そこは彼女にとって譲れない一線なのだ。

言うまでもなくこの患者の信念は妄想だ。彼女の信念は理解不能だと多くの人は思うだろう。しかし私はおそらく8割の人は説明されれば理解すると考える。以下説明する。

世の中にはアイドルという職業が存在する。アイドル達はカメラに向かって渾身の笑顔を振りまく。ファンたちはそれを見て精神的に癒されるという商売が成立している。ファンたちは当然「アイドル達はカメラに向かって笑顔を振りまいているにすぎない」と理性では知っている。しかし無意識では「アイドル達は自分に笑顔を振りまいている」と思っている。要は幻想を楽しんでいるのだ。「アイドル達はカメラに向かって笑顔を振りまいているにすぎない」と意識だけではなく無意識でも思っている人も世の中には確かにいる。その人はアイドルのファンではないはずである。幻想を楽しめないからだ。そもそもアイドルに興味を持たないはずだ。

アイドルという職業が存在しない国もある。そういう国の人は「アイドル達はカメラに向かって笑顔を振りまいているにすぎない」と無意識でも思っているはずだ。しかし若くてかっこいい男性や若くて美しい女性がカメラに向かって微笑むという文化がある国の人は、「アイドル達は自分に笑顔を振りまいている」と無意識では思う人の割合は多いはずだ。あるアイドルファンは「アイドルとは元気をくれる人だ」と言っていた。無意識のもつ幻想で元気をもらうのだ。

健康な人は「アイドル達はカメラに向かって笑顔を振りまいているにすぎない」と理性では知っている。が、精神病者はこの合理性が消えてしまうため、アイドルが本当に自分に笑顔を振りまいていると思ってしまうのだ。表にするとこうなる。

意識 無意識
アイドルのファン カメラに微笑む 自分に微笑む
アイドルに無関心 カメラに微笑む カメラに微笑む
精神病者 自分に微笑む 自分に微笑む

ホラー映画も同じだ。我々はホラー映画の内容が現実ではないと頭で知っている。しかし無意識では現実と思う。完全に現実の場合とは衝撃度は違うだろうが、現実と思っている。だから怖いのだ。我々はある程度無意識の感じ方が意識できる。「ホラー映画が現実だ」と無意識では思っていることをある程度意識化できる。これを「無意識に心が開かれている」と表現する。それに対して超合理主義者はホラー映画を見ても「これ現実じゃないよ。何が怖いの?」と言う。超合理主義者も本当は無意識では現実と感じているのだが、それを意識化できない。これを「無意識に心が開かれていない」と言う。この言葉の使い方を覚えておいてほしい。この後も出てくる。

精神病者は「無意識に心が開かれ過ぎている」人だ。無意識の働きが活発過ぎて意識が侵食される。これを「無意識が意識に侵入してくる」と言う。逆に神経症者は「無意識に心が開かれなさすぎている」人だ。本当は無意識が苦しんでいるのにその無意識の訴えに耳を傾けないため病気になる。超合理主義者だ。「考えれるけど感じれない。」と述べた超合理主義者は「無意識に心が開かれていない」典型である。精神病と神経症は正反対の病気と言える。

精神病についてけっこう分かりやすく解説できたのではないかと思う。実は分かりやすさにはかなりこだわっているので、「分かりやすい」と言ってもらえると正直うれしい。分かりやすさに私の存在意義があると言ってもいいくらいだ。後2回分くらい準備の論述が続いてそれからいよいよ天才論に入る。

続きは現代人と古代人の精神の違いをご覧ください。


■上部の画像はゴッホ

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